7.狂花とふたつの牙
夜風が運ぶ冷気の中で、私は昔のことを思い出していた。
まだ私が「犬の半妖」としてこの世を生きていた、遠い幼い日の記憶だ。
当時の私は、人里離れた深い山の奥にある、重厚で立派な屋敷で暮らしていた。
私の父親は、このあたりの山々を統べる圧倒的な力と権力を誇る「犬の大妖怪」。
父の威光はすさまじく、周囲の妖かしたちは父の姿を見るだけで平伏し、娘である私にも頭を下げてきた。
「半妖の出来損ない」と陰で囁く者はいても、父の怒りを恐れて直接私に危害を加える妖かしなど、一人もいなかったのだ。
けれど、父の絶対的な庇護のもとで愛されて育ちながらも、私はどこか遠くを見るような母の寂しそうな顔を見るのが切なかった。
(お母さんを元気づけたい。母の故郷である人間の町で、母が喜ぶようなものを買ってあげたい……!)
そう思った私は、屋敷の手伝いをコツコツとこなして小さな銭を貯めた。
そして、ようやく母に贈り物を買えるだけの銭が貯まったあの日——。
「お母さん、今日一緒に町に行こう! 私、お母さんに買ってあげたいものがあるの!」
私が胸を張ってねだると、母は驚いたように目を丸くし、それから心底愛おしそうに目を細めた。
「はいはい。じゃあ、町に行く前のおまじないね」
母はそう言うと、私の頭上に生える犬の耳を隠すように、色鮮やかな朱色の頭巾を丁寧に巻いてくれた。
「綺麗な花ちゃん、これでよし」と頭頂部を撫でてくれる母の手の温もりが嬉しくて、私は得意げに笑った。
「人間どもに余計な隙を見せるなよ」と呆れ顔の父に送り出され、私は母の手を握って楽しげに山を下りたのだった。
だが、町に足を踏み入れた瞬間、世界の空気は一変する。
父の威光など一切届かない人間の町。
頭巾で耳を隠していても、かすかに漏れる半妖の気配を、町人たちは敏感に察知した。
『……見ろよ、あの女だ』
『妖怪に身を売って化け物を産んだ、穢らわしい狂人め』
『気味が悪い……早くどっか行けよ』
すれ違う人々が向けてくる、底冷えするような冷たい視線とヒソヒソ声。
母は何も言わず、ただ浅く笑みを浮かべて深く頭を下げ、私の手を強く握り返した。
母の手の震えが伝わってくるたび、胸が張り裂けそうになる。
(私はただ、お母さんを笑顔にしたかっただけなのに……)
申し訳なさと恐怖が幼い心に積もっていく。
そんな時だった。
「あらあら、可愛いお嬢ちゃん。朱色の頭巾がよく似合ってるねぇ」
町の端にある小さな甘味屋の前を通りかかったとき、店主の老女が優しく声をかけてきたのだ。
おばあさんは穏やかな目尻のシワを深め、焼きたての甘い匂いを漂わせるみたらし団子を差し出してきた。
「ほら、お食べ。頑張ってお買い物にきたご褒美だよ」
「……!お母さん、いいの……!?」
「まあ……ありがとうございます。花ちゃん、お礼を言いなさい」
母も私も、そのあまりにも温かな「人間の善意」にすっかり毒気を抜かれ、胸を撫で下ろした。
私は弾む心でみたらし団子を受け取り、大きな口で一口かぶりついた。甘じょっぱいタレの味が口いっぱいに広がる。
——次の瞬間。
「がぁ……っ、ぁあぁあああっ!?」
焼きごてを押し当てられたような激痛が、胃の奥から全身へ駆け抜けた。
喉が灼けつく。呼吸ができない。私は口から血と吐瀉物をぶちまけて地面に倒れ込んだ。
「花ちゃん!? 花ちゃん!!」
悲鳴を上げて私を抱きしめる母。
その背後で、先ほどまで穏やかに笑っていたおばあさんが、冷酷な蔑みの顔で吐き捨てた。
「ふん、化け物の種が。……半妖の頑丈な体じゃ一発で死なねぇか。とっとと連れて失せな、穢らわしい狂人め」
優しさの裏に隠されていたのは、容赦のない「毒」だった。
狂乱した母に抱えられ、命からがら屋敷へ連れ戻された私は、数日間にわたって生死の境をさまよった。
事態を知った父は激怒し、その町を一瞬で滅ぼしかねないほどの殺気を放っていたが、もはや私の心は戻らなかった。
(何もしていないのに……。私はただ、お母さんを喜ばせたかっただけなのに……!)
どんなに父が強くても、人間の「笑顔の裏にある毒」からは私を守れない。
どれだけ優しそうな顔をしていても、人間は平気で嘘をつき、笑顔で毒を盛ってくる。
猛烈な恐怖と、それを上回る理不尽への激怒。
私は母が巻いてくれた朱色の頭巾を破り捨て、耳を隠すのを金輪際やめた。
父の庇護に甘えるのもやめ、屋敷を飛び出して一人で山の中を荒れ狂うように駆け回るようになった。自分の弱さが許せず、爪で木々を切り刻んでは行き場のない怒りを撒きちらす毎日。
そんなある日。
「へぇ……半妖か。なんだよその目、殺気立っちゃってさ」
川辺で肩で息を突いていた私の頭上から、不敵な声が降りかかった。
見上げると、大きな木の上に腰掛け、退屈そうに木の実をかじっている一人の少年がいた。
闇に溶け込むような藍錆色の髪。頭上から生える尖った耳と、暗闇で琥珀色に光る強い瞳。
狼の妖かし——千影だった。
「なによ……! ジロジロ見ないで、どこかへ行ってよ!」
喉の奥から「グルルッ……」と低い威嚇音を漏らし、必死に牙を剥く私。
だが、千影は木の上からしなやかに飛び降りると、私の鼻先数センチのところまで一気に間合いを詰めてきた。
息が触れ合うほどの至近距離で、私の殺気立つ瞳をまじまじと見つめる千影。
……その瞬間、千影の琥珀色の瞳の奥で、静かに怪しい光が揺れた。
弱々しい半妖のくせに、今にも噛み千切らんばかりの恐ろしい牙と、底なしの怨念を宿した瞳。
千影自身もまだ気づいていない深い衝動——のちに底知れぬ執着へと育つ芽が、その胸の奥にひそかに宿った瞬間だった。
だが、千影はそれを表面には一切見せず、ただ軽薄に鼻で笑ってみせた。
「……ハッ、いい顔してんじゃねぇか。おい、俺に指図すんじゃねぇよ。お前、名は?」
不敵に口端を吊り上げる千影。
その横の木陰から、まるで雪が舞い降りるように静かに現れたのは、息をのむほど美しい銀髪の少年だった。
「……千影、くだらない粘着はやめろ。半妖相手に殺気を撒き散らしている己の浅はかさを恥じろ」
凛とした気品を漂わせるその少年は、月光を映す瑠璃色の瞳で、私と千影を淡々と見下ろしていた。
狐の妖かし——琉弥だ。
「あぁん!? なんだと琉弥、お前、俺に意見すんのか?」
「事実を言ったまでだ。……その半妖の血に宿る怨念と牙は本物だ。ただ、己を抑えきれずに荒れているだけだ」
琉弥は千影の殺気すら涼しい顔で受け流すと、すっと私との間合いを詰め、優雅な所作で私の腕の傷を見つめた。哀れむでもなく、ただ客観的に、静かに。
「傷を負った獣は醜い。強くなりたいのなら、まず己を破滅させるような無謀な怒りを捨てろ」
「……っ! なんで、私のこと……」
「大妖怪の娘のことくらい、耳に入っている。……無駄死にするつもりでないなら、立て」
不敵な笑みの裏に密かな熱を隠した千影の視線と、私の暴走を冷たく見破る琉弥の言葉。
「……花。私は花」
私は二人を睨みつけながら、絞り出すように己の名を告げた。
二人の存在が、絶望の底にいた私を強引に引きずり出していく。
それが、私と二人の出会いだった。
それからの日々は、荒々しくもどこか心地よい嵐のようだった。
千影はどこか面白がるような素振りで、毎日泥まみれになりながら私と拳を交わし合った。
「甘ぇ! 噛み殺す気で来いよ、花!」
「言われなくても叩きのめしてあげる!」
尊大で負けず嫌いな千影と張り合うことで、私は「守られるだけの弱者」から抜け出す強さを得ていった。
そして、私たちが限界まで暴れ回った後、決まって現れるのが琉弥だった。
「まったく……二人とも動くな」
呆れたように言いながらも、琉弥の薬草の手当ては完璧だった。
無駄のない洗練された手つきで傷を癒やし、私の冷え切った心に静かな平穏をもたらしてくれる。
「……くっ、冷た……」
「これくらい我慢しろ。人間への怒りに任せて無駄な無茶をするからだ」
「……だって……。……ねぇ、琉弥は怖くないの? 人間の毒が……」
過去のトラウマが頭をよぎり、私がポツリと漏らすと、琉弥は手当てをする手を止めずに冷淡な、けれど力強い声で応じた。
「……毒を恐れるのは、知恵がないからだ。人間に毒があるなら、こちらはその裏をかくまでのこと。……お前が二度と人間に汚されないよう、俺が知恵を貸す」
冷徹な瞳の奥に隠された、私を絶対に守るという強い意志。
その気品に満ちた言葉に、幼い私の胸は確かに跳ねていたのだ。
そして、彼らと一緒なら、あれほど恐しかった「人間の町」へも足を踏み入れた。
目的はもちろん買い物などではない。腹いせの「仕返し」だ。
千影は強烈な妖風で、かつて私に毒を盛った老女の店を吹き飛ばして尊大に高笑いし、琉弥は優雅に扇をかざしながら見事な狐火の錯視で町中をパニックに陥れた。
『……ひ、ひぃっ!? 化け物だ、妖怪の仕業だ!!』
青ざめて逃げ惑う人間たちを高い木の上から見下ろし、私は喉を鳴らして笑った。
「……ざまぁみろ、人間ども」
「ハッ! 最高の面になってきたじゃねぇか、花! お前はやっぱり面白ぇよ!」
「いい顔になったな、花。人間を怯えさせるお前は、とても美しい」
不敵にニヤリと笑う千影と、私の隣で気品高く目を細める琉弥。
二人と過ごすその時間だけが、私の傷ついた魂を救う唯一の光だった。
互いの存在をぶつけ合い、誇りを高め合い、人間の世界を嘲笑ったあの数年間。
——この時の私は、まだ何も知らなかった。
隣で冷ややかに、けれど愛おしそうに私を見つめる琉弥と、やがて命を分け合うほどの「恋人」になることも。
千影が表には出さぬまま、私に対してどれほど根深い執着を膨らませていくのかも。
そして、その愛ゆえに、人間たちの残酷な罠に落ち、互いの肉体を引き裂かれて殺されるという最期を迎えることも。
そして……数百年後の今、人間に転生したこの身で、再びあの悲劇と向き合うことになるのだということも。
夜風が運ぶ冷気の中で、私はその温かくて、けれど胸が締め付けられるほどに遠い、愛おしい彼らとの日々を、いつまでも噛み締めていた。




