2章 しずかにひらく、學び舎
「なあ、櫻井」
次の日、学校の休み時間に廊下で吉野が話しかけてきた。あたし、こいつと話したことあったっけ? そういう距離感だったっけ?
「…何…」
やや警戒しつつ答えると
「昨日のやつ、その…どう思った」
「どうって…」
そんなの、吉野にあたしが答える義理はあったっけ。
背中に変な汗がにじむのを感じる。
「…ごめん」
どう答えていいかわからず、踵を返す。上履きがキュッと音を立てた。なんかさっちんが恋しくてたまらない。
「はー、聞いてさっちん」
「おー、どしたどした」
前の席に横座りしてこっちを見てくれてるさっちんにホッとしつつ、あたしは教室内を見回して、吉野がいないのを確認してから小声で言った。
「吉野に廊下で声かけられた」
「あら、人気者さん♪」
「やめてよーー。なんかあいつキモい。何考えてるかわかんないとこあるし」
がたた、と誰かの椅子が音を立てる。
「それなー。うーん、でも、悪いやつじゃなさそうだけどね」
「なんでそう思うの?」
「んー? いや、知ってるってほどじゃないけどさーあ、あいつっていろんなこと、良く見てる感じする」
「そういえばあいつ、昨日褒められてたっけ」
「うん、口数少ないけど、なんかいろいろ考えてるんだろうなーって思うよ」
「さっちん、どしたの。もしかして興味が」
「ないないないないない。アタシのタイプ、未来知ってるでしょー」
「それなーー」
きゃははは、とやや大きめの声が教室内に響いたところで鐘が鳴った。一限目の開始だ。
体育の時間、女子だけで体操着に着替えている時、席が近いほのかが話しかけてきた。
「ミック、そのシャツかわいいー」
「えー、ありがと。こないだ買ってもらったんだ」
「ね、なんか昨日の男性のやつ、行ってきたんだって?」
どきり、と心臓が一回跳ねた。
「え、誰から聞いたの??」
「なんか、ビミョーにウワサになってるよ。三人、下公にいたって」
誰かに見られたのか。別に悪いこととかしたわけじゃないのに、何か弁解しなきゃならないみたいな焦りが出てくる。
「それで、どうだったの? ウチ、なんか気になっちゃって」
「んー…えー、説明、めっちゃムズい」
「えー!そんなに難しかったん?」
「いや、そうじゃないんだけど…なんて言うのかな…プ…プライベート…すぎて…?」
「なにそれなんかヤバいやつ?!」
ほのかが妙に食いついてくる。なんか情事でもあったと思ってるのだろうか。
「…じ、次回があるっぽいから、一緒来てみる…?」
こうしてあたしは、まさかの新メンバー勧誘をしてしまった。
なぜだ。どうしてこうなった。
「おや、新しい子だね。ようこそ」
一道さんはメロンパン片手に、笑顔でほのかを迎えてくれた。照れつつも嬉しそうにほのかは握手している。この子はミーハーなのか何なのか。てかメロンパンて緊張感のカケラもないな。
人数が増えたので、片側三人がけのコンクリ椅子に、一道さん、さっちん、あたし。もう片側にほのか、吉野が座る形になった。この並びなら挟まれてもよかったかも、と少し思う。
「雨が降らなくてよかった。青空教室は天候に弱いからね」
にこにこと、機嫌良さそうに微笑みながらメロンパンの最後の塊を口に放り込む。髭はきれいに剃ってあるし、着ているものも清潔感はある。なのに、なんだろうこの違和感というか胡散臭さは。
「あの! 一道…さんは、お仕事何されてるんですか?」
ほのかが切り込んだ。ん、確かに気になるな、それ。何してたらこうなるわけ?
「フリーターやってるよ。掛け持ちバイトいろいろ」
ざあああ…。風が木々を揺らしていく。
…なんとなーくビミョーな沈黙が場に流れる。まさかフリーターとは。
ほのかは、どう返していいかわからずあわあわした後、目線を落として静かになってしまった。てか、彼女は何を期待してたのだろう。
「フリーターは嫌いかい?」
「いえ! …いえ、そんなことは…」
もごもご。否定はするものの、それ以上はコメントできないようだ。
「みんな、面白い題材が出てきたから少し話してみよう。フリーターって、どんなイメージがあるかな?」
一同、目線を上に上げたり、落としたりして、思考モードに入る。
「はーい」
「お、さっちん」
「なんかー、不安定で頼りないイメージがあります」
うわ、本人目の前にしてそれ言うか。お腹の辺りがチクチクしてくる。
「うん!いいね。他には?」
いいんだ?
「はい」
「吉野くん、どうぞ」
「企業とかの長時間残業とかに縛られないで、休みたい時に休める感じがします」
「うん!いいぞ。どんどん行こう」
「えっと、はい…」
「えーと…あ、名前…」
「ほのかです!」
あ、言っちゃった…。説明しとけば良かったかな…。
「ほのかさん、どうぞ」
一道さんは特に問題にせずに続きを促した。
「あの、失礼だったら申し訳ないんですけど、ウチはフリーターって聞くと、その、け、経済力が…なさそうかな、って…」
最後は小声になっていく。わかる、わかるよ、ほのか。
「ほのかさん!」
「! はいぃ?!」
ビクッとしてほのかの肩が3センチくらい飛び上がった。
「今の発言、とても尊敬します! ものすごく勇気が必要だったと思う! それでも自分の本音を口にすることは、ことこの日本においては、決して生優しいことではないからだ。発言してくれて、本当にありがとう!」
「…ふぇ…??」
前のめりに褒めちぎる一道さんに、何が起こったかよくわからない、という感じのほのか。こう言っちゃ悪いかもだけど、なんだか二人のギャップがめちゃ面白い。
「未来さんも、意見はあるかな?」
あたしにも来た。どーしよ。うーん。
「…フリーターって、したくてなる人と、したくなかったのになっちゃった人がいると思います」
「ほうほう」
みんなのあたしへの視線が少し変わったように感じた。…変なこと言ってないよね?
「お父さんが言ってた。国が派遣社員を増やして正社員を減らしたから、貧しい若者が増えて、結婚したくてもできない人も多くいるって。だから、普通に正社員になろうとしたのに、なれなくて仕方なくフリーターでつないでる人もいると、思い、ます…」
「未来さん、ありがとう。お父さんとはよくこういう話をするの?」
「えと、はい。父はよく喋る人で、こっちが聞いてなくても喋り続ける所はあるんですが…」
「ウケるw」
さっちんがいつもの調子で合いの手を入れてくれる。さっちんがいるとホッとするー。
「でも、父ってなかなかいいこともちょいちょい言うので、そう言う時はあたしも質問したりして、長々話すこともあるんです」
一道さんは目を閉じて何か考えている様子だったが、目をカッと開くと
「素晴らしい…」
え? 泣いてる? 何で??
「未来さんはお父さんという先人から、多くを受け取っているんだ。みんな、これはとても大切なことだよ。自分を大切にしてくれる人から受け取ることは、あなたを守る知恵や知識、勇気を与えてくれる。未来さん、お父さんとの関係、そのまま大切にしてね」
「…え…あ、はい…どうも…」
何とも言えない思いを胸に、あたしは黙り込んだ。
「ねぇ」
え、さっちんの声の温度がおかしい。どしたの、さっちん…?
さっちんの背中は丸まっていて、いつもの明るい表情は消えていた。目の焦点がどこにも合っていない。
「なんか、大切にしてくれない人の場合、どーしたらいいの…」
さっちんはそう、うつむいて独り言のように呟いた。
何でだろう。
一道さんの空間では、心が勝手に開いていくみたいだ。
いや、開くというより、開いてしまう、開けるつもりがなかったのに、あいてしまう。そんな感じだ。ふしぎ。
小学校からずっと一緒で、さっちんの事なら何でも知ってるつもりだった。
つもりだったのに
あたしの隣で、あたしの知らないさっちんの闇が、ぱっくりと口を開けていた。
みんな、何て声をかけたらいいのか、いや、声をかけていいのかどうかすらわからなかったと思う。
これ、一道さんどう返すんだろう。
「ああ…」
一道さんが顔を歪めた。身体のどこかがどうしようもなく痛む、みたいな、そんな悲しみにも見えた。
「大切に、されなかったんだね…」
ぽた、ぽたた
さっちんはうつむいて、組んだ両手をおでこに当てたまま、涙をこぼし始めた。
「…すまない…」
一道さんはさっちんの背中にそっと左手を置いた。
さっちんは背中を丸めたまま、肩を振るわせていた。しばらくすると、ひっく、ひっく、と泣きじゃくり始めた。
「…ぅ…ぅぁあぁあぁーーー…」
人気のない公園に、さっちんの泣く声が響く。
不思議と、本当にふしぎと、気まずい雰囲気は誰も感じていないようだった。
ただ、みんなでさっちんの痛みと涙を共有する、そんな不思議な時間がしばし流れた。
「…ティッシュ…」
「あ、ごめん」
あたしはカバンからポケットティッシュを取り出し、さっちんに5枚渡してあげた。
涙と鼻水をティッシュに預けてから、さっちんは一道さんの方を向いた。
一道さんは、まるでお父さんのような優しくてあたたかな微笑みで彼女を見つめた。
さっちんの目に、大粒の涙がまたぶわっとこぼれた。
「…っ、…ひぃーーーーん…」
さっちんは一道さんの左肩にすがりつき、わんわん泣いた。すがりつかれてびっくりしたのか、一道さんは左手を宙でしばし彷徨わせていたが、ほどなくして同じ左手でさっちんの背中を、まるで幼い子をあやすように繰り返し繰り返し、ぽん、ぽん、とたたいていた。
誰も、何も言わなかった。
街灯が灯って、薄暗い公園が一気に明るくなった。目が慣れなくて眩しい。
さっちんが顔を上げて一道さんを見た。表情がなんだか柔らかくなって、急に魅力的になったように見えた。少なくとも、あたしにはそう見えた。
「…へへっ…あー、気まず…カッコ悪…恥ず…」
「そんなことないよ。涙は心のデトックスだからね」
一道さんが優しくさっちんの左肩を持って、寄りかかっていた彼女を元に戻した。
「さて、みんな、さっちんの涙のことは、ここにいるみんなだけの秘密にしてくれるかな?」
誰からも異論はなかった。そこにいたあたしたち全員が、なんだか心が洗われたような清々しい気持ちになっていたと思う。…少なくとも、あたしはそう思ったんだ。
…いや、吉野はどうだったんだろ。あいつだけは、わからん。




