閑話.観察者の嘲笑
「正直、今の会社には失望してるんです。大手だから入ったのに、やってることは研修と雑用ばかり。俺の市場価値が下がる一方なんですよ」
面談ブースに滑らかな声が響く。
対面に座る男は、整えられた髪に、少し崩したスーツを着こなした新卒一年目の22歳。
有名私立大学から大手メーカーに就職したという彼の履歴書を、私は手元で軽くなぞった。
「市場価値、ですか」
「ええ。学生時代、俺はイベントの立ち上げとかやってて『即戦力』として動ける自信があるんです。なのに会社は『まずは社会人の基礎から』なんて悠長なことを言ってくる。俺の実力なら、もっと裁量のあるベンチャーでバリバリ成果を出せるはずなんです」
自慢げに胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべる男。
彼が誇らしげに語る「イベント立ち上げ」など、学生時代に大人の用意したお膳立ての上で踊っていただけに過ぎないことを、本人は全く理解していない。
今だって、大手という巨大な看板の威光を、自分自身の力だと錯覚しているのだ。
己の血や境遇を言い訳にせず、泥をすすりながら生きてきた私からすれば、この男の底の浅さなど透けて見えるどころか、滑稽で白けてしまうほどだ。
(……片腹痛い)
柔らかく微笑みながら、胸の内で冷ややかな毒を吐く。
群れのルールすら覚えていない雛鳥が、一人前に空を飛べる気でいる。
人間は、本当に愚かで扱いやすい。特に、己の力を過信した無知な若者は。
「あなたのように優秀で、意欲に溢れた方でしたら……そうですね。こちらの『急成長中のベンチャー企業』はいかがでしょうか? 完全実力主義で、新入社員でも泥臭い営業から過酷な新規開拓まで、全て一人で背負うことになります」
印刷した求人票をテーブルに並べ、そっと差し出す。
「大手の看板という守りも捨て、過酷な現場でご自身の実力を証明する……。高い志をお持ちのあなたなら、地道な実績を積んで圧倒的な成果を出されると思いまして」
(大手のぬるま湯を愚弄したのだから、泥水をすする覚悟くらいあるのでしょう?)
暗に覚悟を試すように微笑んだ私に対し、男はあからさまに不満げな顔で求人票を押し返してきた。
「は? 営業……? 新規開拓ですか?」
心底心外だとでも言いたげに、男は鼻で笑う。
「あのさぁ、野原さん。俺が言ってるのはそういう雑用レベルの話じゃないんですよ。俺のスペックなら、現場の営業なんて飛ばして、もっと組織の中核として事業の戦略を練ったり、新規事業の立ち上げを統括するポジションで働くべきでしょ。なんで俺が飛び込み営業なんてしなきゃいけないんですか?」
(……は?)
ピキリ、と胸の中で何かが断裂する音がした。
新卒一年目の、実績も何一つない青二才が、一体どの口で「組織の中核」などと抜かしているのか。何一つ泥を被る覚悟もないくせに、格好良い横文字のポジションだけを欲しがる浅ましさ。
今すぐその整った前髪を掴んでデスクに叩きつけ、「鏡を見てから出直せ」と罵倒してやりたい衝動が突き上げる。
……だが、私はそれをコンマ一秒で抑え込み、深く納得したように頷いて見せた。
(……良いでしょう。そこまで言うなら、望み通りの夢を見せてあげますわ)
「――なるほど、大変失礼いたしました。田中様が見据えていらっしゃるのは、既存の枠組みの維持ではなく、『ゼロから事業を立ち上げ、組織を牽引していくフェーズ』なのですね」
相手の身の程知らずな言い分をスマートなビジネス用語に変換して返し、トーンをわずかに落として秘密を打ち明けるように身を乗り出す。
「それでしたら……こちらの求人は、まさに田中様のご希望に沿うかもしれません。表向きは新規開拓の募集ですが、実態は『将来の事業責任者候補』を募るポジションなんです。決まったマニュアルがないからこそ、ご自身のアイデアで市場を開拓し、組織の基盤を作っていくことが求められます」
男の瞳に、あからさまな興味の色が浮かぶ。
「ただ……こちらの企業様は完全実力主義ですので、提示されるミッションの難易度はかなり高めです。型にハマった研修を求める方には到底お勧めできませんが、『自ら戦略を立てて現場を動かしたい』という強いお考えをお持ちの田中様でしたら、非常にやりがいを感じられる環境かと存じます」
(実際は野放しの放置現場。誰も助けてくれない飛び込み営業地獄で『戦略』なんて通用しないことを、その無駄に高いプライドごと打ち砕かれてくるといいわ)
あくまで「あなたのキャリア志向に合わせた提案」という体裁を崩さず、相手に「俺の凄さを理解して、特別な提案をしてくれた」と錯覚させる。言葉の端々に毒を忍ばせ、自尊心を限界まで煽り立てる。
男の瞳に、まんまと乗せられた愚かな優越感と熱気が宿った。
「それですよ! 俺が求めていたのはまさにそういう仕事です! ぬるい大手で腐るくらいなら、俺の頭脳でその会社を引っ張って見せますよ!」
そう言い切ると、彼は並べた求人票の中から、私が指し示したベンチャー企業の紙を力強く叩いた。
「よし、ここに決めました。今すぐマイページからエントリーします!」
「ふふ、素早いご決断、頼もしいです。では、私の方からも企業側の担当者へ『非常に優秀で熱意のある方です』と推薦文を送っておきますね」
スマホを取り出し、意気揚々と応募ボタンをタップする男を見下ろしながら、私は心の中で冷酷に嘲笑った。
ベンチャーで彼を待っているのは、自分の無力さを突きつけられる容赦ない現実だ。
大手の看板を失った彼に、話を聞いてくれる客などいない。研修がないということは、誰も彼を助けないということだ。
己の愚かさに打ちのめされ、プライドを粉々にして泣きを見るがいい。
それが、群れを甘く見た雛鳥への、人間社会の厳しい教育だ。
「本日はありがとうございました、野原さん! あなたみたいな親身で理解のあるカウンセラーに担当してもらえて良かったです!」
すっかり私を「唯一の理解者」だと信じ込んだ男は、爽やかな笑みを残して去っていった。
ブースに残された私は、PCの画面に冷めた視線を送る。
(……本当に、つまらない)
人間の弱点——承認欲求やプライド——を突けば、どんな人間でも思った通りの足取りで罠へ落ちていく。観察対象としてはあまりに扱いやすく、手応えがない。
やっぱり、人間なんて大嫌いだ。
薄っぺらくて、単純で、言葉一つで思い通りに転がるだけの愚かな存在。
(……あの男以外は)
不意に脳裏をよぎった顔に、胸の奥が不快感でキュッと締め付けられた。
東雲聖真。
あの日、私を助けた神職の男。
どれだけ冷たくあしらっても、どれだけ嘘の笑顔で遠ざけようとしても、一切の裏表がない純粋な善意で懐に踏み込んでくる。
プライドも欲も揺さぶることができず、私の計算をことごとく狂わせる、不愉快な例外。
「……ハッ」
自嘲混じりの鼻笑いを漏らし、私は立ち上がった。
どれだけ思い通りにならない男だろうと関係ない。あいつは私から全てを奪った男の血筋なのだ。手のひらの上で転がせないなら、じっくりと時間をかけて絶望の底へ叩き落としてやるまでのこと。




