6.歪んだ影は、花を喰む(東雲 聖真 視点)
参道の奥から立ち上る気配は、ただの雑魚妖怪のそれとは明らかに違っていた。
ねっとりと重く、湿り気を帯びた凶悪な妖気。
闇を割って現れた藍錆色の髪を持つ男——その頭上に覗く尖った耳と琥珀色の瞳を見た瞬間、俺の背筋を冷たい緊張が駆け抜けた。
(狼の妖かし……それも、かなりの格を持っている血統か)
普段街に現れるような小鬼なら、懐の紙札一枚で事足りる。だが、目の前の男はそんな生ぬるい「お祓い」で済む相手ではない。一瞬の油断が命取りになる。
迷いはなかった。羽織の隙間から、代々東雲の家に伝わる白鞘の懐刀を引き抜く。
神聖な霊気が刃身を走り、夜の静寂を打ち払うように冴え冴えとした光を放った。
「花さん、下がってて!」
背後にいる彼女を守るように庇い立ち、全身の霊力を研ぎ澄ます。
花さんは怯えている。華奢な体を小さく震わせ、俺の羽織の裾をギュッと掴んできた。
「東雲さん……! 私、怖いです……っ!」
湿り気を帯びた瞳で俺を見上げてくる彼女の姿に、胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさと、それを脅かす目の前の妖かしに対する苛烈な殺気が跳ね上がった。
大丈夫だ。俺が絶対に守る。
お前のような醜悪な化け物に、この可憐な人に指一本触れさせはしない。
「……大丈夫だよ、花さん」
俺は振り返り、彼女を安心させるために努めて優しく微笑みかけた。
「君には、指一本触れさせないから。……絶対に俺が守る」
一踏み。神速の踏み込みとともに懐刀を振り抜く。
刃から迸る神聖な気が夜気を切り裂き、狼の男へと襲い破った。
男は驚異的な反射神経で鋭い爪を立て、刀身を受け止めようとしたが、こちらの霊圧の重さに気づくと舌打ちをして疾風のごとくバックステップを踏む。
浅い。直撃は避けられたか。だが、刃から飛び散った霊気の残波が男の頬を深く切り裂き、鮮血を散らした。
「チッ……!」
男は切り裂かれた頬の血を拭うと、琥珀色の瞳で俺を射殺さんばかりに見つめた。
引き下がらなければ殺されると悟ったのだろう。男はそのまま深い闇の奥へと気配を消した。
(逃げられたか……。だが、追うより今は花さんだ)
血払いをし、手慣れた動作で刃を鞘に収める。
振り返ると、花さんは恐怖のあまり腰を抜かしたように参道へ座り込んでいた。
俺は急いで駆け寄り、彼女の目線に合わせて膝をついた。
「怖かったよね。怪我はない?」
あまりの恐怖に放心しているのか、彼女は小さく口を開けたまま声も出せないでいる。
無事でいてくれて本当によかった。彼女の頭にそっと手を置き、子供をあやすようにポンポンと優しく撫でる。
ふと見れば、彼女の小さな手は、俺が渡したあのお守りを痛いほど強く握りしめていた。
「俺のお守りをしっかり握りしめててくれたおかげで、無事でいてくれた。……ありがとう、花さん」
心からの感謝を口にすると、花さんの顔が瞬く間に赤く染まっていく。
可憐な頬に鮮やかなが差し、瞳を大きく見開いて俺を見つめてくるその姿はあまりにも魅惑的で、怯えさせてしまった申し訳なさすら一瞬忘れそうになるほどだった。
「……顔、真っ赤だね。やっぱりショックが大きかったのかな。送っていくよ」
心配になって手を差し伸べた、その時だった。
「……っ! い、いえ! 大丈夫です、一人で帰れますっ!!」
「あ、花さん——!」
彼女は弾かれたように俺の手を強く振り払うと、拝殿を飛び出し、転がるように石段を駆け下りていってしまった。
追いかけようと一歩踏み出したが、あまりに切迫した彼女の背中を見て足を止める。
……無理もない。あんな恐ろしい化け物を目の当たりにして、パニックになってしまったのだろう。強引に追いかけては、かえって彼女を追い詰めてしまうかもしれない。
「……すまない、花さん。怖い思いをさせた」
誰もいなくなった境内に、ぽつりとつぶやきが漏れる。
彼女が去っていった鳥居の向こうを見つめながら、俺は服の上から胸元に触れた。
彼女が触れていた羽織の裾には、まだほんのりと彼女の体温と、あの小さな手の残り香が残っているような気がした。
ふっと目を細め、俺は先ほど妖かしが消えていった暗闇の方角へと視線を移す。
さっきまでの柔らかさを完全に消し去り瞳の奥からすべての光を払い落とす。東雲の神職としての冷徹な殺気と、暗く歪んだ独占欲が静かに宿った。
(あの狼……花さんのこと知っているような目をしていたな)
ただの通りすがりの妖かしではない。明確な意志を持って、俺の『花さん』を狙っていた。
……渡すわけがないだろう。
彼女を恐怖に陥れる怪異も、彼女に馴れ馴れしい視線を向ける化け物も。俺以外の何者にも、彼女を触れさせるつもりはない。
「……大丈夫だよ、花さん」
暗闇に向かって、俺は誰も聞いていない約束をもう一度静かに呟いた。
「君を脅かすものは、俺がすべて祓ってみせるから」
握りしめた白鞘の冷たさと相反するように、胸の奥でドロリとした熱い独占欲が鎌首をもたげていた。




