13.善意という名の罠
花さんが逃げるように去っていった拝殿の方角を、俺は布団の上からじっと見つめていた。
静まり返った母屋に、朝の光がゆっくりと差し込んでいく。
「……ふっ、あは……っ」
誰もいない部屋で、思わず口元から小さな笑いがこぼれた。
首元に触れると、昨夜彼女が何度も取り替えてくれた手ぬぐいの冷たさと、手首に残る感触が心地よく残っている。
肩や背中の傷は激しく痛むし、霊気を使い果たした身体は重い。けれど、俺の胸はこれまでにない満足感で満たされていた。
最初に出会った頃の花さんは、どこか余計な壁があって、完璧すぎるくらい可憐で慎ましい女性だった。
だが、神社での訓練を重ねるうちに分かってきた。彼女はどれほど辛くても絶対に「助けて」と言わない、とびきり意地っぱりで強情な人だということを。
(『バカなんですか、あなたは……!?』なんて……)
昨夜、叫んだ彼女の必死な顔を思い出し、胸の奥が甘く疼く。
猫を庇って怪我をした俺に、彼女は本気で怒り、呆れ、そして朝まで一刻も離れずに看病してくれた。
口では「訓練が滞るから」「手当てをしただけ」なんて冷たい言葉で突き放していたけれど、素直になれないだけで、本当は誰よりも情が深くて優しい。そんな彼女の『素直な素顔』を覗けたことが、たまらなく愛おしかった。
「ミィ……」
膝のあたりで、昨夜助けた野良猫が擦り寄ってきた。
その小さな頭を優しく撫でながら、俺はふっと目を細める。
実は、昨夜の戦い——広範囲を祓う術を使えば、あの鬼も影狼も一瞬で消し去ることができたのだ。
この猫だって、自分が傷を負わずに守る手段はいくらでもあった。
けれど、俺はあえて大技を使わず、泥臭く背中で攻撃を受け止める道を選んだ。
無茶をして血を流せば、あの心優しい彼女がどれほど焦り、自分を犠牲にした俺にどれほどの罪悪感と情を抱くか、分かっていたからだ。
(……ズルいかな、俺)
少しだけ胸の内でフッと悪戯っぽく笑う。
普段はどこか冷めていて、自分の世界に閉じこもりがちな花さん。そんな彼女の視線と意識を、どうしても自分だけに向けさせたかった。
自分の身を削ってでも「守られるだけの存在」として彼女の心に強く刻み込まれるなら、怪我の痛みなんて安いものだ。
俺の目論見通り、彼女は俺の傷口に触れ、俺のために手ぬぐいを絞り、朝まで傍にいてくれた。
「……逃がさないよ、花さん」
手首に残る彼女の温もりを確かめるように、俺はゆっくりと握りしめた。
どんなに冷たく突き放されても構わない。
君がどれだけ意地を張って壁を作ろうと、俺はその上から何度でも、溢れるほどの善意と優しさで君を包み込んであげる。
そうやって少しずつ俺なしではいられないようにしていくのが、今の俺の一番の楽しみなのだから。
「……さて、早く傷を治して、また彼女に会いに行かないとね」
澄んだ瞳に少しだけ意地悪で昏い執着を秘め、俺は一人、静かに微笑んだ。




