番外編.徒花にささめく月影(琉弥 幼少期編)
山々の緑が少しずつ濃くなり始めた、柔らかな陽射しの差し込む午後。
「琉弥! 千影! こっちだよ、早く!」
いつになく嬉しそうな声を響かせ、山道をパタパタと先走っていくのは花だ。
猪との闘いで作った傷も癒え、相変わらず無鉄砲に裾を翻して走る姿に、俺は静かに溜め息を吐いた。
「……花、あまり走るな。転んでまた怪我をしても知らんぞ」
優雅な足取りで並んで歩く俺の横で、千影は頭の後ろで手を組み、心底怠そうに鼻を鳴らす。
「ったく……急に呼び出してきたと思ったら、何なんだよ。『とっておきの場所に連れてってあげる』だぁ? くだらねぇ用だったら承知しねぇからな」
「くだらなくないよ! ふたりを……私の家に招待したかったの」
立ち止まった花が振り返り、どこか誇らしげに胸を張った。
「前は山の中でバタバタしちゃったでしょ? だから今日は、ちゃんとお父さんとお母さんにふたりを紹介したくて。うちの美味しいご飯、お腹いっぱい食べていってよ!」
「ハッ! 朧丸様の御前でメシ食えだぁ? 冗談じゃねぇ……狼の俺から見ても、おいそれと気安くお近づきになっていいお方じゃねぇんだよ、あのお方は」と悪態をつく千影だったが、花に手首を強く引っ張られると、文句を言いながらも大人しく従っていた。
やがて見えてきたのは、山中に深く静かに佇む、重厚で立派な屋敷。
門をくぐる際、すれ違った従者の男が花へ深く頭を下げた。
だが、その頭を下げた角度の隙間から、男が花に向けた冷ややかで侮蔑に満ちた視線を、俺は逃さなかった。
(……チッ、半妖の出来損ないが。お頭様の血を引いているからと調子に乗りおって……)
すれ違いざま、極めて小さくボソリと吐き捨てられた卑しい小言。
人間の血が混じる花には届かなかったその呟きも、妖怪である俺と千影の耳にははっきりと届いていた。
千影は琥珀色の瞳に殺気をみなぎらせ、「あぁん……? 今なんつった、てめぇ……」と即座に低く唸り、腕を伸ばしかける。
俺はそれを静かに手で制しつつ、男へ底冷えするような冷酷な視線を投げつけた。
当の花だけが、その視線や小言に気づかぬ振りをして必死に背筋を伸ばし、「こっち!」と俺たちの手を引っ張っている。
(……下劣な羽虫が。身程知らずな口を利く)
喉の奥で冷たい不快感を覚えながら、俺は花の小さな手を握り返し、奥の間へと足を進めた。
だが、奥の間へ通された瞬間、世界の空気はガラリと変わった。
「まあ……! 花ちゃん、お帰りなさい。あら、お友達を連れてきてくれたの?」
出迎えてくれたのは、柔らかな朱色の着物を纏った人間の母親——藤子だった。
そしてその背後には、山々を統べる圧倒的な威厳と妖気を纏った父親——犬の大妖怪である朧丸様がドスンと座している。
圧倒的な威圧感に身を構える千影をよそに、朧丸様は花を見ると、強面をふっと緩めてその小さな頭を大きな手でわしわしと撫で回した。
「ほのぼのと客など連れてきて、どうした花。また山で無茶をして怪我でも増やしてきたか?」
「もう、お父さん! 急に子供扱いしないでよ!今日は千影と琉弥に美味しいものを食べてもらおうと思って……!」
照れくさそうに暴れる花を、ご両親は愛おしそうに包み込む。
その光景はあまりにも温かく、門前で見かけた従者どもの卑しい侮蔑など一瞬で吹き飛ぶほど、純粋な「愛情」に満ち溢れていた。
人間からの毒に傷つき荒れていた花が、この温もりの中で大切に育まれてきたのだと痛いほど理解できる。
「まあまあ、遠くからのお客様ね。粗茶ですが、どうぞ」
藤子が出してくれた温かいお茶と甘味を、千影が朧丸様の放つ凄まじい妖気に当てられながらも強がって豪快に煽っている横で、俺はふとした疑問を拭えずにいた。
圧倒的な力を持つ大妖怪と、儚く弱い人間。
相反する存在が、なぜこれほど深く結びつき、愛を注ぎ合えるのか。
「……奥方様。一つ、お伺いしても?」
純粋な興味から、俺は静かに問いかけた。
「何かしら、琉弥くん」
「……あなたは人間だ。妖怪と添い遂げることの恐ろしさも、生まれてくる子の苦難も解っていたはず。……なぜ、妖怪の手を取ったのですか」
一瞬、静寂が部屋を支配した。
千影もお茶を飲む手を止め、花も緊張したように息を呑んでお母さんの顔を見つめる。
藤子は少し驚いたように瑠璃色の瞳を見つめ返したあと、ふんわりと穏やかな笑みを深めた。
「理由は……とても単純ですよ」
藤子は隣に座る夫——朧丸様へ愛おしそうな視線を向け、静かに言葉を紡ぐ。
「この方が、私を心から必要としてくださったからです。……妖怪であれ人間であれ、己の命をかけて自分を愛してくれる存在に出会えたなら、どんな苦難も怖くはありませんわ」
命をかけて、愛する。
目に見えず、冷徹な知恵と理で生きる妖怪には推し量りきれぬ、身勝手で狂おしい熱量。
(……己の命をかけて、か)
その言葉が、俺の胸の奥深くに冷たく、けれど激しく突き刺さった。
ふと視線を向けると、お母さんの隣で「お母さん、急に恥ずかしいこと言わないでよー!」と顔を真っ赤にしている花と目が合った。
泥に汚れ、人間に裏切られ、傷つきながらも気高く牙を剥く一輪の徒花。
(……そうか。お前もまた、いつか誰かに『すべて』を捧げられるのを待っているのか)
俺を見つめ返す花の紫の瞳が、無性に愛おしく、秩序を乱すほどに欲しくなる。
この少女が大人になり、誰かを愛する日が来るのだとすれば——その相手は、俺以外にあり得ない。
俺の瑠璃色の瞳に宿った濃密で意味深な熱に気づいたのか、花は「な、なに……?」と気圧されたように肩を小さく跳ねさせた。
「……琉弥? お前、何ニヤついてんだよ。気味が悪い」
千影が胡散臭そうに俺を睨みつける。
俺は何も言わずにただ優雅に微笑んでみせた。
人間の毒など、俺が知恵で全て排除してみせる。
従者どもの侮蔑も、この世の理不尽も、全て破滅させてみせる。
お前が望むなら、その命の全てすら捧げよう。
まだ恋という名も知らぬ幼い胸の奥で、俺はただ静かに、けれど逃れられない深い執着を、その少女へ向けて刻み込んでいた。




