15.プライドを捨てた狼
「本日付でうちの部署に配属となった、一条千影さんです。中途だけど即戦力として期待しているから、みんなよろしくね」
課長の声に拍手が湧き起こる中、私は手にしていたペンを床に落としかけた。
一条千影——?
仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、爽やかな笑みを浮かべて頭を下げる男。
千影。前世からの悪友であり、人間社会に溶け込む気なんてサラサラなかったはずの狼の妖かしが、なぜか私の目の前に立っていた。
(前職の実績……? 経歴……? 一体どうやって……)
動揺する私をよそに、千影は一直線に私へと視線の先を向けた。その瞳の奥に宿る、妖しく冷たい光。
そして……周囲の人間には見えていないだろうが、彼の額にはうっすらと青筋が浮かび、人間の群れに囲まれる強烈な嫌悪感で不機嫌そうに喉を鳴らしているのが分かった。
「指導係は……そうだな、野原さん。頼めるか?」
「え……私、ですか?」
断る間もなく、千影の席は私の真隣に決まった。
周囲の目を盗み、デスクの下で拳を強く握りしめる私に、千影はパソコンの画面を覗き込むフリをして、優しく耳元へ顔を寄せた。
「……久しぶりだな、花。人間に混ざって『キャリアアドバイザー』なんておままごと、楽しそうじゃないか」
「千影……! なんでここに……! あなた、人間が大嫌いなはずでしょ? それに一条って何よ」
「人事に少し術をかけたんだ。面接も書類も全部でっち上げた。苗字が必要だって言うから『一条』にしたんだよ。俺は一番が好きだからな」
クスクスと低く笑う声。けれど、その吐息はどこか荒い。
千影にとって、人間の作った社会組織なんて術一つでどうとでもなるおままごとに過ぎない。だが、その愚かな人間に囲まれ、同じ空気を吸うこと自体、妖怪としてのプライドを持つ彼にとっては吐き気がするほどの屈辱のはずだ。
ふと、彼の背後に幻影が見えた。
人間に扮している間は隠しているはずのふさふさとした耳と尻尾が、私にしか見えない焦燥の妖気となってゆらりと揺れている。
そこまでして、なぜ——。
「あの男……宿敵の子孫を手元に置いて、一体何をしてる?」
周囲に聞こえないギリギリの低い声。千影の琥珀色の瞳が、激しい焦りと苛立ちで昏く濁る。
「昨日、あの男がここまで来たのを見たぞ。お前……あいつの見え透いた善意に絆されかけているだろう。どんどんあいつと同じ顔になっていくお前を見てたら……焦って、耐えられなくなったんだよ」
「千影……」
「俺がどれだけ我慢して、こんな反吐が出るような人間の巣窟に足を踏み入れたと思ってる? お前が望むなら、いつでも俺があの男を殺してやるのに」
「……私の問題よ。あなたには関係ないわ」
「関係なくねぇよ! 前世で共に生き、お前が人間に裏切られて命を落としてから数百年……俺がどれだけの想いでお前を探し続け、ようやく再会できたと思ってんだ!」
千影の手が、キーボードを叩く私の手元を、壊れものを扱うように強く、けれど愛おしそうに包み込む。
人間を見下し、術で嘲笑う冷酷さとは裏腹に、私に向けられる指先には狂おしいほどの重い熱が込められていた。
「俺はお前を認めている。昔も今も、誰よりもな。だからこそ……あんな偽善者の人間に、お前の心が奪われていくのを見るのは耐えられないんだよ、花」
千影は私を「半妖」などと見下したりはしなかった。いつだって対等な一人の存在として、私を尊重してくれた。
けれど、人間を心底蔑んでいる狼の妖かしが、数百年越しの執着とプライドをかけて、人間のフリをしてまで私を繋ぎ止めようとしている——その歪んだ愛の重さに、胸が潰されそうになる。
これから始まるであろう波乱と、人間の仕事なんて端から馬鹿にしているこの男が職場で起こすであろうトラブルの予感に、私は眩暈を覚えながら天を仰ぐしかなかった。




