6.歪んだ影は、花を喰む
参道の奥から漂ってくるのは、重苦しく湿り気のある不穏な気だ。
闇を割るようにして静かに姿を現した『影』を見つめた瞬間、私の息が止まった。
(……嘘……っ。なんで、千影が……!?)
月光を背に受けて鳥居の側に立っていたのは、闇に溶け込むような藍錆色の髪を揺らし、琥珀色の瞳を怪しく光らせる一人の男だった。
私と同じ「犬」の血を引きながらも、より獰猛で高貴な血統を持つ「狼の妖怪」。
前世で半妖として蔑まれていた私に対し、妖怪としての誇りが高い癖に「お前は特別だ」と何かと強引につきまとってきた、忘れるはずもない男だ。
(あいつ……東雲聖真と出会ったことで私の魂の奥から漏れ出し始めた『あの頃の波長』を感じ取って追ってきたんだわ……!)
本能的な危機感が背筋を駆け抜ける。
かつて一族を滅ぼすほどの霊力を誇ったあの男の血族——東雲聖真の本当の恐ろしさを、千影はまだ知らない。
雑魚妖怪なら一瞬で浄化してしまう聖真が、眼前の男を「紙札で誤魔化せる生ぬるい相手ではない」と一瞬で見抜き、命を刈り取るための白鞘の懐刃を抜いたのだ。
このまま戦えば、命の奪い合いになる。千影が殺される……!
「待っ……!」
思わず止めようと声を上げかけたが、とっさに口をつぐんだ。
今の私は「霊力に怯える可憐な普通の人間」のはずだ。ここで妖怪を庇うような真似をすれば、聖真に正体を疑われる。
(ダメ……今ここでバレるわけにはいかない……っ! 私の目的は、この男を狂わせて復讐することなんだから……!)
葛藤に苛まれながらも、私はとっさに恐怖に震えるフリをし、聖真の羽織の裾をギュッと強く掴んだ。
「東雲さん……! 私、怖いです……っ!」
「……大丈夫だよ、花さん」
聖真は一振り返り、絶対に打ち破れない強い眼差しで微笑んだ。
「君には、指一本触れさせないから。……絶対に俺が守る」
神速の刃が、夜の静寂を切り裂いた。
「チッ……!」
退治を狙った一撃だと察した千影は瞬時にバックステップを踏んだものの、神聖な気が刃から迸り、頬を深く切り裂いて赤い血を散らす。
強烈な威圧感に引き下がざるを得ないと悟った千影は、深い闇の奥へと姿を消した。
「逃げられたか……。でも、もう大丈夫だよ」
慣れた手つきで刀を納めた聖真は、すぐさま私の方へ駆け寄ってくると、腰を抜かしたフリをして座り込んでいた私の目線に合わせてかがみ込んだ。
そして、当然のように私の頭をポンポンと撫でてくる。
「俺のお守りをしっかり握りしめててくれたおかげで、無事でいてくれた。……ありがとう、花さん」
頭頂部から伝わる手の温もりと、邪気のない称賛。
そして何より、仇であるはずの男に助けられ、庇われたという事実。
(……っ、ふざけないでよ……!!)
感謝される謂れなんてない。守られる筋合いだってない。
復讐のターゲットである男に庇護され、あまつさえ一瞬でも安堵しかけた自分が恐ろしいほど腹立たしく、恐ろしいほど熱が全身を駆け巡る。
「……顔、真っ赤だね。やっぱりショックが大きかったのかな。送っていくよ」
「……っ! い、いえ! 大丈夫です、一人で帰れますっ!!」
私は逃げるように聖真の手を振り払い、拝殿を飛び出した。
背後からの制止の声を無視して、石段を転がるように駆け下りる。
熱を持ったままの頬が、夜風に晒されて痛いほどだった。
鳥居をくぐり、薄暗い夜道へと走り出たところで、ふっと上空から影が落ちた。
「——久しぶりだな、花」
見上げると、電柱の上に、先ほど逃げ去った千影が静かに腰掛けていた。
彼はしなやかな動作で降り立つと、足音もなく距離を詰め、私の腕を強引に掴んで引き寄せた。
「千影……! 無事だったのね……っ」
「……そういえば、今の名前も『花』なんだな」
千影は低く冷たい声で呟くと、掴んだ腕に力を込め、壊れ物を確かめるように私を抱き寄せた。
琥珀色の瞳に宿るのは、激しい怒りと暗い狂気だ。
「なんでお前が、あの男と一緒にいる?」
「……千影?」
「アイツは前世でお前を殺した奴らの血筋だろ。あんなに気高かったお前が、なんであんな奴に庇われて、大人しく守られてやがったんだよ!」
千影の吐き出す激昂に、私は冷たい笑みを浮かべて首を振った。
「懐いてなんかいないわ。私はあいつを私に狂わせて、何かもかも奪って地獄に落とすの。あの忌々しい血筋に絶望を刻みつけてやるために……!」
私の口から漏れ出た苛烈な憎悪の言葉に、千影は一瞬だけ目を見張り――やがて、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「……なんだ。そうだったのか」
千影は強引に私の顎をつまみ上げ、逃がさないというように顔を覗き込んできた。
頬の切り傷から滲む血を気にせず、帯びた瞳で囁く。
「なら、俺が手伝ってやる。あいつを……あの神社を、俺たちでグチャグチャに踏みつぶそうぜ。——復讐が終わったら、今度こそ、お前は俺のところに来い」
強引で相変わらずわがままな提案。
(昔と変わらないわね。相変わらず自分勝手なんだから……)
昔と変わらぬ「強引な悪友」の頼もしい提案に、私は胸の中で苦笑した。
千影の瞳に宿る熱視線が、単なる復讐への協力ではなく、私という存在への「異常な執着と恋心」から来るものだとは、やはりまだ私には気づけるはずもなかった。




