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番外編.野犬の牙と、朱の血滴(千影 幼少期編)

夜風が山々を吹き抜ける少し前、夕暮れ時の深い山奥。


樹木が激しく切り刻まれ、倒木が転がる惨状の真ん中で、私は肩で息を突いていた。


「はぁ……っ、はぁ……っ! 見たか……っ! 私は、負けない……っ!」


足元で白目を剥いて倒れているのは、このあたりの山を縄張りにしていた猪の怪異だ。


全身泥まみれ、着物の袖は破れ、腕も足も擦り傷だらけ。それでも私は、足をもつれさせながら仁王立ちし、血の味のする唾を吐き捨てた。


(弱ければ奪われる。守られるだけの半妖じゃダメなんだ。強くなって、もう二度と……誰にも私を舐めさせない……!)


胸の奥で渦巻く怒りと理不尽への拒絶。

人間に毒を盛られたあの日から、私の世界は牙を剥くことでしか保てなくなっていた。

そんな私の強がりを嘲笑うように、頭上から不敵な声が降りかかる。


「ハッ、相変わらずボロボロじゃねぇか。弱っちい半妖のくせに意地だけ張りやがって。見ててヒヤヒヤすんだよ」


しなやかな跳躍とともに木の上から降り立ったのは、藍錆色の髪を揺らす少年——千影だった。

腕を組み、泥だらけの私を見下ろす琥珀色の瞳には、いつもの呆れたような、どこか小馬鹿にしたような色が浮かんでいる。


「なによ……! 勝ったんだからいいでしょ! あんたに口出しされる筋合いなんてないわよ!」


「あぁん? 誰に口叩いてんだ。……つーか、お前」


千影の軽薄な笑みが、ふっと消えた。

一歩。たった一歩で、息が触れ合う距離まで間合いを詰められる。


「な、なに……っ!?」


咄嗟に身構える私。

だが、千影の視線は私の顔ではなく、首元に注がれていた。

着物の襟ぐりが大きく破れ、鎖骨のあたりに生々しい小さな擦り傷がある。そこから、赤黒い血がひとしずく、ゆっくりと伝い落ちていた。


(……喉の奥が、カッと熱くなる)


千影の胸の奥で、異質な衝動が跳ねた。

弱々しい半妖のくせに、命を削るように荒々しく牙を剥く少女。

その肌を滑る純度の高い生命の赤。

ゾクゾクとするような狂おしい熱が、千影の脊髄を駆け抜ける。

千影は無言のまま、強引に私の顎を掴み上げた。


「きゃっ……!? な、離し——」


「動くな」


低い制止の声と同時に、首元に温かいものが触れた。

ペロッ……


「っ……!?!?」


熱い舌が、傷口の血を舐めとる感触。

頭が真っ白になった。耳の先まで一気に熱が吹き出し、私は声も出せずに目を見開く。

千影はゆっくりと顔を離すと、唇を舌でなぞり、不敵に口端を吊り上げたた。


「……ふん。甘ぇんだよ、味が。お前、血まで半端だな」


「な、何すんのよバカ千影!! 汚い!! 気持ち悪い!!」


真っ赤になった私は、パニックのまま力任せに拳を叩きつけた。

千影は「痛ぇな! 泥と血で汚ねぇから拭いてやったんだろーが! 感謝しろよ!」と悪びれもせずに笑いながら、私の拳を軽々と受け流す。


「騒がしいと思えば。……獣の真似事は他所でやれ。花が嫌がっている」


不意に、冷ややかな声とともに、美しく閉じた扇が千影の頭にすっと振り下ろされた。

ゴツン!


「いってぇ!! ……あぁん? 琉弥、てめぇ……!」


木陰から姿を現したのは、銀髪を月光になびかせた琉弥だった。瑠璃色の瞳で千影を冷たく射抜きながら、そのまま静かな足取りで私と千影の間に割り込んでくる。


「花、お前もだ。怪我をしたならすぐ手当てをしろと言ったはずだ。無駄な血を流すな」


「琉弥……! だって、千影が勝手に……っ!」


「分かっている。……千影。己の卑しい飢えを、この子で紛らわすな」


琉弥の言葉には、刃のような静かな圧が含まれていた。だが、千影は鼻で笑い、頭の後ろで手を組む。


「……ハッ、飢えだぁ? 何言ってんだよ琉弥。俺はただ、暇つぶししてただけだっつーの」


琉弥はそれ以上千影を相手にせず、優雅な所作で私の手首を取り、傷口に冷たい薬草を施してくれた。


「……くっ、冷た……」


「我慢しろ。……次からは、無茶をする前に俺を呼べ」


「……うん。ありがと、琉弥」


琉弥の冷たくも確かな温もりに胸を撫で下ろし、私は小さく息を吐いた。


少し離れた場所で、千影は二人のやり取りを黙って見つめていた。

親指で自分の唇をそっと拭い、そこに残る血の味を確かめる。


(暇つぶし、か。……嘘だな)


自分でも届かない胸の深みで、何かが確実に根を張っていた。

あの折れない強い瞳。今にも噛み千切らんと剥き出しにされる牙。そして、舌裏に残る甘い血の感覚。

気味が悪いほどに、頭から離れない。


(……笑ってんじゃねぇよ、花。その牙も、その血も……お前を狂わせていいのは、俺だけだ)


琉弥に手当てされながら照れくさそうに笑う私の背中に、千影は琥珀色の瞳を怪しく光らせ、逃がさないと言わんばかりの濃密な視線を投げかけていたのだった。

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