5.甘い毒と無自覚な檻
「……はぁ」
パソコンの画面に表示された求職者の職務経歴書を見つめながら、私は本日何度目になるか分からない溜め息を吐き出した。
キャリアアドバイザーとしての午後の面談を終え、社内システムにヒアリングシートを入力するキーボードの音が、静かなオフィスに響く。
あのあざとさ空振り事件から、数週間。
私は仕事をそつなくこなしつつ、合間を縫っては霞森神社へ通い詰め、東雲聖真という男の懐に潜り込むべく、あらゆる「男を狂わせる毒」を撒き散らしてきた。
不意に見せる可憐な上目遣い。
術を教えてもらった時の、少し大袈裟な感嘆と尊敬の眼差し。
手を滑らせたふりをして触れそうになる指先。
前世でも今世でも、この容姿ゆえに男から言い寄られることなど日常茶飯事だった。男という生き物がどういう言動に弱く、どう扱えば容易く転がるかなど、身をもって知り尽くしている。
私は半妖としての矜持もプライドもあるが、復讐という唯一の目的のために完璧な「男好みの可憐な女」を演じきっていたはずだった。
だが、あの男——東雲聖真には、その毒が一切効かないのだ。
『花さんは本当によく頑張るね。そういう一生懸命なところ、すごく素敵だと思うよ』
『失敗したって別にいいんだからね。俺がついてるんだし、焦らずやっていこう』
——全敗。
キャリアアドバイザーとして普段は人の心理を巧みに読み取る側にいる私だが、聖真の前には何の手応えも得られずにいた。
聖真が私の仕掛けに動じないのは、男として慣れているからではない。私に対して好意を抱いているからこそ、私が自分に計算や駆け引きを仕掛けているとは微塵も疑わず、「可憐で素直な可愛い言動」としてまっすぐに受け止めてしまうからだ。
私の渾身の演技は、彼の純粋すぎる全幅の信頼によって綺麗に無害化されていた。
(……なんなのよあの男!! 毒を盛られていることすら気づかずに……っ!!)
悔しさと屈辱でEnterキーを叩く指に力が入る。
男を狂わせるどころか、屈辱に震えているのは私の方だ。必死に仕掛けた演技を「可愛い人だな」と純粋に照れながら受け止められるたび、私のプライドはズタズタに引き裂かれ、猛烈な怒りで顔に血が上るのを抑えられずにいる。
「……今日こそは。今日こそ絶対に、あの崩れない余裕を叩き割り、私の毒で狂わせてやるんだから……!」
定時までに残務処理を終わらせ、私は逃げるようにオフィスを後にした。
鳥居を潜り、夕暮れに染まる石段を登る。
すっかり見慣れた拝殿に到着すると、既に羽織姿の聖真が拝殿の前に佇み、こちらに気づいて嬉しそうに目を細めた。
「あ、花さん。お仕事お疲れ様。今日も来てくれて嬉しいよ」
「東雲さん……。こんばんは、今日もお邪魔します」
すかさず「貴方に会えて嬉しい」と言わんばかりの可憐な笑みを張り付ける。
だが、聖真は柔らかく微笑むと、拝殿の縁側をポンポンと叩いた。
「さ、上がって上がって。仕事帰りでお腹空いてるでしょ? 近所の人から美味しそうなどら焼き貰ったんだ。一緒にお茶にしようか」
「あ……ありがとうございます」
縁側に腰を下ろすと、香ばしいお茶の香りが漂ってくる。
(よし……まずは距離を詰める基本からよ。今日こそこの無防備な懐に毒を叩き込んでやる……)
お茶の湯呑みを受け取る際、私はわざと指先を彼の手に重ねるようにして滑らせ、少し驚いたように伏せ目になった。
「あ……ごめんなさい、手が触れてしまって……」
上目遣いで彼の反応を伺う。これだけの至近距離で露骨に触れ合えば、いくら恋愛に疎い聖真でも動揺し、男としての毒が回るはず——
「ううん、別に謝らなくていいよ。……それより花さん、手がすごく冷たくない? オフィスで冷房に当たりすぎちゃったのかな。温かいお茶、淹れ直そうか?」
「……っ! い、いえ! 大丈夫です!」
聖真は一瞬だけ照れたように頬を緩めたものの、邪気のないまっすぐな瞳でこちらの体調を心配してくる。
……効かない。毒が何一つ通じない。
男を惑わせるどころか、私を一切疑わない純粋な優しさによって不発に終わっている事実に、全身の毛穴が開くほどの激しい屈辱が込み上げる。
(くっ……! この私が……ここまで完璧に空振りさせられるなんて……!!)
怒りと屈辱で真っ赤になった顔を誤魔化すように、私は急いでお茶を口に含んだ。
私をそんな愛おしそうな目で見つめるな。お前は前世で私を殺した男の血族であり、私が絶望の底に突き落として殺すべき相手なのだから。
「そういえばね、花さん。例の『気が漏れ出している理由』なんだけど」
聖真は表情を真摯なものに改めると、傍らに置いてあった古い和綴じの書物を開いた。
「神社の蔵にあった古い資料を調べてみたんだ。花さんみたいに、ずっと平穏に暮らしていたのに突然強大な霊力が表に出始めるケース……過去にもいくつか記録があってね。本人が無意識のうちに抑え込んでいた巨大な力が、何かのきっかけで溢れ出したり、強い因縁を持つ存在と接触したことで反応を起こしたりすることが多いみたいなんだ」
「……原因となる……接触……」
思わず声を低くする。
生まれた時から前世の記憶を抱えて生きてきた私が、なぜ『今』になって急に怪異を引き寄せるようになったのか。前世の宿敵である男の子孫聖真との遭遇…これが引き金だったのだろうか。
「花さんが神社にいない間も心配だからさ……これ、持っててほしいんだ」
そう言って聖真が袖口から取り出したのは、丁寧に仕立てられた錦のお守りだった。手に取ると、微かに霊力が宿っているのが伝わってくる。
「俺の霊力を込めた特別なヒトガタを入れておいたんだ。これを持っていれば、普通の低級な幽霊や妖怪くらいなら勝手に弾き返してくれるから。……花さんに何かあったら俺、嫌だしさ。肌身離さず持っててね」
まっすぐで、一切の駆け引きがない言葉。
私になんの疑いも持たず、自分の霊力を削って作ったお守りを手渡してくる。かつて強力な妖怪だった私が、敵の力で「守られる存在」として庇護されているという屈辱的な事実が、胸の奥をチクリと刺した。
(……笑っていられるのも今のうちよ。その綺麗な顔を、絶望と狂気で塗り潰してやるんだから……!)
沸き立つ憎悪を必死で殺しながら、私は受け取ったお守りを強く握りしめた。
その時だった。
グラッ、と。
拝殿を包んでいた清涼な気が、微かに歪んだ。
「……? 結界が……?」
聖真が即座に立ち上がり、鋭い視線で境内の森を見据える。
静寂を保っていた結界が、何か「外からの異物」を拒絶するように激しく軋む音を立てていた。だが、私には分かってしまった。その結界を揺らしている異物の波長が、私の内側で眠る『前世の妖力』と酷く似通っていることに。
「花さん、俺の後ろに隠れてて」
さっきまでの柔らかさが嘘のように、絶対的な強者としての凛とした威圧感が聖真から立ち昇る。
私を背中に庇い、すっと紙札を構える彼の背中を睨みつけながら、私は胸の奥で苛烈な炎を燃やした。
(私を無害な女だと思うな……。お前が油断してその背中を見せた瞬間こそが、私の毒針を刺す時なのだから……!)
己のプライドと復讐心を改めて鋭く研ぎ澄まし、私は嵐の予感が漂う参道の奥を見つめた。




