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【毎日更新】天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある
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冷凍倉庫の温度には、十二年分の重さがある⑦

 琴生駅で氷見と別れた。


 氷見は、駅の構内で、軽く一礼してから、人混みの中に消えた。彼女の背筋は、改札を抜ける瞬間まで一度も曲がらなかった。歩く速度も、人混みに合わせて遅くなることはなく、彼女は彼女の速度で、まっすぐに進んでいった。


 俺は、商店街のアーケードを抜けて、いつもの細い間口に向かった。


 扉を押すと、低い鈴の音が鳴った。


「お帰り」


 マスターはカウンターの内側にいた。今日は布巾でカップを拭いていなかった。代わりに、コーヒー豆を計量する小さな秤の前に立って、豆の重さを確認していた。客は、奥の四人席に学生らしい二人組と、窓際の席に、また文庫本を読んでいる老人がいた。同じ老人なのか、別の老人なのか、判別はつかなかった。


「マスター、戻りました」


「はい」


 俺はカウンターの一番奥の席に座った。


「コーヒーを」


「はい」


 マスターは、計量を中断して、湯を沸かす作業に入った。湯を沸かし、カップを温め、ドリッパーをセットし、豆を計り直し、湯を細く落とす。一連の所作は、いつも通りの速度だった。


 俺は、カウンターに肘をついて、両手で顔の半分を覆った。


 冷凍倉庫から出てきた身体が、ようやく外気の温度に慣れ始めていた。バスと電車で琴生まで戻るあいだに、指先の感覚は完全に戻っていたが、肺の中の空気の温度感覚が、まだ一段ずれていた。喫茶店の暖かい空気を吸い込むと、肺の奥がじんわりと温まり、その温まる感覚が、逆に「冷えていた」ことを思い出させた。


 今日は、人を、半分壊した。


 藤代の十二年分の異能を、根のところまで戻した。彼自身の人格には触れていない、と言えば、確かに触れていない。だが、彼の中で、十二年かけて拡張してきたものを、外側から「縮め直した」のは確かだった。彼の意志ではなく、俺の意志で。


 それは、剪定だった。淀みの種の剪定として、俺の業務の範囲内だった。


 業務の範囲内であることと、俺の中で何かを残すことは、別の話だった。


 マスターがコーヒーを置いた。


 湯気が立っていた。


 俺は両手で顔を覆っていた手をゆっくり下ろして、カップを引き寄せた。最初の一口は、いつもより熱く感じた。冷えた肺と、温かい液体の温度差が、いつもより大きかった。


 二口、三口と飲むうちに、肺の奥の温度感覚が、だんだん他の身体の部位と揃っていった。


 マスターは、カウンターの内側で、豆の計量に戻っていた。秤の針が動く音が、低く聞こえた。窓際の老人がページをめくる音、奥の学生二人組の小声の会話、コーヒーをドリッパーから抽出する音。それぞれが、それぞれのリズムで、独立して聞こえていた。


 ばらばらだった。


 俺は、四口目を飲んでから、マスターに、訊いた。


「マスター、人の十二年って、どれくらいの重さなんでしょうね」


 マスターは、秤を見ていた手を、止めた。


 止めたあと、また同じ速度で動かし始めた。


「十二年は」


「はい」


「私の店が、ここにあるよりは、長いですね」


 マスターは、それだけ言った。


 短い返答だった。マスターはそれ以上の論評をしなかった。


 俺は、五口目を飲んだ。


 マスターのこの店が、ここにあるよりも、藤代の怒りの方が長かった。マスターはそれを、軽くも、重くも、判定しなかった。ただ、長さの比較だけを、口にした。


 その比較が、俺の中で、何かをわずかに整理した。


 藤代の怒りは、長かった。長かったというだけのことだった。長かったから正当化される、というわけでもなく、長かったから断罪される、というわけでもなかった。ただ、長かった。それを、俺は今日、外側から短くした。それが、俺の今日の仕事だった。


 俺は、コーヒーを飲み終えてから、しばらく、カップの底を見ていた。


 窓の外、商店街のアーケードの向こうに、北の空が細く見えていた。秋の薄い昼下がりの中で、月よりやや小さい白い円が、いつもどおりそこにあった。


 動かない。消えない。形も変わらない。


 藤代の十二年も、早川の今日からの数日も、俺の指先の体温も、全部、あの円の下で起きていることだった。あの円は、それを観ている。観ているだけで、介入はしない。介入するために、あの円は俺たちを置いている。


 だから、俺は、明日もたぶん、こういう一日を続ける。


 大学の講義に出席だけ取って、喫茶店に来て、マスターにコーヒーを淹れてもらって、北の空を見る。たまに氷見が現れて、たまに七海が現れて、たまに面倒くさい仕事が舞い込む。終わったらまた、ここに帰ってくる。


 帰ってきたあとに、マスターが「お帰り」と言ってくれる。


 その「お帰り」が、たぶん、俺の今日を、終わらせている。


 俺は、空のカップを、マスターの方に少し押し出した。


「お代わり、いいですか」


「はい」


 マスターは、二杯目のカップを温めるところから、始めた。


 湯気が、二度目の湯気が、立ち始めた。


 俺は窓際の方を一度だけ見た。文庫本を読んでいる老人は、ページを一枚めくるのに、ずいぶん時間をかけていた。あの老人にも、あの老人なりの十二年が、あるのかもしれなかった。


 判別はつかなかった。判別をつける必要も、たぶん、なかった。

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