4.徒花は毒を抱く
拝殿の奥へ足を踏み入れると、そこには張り詰めた清涼な気が満ちていた。
薄暗い拝殿の鴨居の上には、漆黒の羽に微かな金の光を纏わせた八咫烏が静かに羽を休めており、聖真の足元には、美しい鱗を輝かせる白蛇がしなやかに佇んでいる。
おそらく索敵や結界の維持を担うサポート要員の式神なのだろうが、それらがどれほど緻密で高度な術式で維持されているかが一目で分かった。
(……あのレベルの式神を、日常の補助として常時展開しているの? まさか、これほどの実力者だったなんて……)
聖真は木机の前に腰を下ろすと、冷たいお茶を淹れてくれた。
「どうぞ、花さん。……急に神社に呼ばれて、少し怖かったでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
お茶を一口含み、私はふと胸の中に引っかかっていた疑問を口にしてみる。
「あの、東雲さん。私……今まで生きてきて、あんな奇妙な怪異に襲われたことなんて一度もなかったんです。先日、東雲さんに助けていただいたのが、生まれて初めてのことで……」
「えっ……? 今まで一度も?」
私の言葉に、聖真は驚いたように目を丸くした。
「花さんは……自分がどれだけ澄んだ、綺麗な気を持っているか気づいていないだろう? 普通、これほどの霊力があれば、小さな雑魚妖怪や浮遊霊を引き寄せてしまうはずなんだ。今まで一度も襲われなかったことの方が、不思議なくらいだよ」
「……どうして急に、あのタイミングで襲われてしまったのでしょうか」
「うーん……何かがきっかけで花さんの気が表に漏れ出してしまったのか、それとも……何か別の理由があるのか。今の段階でははっきりしないけれど、そこも追々解明していこうね。だからこそ、自分の身を守る術を覚えておくに越したことはないよ」
「……はい、よろしくお願いします」
不安そうに頷きながらも、私の心には小さな波紋が広がっていた。
(これまではただの人間として何の不自由もなく暮らせていた。なぜ『今』になって急に怪異が襲ってきたのか……?)
復讐とは別に、自分自身の身に起きている奇妙な違和感。
それを頭の隅に留めながら、私はスカートをそっと掴んだ。
「じゃあ花さん、まずは基本の『魔除け』の術式から見せるね。リラックスして見ていて」
聖真が木机の上に置かれた一枚の紙札に指先を添えた。
彼が軽く息を吐いた瞬間、拝殿の空気が一変する。
——ッ!
圧倒的な密度の霊力が、聖真の指先から札へと一気に注ぎ込まれた。
彼が疾風のような手つきで札を空へ滑らせると、青白い鋭い光が拝殿の空間を一閃し、パンッという清澄な音とともに空間の歪みが完璧に浄化された。
無駄が一切ない、極限まで磨き上げられた完璧な手際。
世の雑魚妖怪など、この一閃だけで灰も残さず消滅するだろう。
「よし、こんな感じかな。急に全部覚える必要はないから、花さんのペースでやってみようか」
術を解いた聖真は、何事もなかったかのようににっこりと柔らかく微笑んだ。
自分の圧倒的な実力を鼻にかける様子すらない、絶対的な強者の余裕。
(……見事な術式。無駄が一切なくて、惚れ惚れするほど強い……)
身体はただの人間になろうとも、かつて強者として死線をくぐり抜けてきた私の魂は騙せない。
圧倒的な力を前にして、無意識のうちに武者震いが走り、戦いを求める本能がぞくぞくと熱く沸き立つ。
強者への敬意と、それ以上に深い場所で燃え上がる対抗意識。
あやうく前世の癖で歓喜に目を細め、不敵な笑みを浮かべそうになり、私はすんでのところで息を呑んだ。
「……すごく綺麗な光でしたね。手際も見事です」
素直に感嘆を漏らしつつ、私は渡された無地の札を指先で弄ぶ。
すると聖真は安心させるように優しく微笑み、ごく自然に私の頭をポンポンと撫でてきた。
「ありがとう。でも最初はうまくできなくて当たり前だからね。もし失敗したって、俺がすぐ隣で守るからさ」
力強くも優しい手つき。
大きな手のぬくもりが頭頂部に伝わり、ドクンと心臓が跳ね上がった。
(……な、なに無自覚に触ってきてるのよっ……!?)
一瞬乱れかけた息を必死で整え、冷や汗を引っ込める。
恋愛に疎いこの男は、自分がどれほど無防備で罪深い距離感で接してきているのかわかっていないのだ。
(……ほんと、余裕たっぷりなことね)
自分に向けられるまっすぐな瞳に可笑しさと僅かな焦りを感じながら、私は札を指に挟み直す。
(いいわ、その余裕。油断したまま懐に潜り込んで……その綺麗な顔が私に狂わされる瞬間を、じっくり楽しませてもらうから)
私は小さく口角を上げ、心の中で静かに毒の刃を研ぎ直した。




