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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
アーケードの二階には終わらない朝が積もっている
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アーケードの二階には終わらない朝が積もっている②

 アーケードを歩く速度は、俺と七海でほとんど同じだった。雨の日は、商店街の床のタイルが、所々で艶を含む。長く拭かれていないタイルと、まだ新しいタイルの境目が、雨で濡れるとはっきりする。歩いているのは俺たち以外には、傘を畳んだ初老の男が一人と、ベビーカーを押している若い母親が一人。それだけだ。


「依頼の経路、聞いてもいいか」


「うん。組合のお茶会で、お婆ちゃん仲間の一人が、ぽろっと話してたんだって。ふみさん、最近、朝、玄関先まで降りてこないって。前は、五時三十分過ぎに新聞を取りに、必ず、降りてきてたって」


「お茶会を観測してるのか、お前らは」


「ボクらじゃないよ、組織の方の観測網が、地域の集まりを薄く見てる。お婆ちゃん仲間のお茶会から、お婆ちゃんの異変が拾われるのは、わりと多いケース」


 七海は、組織、と平らな声で言った。普段の砕けた口語の間に、その単語だけが少しだけ角張って差し込まれる。俺がその語に反応しないことを確かめるように、ちらりとこちらを見た。俺は反応しなかった。


「それで、本人は今、どういう状態なんだ」


「半年前から、手順を変えると体が動かなくなる。だから、変えない。変えないと、毎朝、五時十六分に起きて、五時二十五分まで、決まった通りに体が動く」


「変えないなら、無事じゃないか」


「変えないでいる間に、別の方が、削れてる」


 七海は、足を止めずに前を見たまま言った。


「日中、お婆ちゃんの口数が、どんどん減ってる。ご近所と立ち話をしなくなった。買い物の量が減って、自分で作る惣菜も、決まったものだけになってる。ご亭主の好きだったもの、ばかりに」


「……なるほど」


「五時十六分から、五時二十五分までの九分間で、お婆ちゃんの一日が、ぜんぶ、決まっちゃう。残りの二十三時間五十一分は、お婆ちゃんがお婆ちゃん自身で過ごす時間のはずなのに、その時間が、毎日、少しずつ、九分間に吸われていってる」


「儀式の形骸化、ってやつか」


「うん。最初は、ちゃんと意味があったんだよ。毎朝、ご主人を偲ぶ。それが、十年で、意味じゃなくて手順だけが残った。手順は、そのままだと、別の方向に固まる」


 雑居ビルの一階のシャッターが、目の前まで近づいてきた。アーケードの天井からの斜めの光が、シャッターの上半分に当たっていて、塗装の剥げた跡を細かく拾い上げている。「小料理 ふみ」の看板の、読めない文字の部分が、近づいてみると「ふみえ」とほのかに読み取れた。経営者と、店の名前が、同じだった。


 ビルの脇に、二階に上がる外階段がある。錆びた手すり、踊り場には植木鉢が三つ、どれも雨に濡れて、葉が綺麗に保たれている。手入れが、続いている。


「お婆ちゃん、毎朝、五時三十分以降に、植木鉢に水をやってたんだって。今は、五時二十五分の言葉を唱えた後、しばらく動けないから、植木鉢の水は、雨の日にしか足りない」


「それで枯れていない、というのは、運だな」


「運じゃなくて、雨の日が多い土地なんだよ、ここ」


 七海は階段の手前で立ち止まり、二階を見上げた。それから、こちらを見て、声音をひとつ落とした。


「ボク、上には上がらない方がいいと思う。お婆ちゃんは、ボクの顔、知らないし、女の子が二人で訪ねてきたら、お婆ちゃん、たぶん、混乱する」


 女の子、と七海は言った。俺はその言い方を聞き流した。聞き流せるか、自分でもよく分からなかったが、聞き流すことにした。


「分かった。俺一人で、上がる」


「うん。何かあったら、呼んで。下、いるから」


 俺は、外階段の一段目に足を掛けた。錆びた鉄の上に、雨の音が、薄く溜まっていた。


 アーケードの内側に、外気と違う温度の空気が、薄く流れていた。


 二階の窓が、見える範囲で、ぴたりと閉じていた。

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