9.善意という名の侵食
奥の母屋で聖真の傷口を洗い、布を巻き終えてから、私は逃げるように拝殿へと戻ってきた。
他には誰もいない静まり返った境内に、夜の冷気がしんと降り積もっていく。
拝殿の階に腰を下ろした私は、抱えた膝の間に顔を埋め、止まらない胸のざわめきに一人耐えていた。
何度も水で洗ったはずなのに、指先にはまだあの男の生暖かい血の感触がこびりついている気がする。手当ての最中、激痛に耐えながらも、心底愛おしそうに私を見つめていた聖真のまっすぐで澄んだの瞳。
(……ウザい。本当に、ウザい男……!)
爪が皮膚に食い込むほど握りしめた拳が、怒りと、それ以上の「何か」で震える。
復讐のために近づいたはずだった。あの男を油断させ、自滅させるための罠だったはずなのに。手当てをする私に「ありがとう、花さん」と笑いかけた彼の声が、耳の奥で何度も反芻され、凍てついていたはずの胸を内側から焼き焦がしていく。
「……ミィ」
甘い鳴き声とともに、暖かな体が私の足に擦り寄せられた。
顔を上げると、そこにいたのは先ほど聖真が命がけで守った例の野良猫だった。
あんな猛攻の中にいたというのに、聖真が文字通り身を挺して庇いきったおかげで、毛並み一つ傷ついていない完全な無傷。
手当ての合間、激痛で青ざめた顔のまま「その子、お腹を空かせているから」と聖真に頼まれ、私が用意してやった水とご飯の器が、拝殿の隅に置かれている。すっかりこの境内に居座る気満々の顔で、猫は私の膝の上に丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「……なによ。あんなバカに庇われて、呑気なものね」
冷たく突き放すように呟きながらも、私の指先は吸い寄せられるように柔らかい毛並みを撫でていた。
猫の体温が指を伝うたび、さっきまで触れていた聖真の肌の熱と重なる。あの男は、自分の身を削って私を守り、この小さな命ごと自分の領域に抱え込んでしまったのだ。
「……っ」
指先が微かに震える。そう、あれはただのエゴだ。私の演技に騙されたバカな男の自己満足に過ぎない。
そう心の中で強く念じれば念じるほど、胸の奥のモヤモヤは黒く、重く膨らんでいく。
「……なに顔を赤くしてんだよ。気味が悪い」
頭上から降ってきた不機嫌な声に、私はハッと息をのんだ。
拝殿の屋根の端、満月を背にして腰掛けた千影が、こちらを見下ろしている。
影狼たちを操っていた時の冷酷な妖気を消し去っているはずなのに、その琥珀色の瞳にはいつもと違う、鋭く冷ややかな色が宿っていた。
千影は音もなく私の隣に跳び下りると、返事も待たずに私の顎をつかみ、強引に顔を覗き込んできた。
「……千影、なにを……」
「……お前、あいつの手当て、どんな顔してやってやったんだ?」
距離が近すぎる。千影の指先に力が入る。
いつもなら軽薄な笑みを浮かべてからかってくる男の瞳が、今は肉食獣のように昏く、私の一挙一動を恐ろしい精度で見開いていた。私の息の乱れも、手元の微かな震えも——すべて千影にはバレている。
「なにも……っ。ただの怪我の処置よ、離して」
「嘘つけ。お前、あいつの血で手を汚しながら、どんな顔してあいつのこと見た?」
千影の声が掠れ、恐ろしいほど低くなる。
膝の上の猫が異様な空気を察して威嚇するように「シャーッ」と喉を鳴らすが、千影は猫など目に入っていないように私だけを見つめ続けていた。
「お前が助けを求めないから、あいつは身を挺して庇いに来た。ここまでは予定通りだろ? なのに……なんでそんなに傷ついたみたいな顔してんだよ」
「傷ついてなんか……!」
「あいつの血を拭ってやって、毒でも回ったか?」
千影の顔がさらに近づき、耳元で吐息が混ざる。
爪が首筋に触れるか触れないかの強さで食い込み、嫉妬とも執着ともつかない熱い感情が、彼の身体から伝わってきた。
「忘れるなよ、花。お前を理解できるのも、お前の復讐に付き合ってやるのも、俺だけだ。あんな偽善者の温もりに絆されてんじゃねぇよ……胸くそ悪い」
親指で私の下唇をなぞり、吐き捨てるように言った千影。
その言葉は、私が必死に目を背けようとしていた真相を、容赦なく突きつけていた。




