16.影を連れて逃げる
「……チッ、なんだこの無機質な板切れは。叩けば文字が出る? 馬鹿馬鹿しい」
デスクの下で膝を揺らしながら、千影はディスプレイを睨みつけていた。
私に言われた通り必死にキーボードを叩いてはいるものの、人間を見下す彼の瞳には隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
それでも、周囲の人間はもちろん、あの男にすら決して察知されないよう、千影は自らの妖気を完璧に遮断していた。万が一にも東雲聖真に勘づかれれば、私の側から引き離されると分かっているからだろう。
「千影、声が大きい。まずは人差し指でゆっくり打って。……あと、エンターキーを叩き割る勢いで押すのはやめて」
「……ハッ、人間に使われるだけでも反吐が出るってのに、なんで俺がこんな小細工を覚えなきゃならねぇんだ」
舌打ちをしながらも、千影は素直に私の指示通り指先をゆっくりと動かし始めた。
人間を虫ケラ扱いする妖怪が、たかがExcelデータ入力の一行ごとに「これでいいのか、花」と確認してくる。そのあまりに不器用で必死な姿に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
前世から私を、一人の対等な存在として扱ってくれた男だ。
今もそうだ。嫌悪感で吐き気がするはずの人間社会にプライドを捨ててまで落ちてきたのは、ただ私を聖真から引き離し、手元に留めたいという一心からなのだと分かってしまう。
「はい、よくできました。……ほら、お茶。温かいのは嫌でしょ?」
「……フン。分かってるじゃないか」
文句を言いながらも、私が差し出したペットボトルのお茶を、千影はどこか愛おしそうに一口飲んだ。
そんな風にバタバタと指導をこなしているうちに定時を迎え、オフィスを出る時間になった。
(今日は何事もなく乗り切れた……)
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、エレベーターを下りてエントランスへ向かう途中、ガラス越しに屋外の広場が見えた瞬間、私の血の気が引いた。
夕闇が迫るオフィス街の広場。仕立ての良い服を着た男が佇んでいる。
東雲聖真だ。
「……ッ!?」
(なんで……!? また来たの……!?)
昨日突撃してきたばかりなのに、彼は今日も私に会うためにやって来たのだ。
千影はまだ気づいていない。だが、もしこのまま二人で正面から外に出れば、千影の顔を見た聖真は一目で思い出すはずだ。かつて境内であいまみえた、あの猛威を振るう狼の妖かしだと。
『なぜ花さんが、あの男と……?』
聖真のどこか冷徹で澄んだ瞳が頭をよぎり、心臓が握り潰されるような恐怖が襲う。
千影の正体が暴かれたら? 私が妖怪と繋がりを持っていると疑われたら? 復讐どころか、私の日常も、千影の立場も一瞬で崩壊する。
「花? どうした、急に立ち止まって——」
「千影、裏口から出るわよ!」
「は? なんでだ、正面から——」
「いいから来て!!」
私は千影のスーツの袖を強く引っ張り、逃げるように裏口へと走り出した。
背後で千影が怪訝そうに眉をひそめる気配を感じながらも、私はただひたすら、あの男の視線から逃れるように足を進めた。




