第6節 ― 私を作ったつもりでいるな
《ならば、君の正義は誰のものだ》
首領Xの声が、駅前広場の空から降ってきた。
音ではなかった。
黒い観測フィールドそのものが震え、その振動が耳の奥に直接届いてくるようだった。夕方の光を飲み込んだ空は、いつのまにか暗いガラスの内側のように変わっていた。駅前ビジョンも、ビルの壁面広告も、バス停の案内表示も、全部が赤黒いノイズに染まっている。
逃げ遅れた人々は、遠巻きにその光景を見上げていた。
誰も大声を出さない。
ただ、スマホを握りしめたまま、息を殺している。
プリティミューは、ミュー・ハンマーを握ったまま、動けなかった。
目の前には、白と黒の装甲をまとったX-MU。
自分に似た姿。
自分よりも整った立ち姿。
自分よりも無駄のない構え。
自分よりも、ヒーローらしく見える偽物。
その胸部観測コアの奥で、首領Xの赤い影が揺れている。
《君は、我々がいなければ存在しなかった》
赤い影は、淡々と言った。
《蜘蛛男がいなければ、君は変身しなかった》
《蝙蝠伯爵がいなければ、君は誰かを助ける痛みを知らなかった》
《レイディスコーピオンがいなければ、言葉の毒に抗うことを知らなかった》
《サラセニア・ルージュがいなければ、欲しさと向き合わなかった》
《マンティスシザーがいなければ、切り取られた言葉の怖さを知らなかった》
《カメ・レオンがいなければ、関係性を見る力を得なかった》
《ミラクルハニーがいなければ、子どもであることを認められなかった》
《グレイヴコンドルがいなければ、倒した後に残るものを見なかった》
《ゲッコウリーパーがいなければ、死を怖がることを受け入れなかった》
《リザードジェネラルがいなければ、数ではなく個を見ることを選ばなかった》
《復活怪人軍団がいなければ、過去を悪用される痛みを知らなかった》
一つずつ、広場の空に映像が浮かぶ。
廃施設の暗がりで、蜘蛛男に追い詰められた初めての夜。
廃劇場の舞台で、蝙蝠伯爵のオルゴール音に揺らいだメグの顔。
駅前の冷たい空気の中で、レイディスコーピオンの毒々しい笑みが言葉を突き刺してきた瞬間。
甘い香気の中で、自分の欲しさを見透かされたサラセニア・ルージュの罠。
マンティスシザーが、言葉と文脈をばらばらに切り刻んだ時の、胸の奥の気持ち悪さ。
カメ・レオンが偽物の顔で、大切な人との距離を歪めようとした時の怒り。
ミラクルハニーが、子どもに戻りたい気持ちを甘い檻に変えた時の痛み。
グレイヴコンドルが、倒した怪人の残骸を墓荒らしのように拾い集めていた光景。
ゲッコウリーパーが、死を数字にして腕に刻んだ冷たさ。
リザードジェネラルが、番号だけの量産兵を道具として動かしていた地下ライン。
そして、リザレクション・ステージで、過去に倒した怪人たちの偽物が一斉に動き出した時の、吐き気がするような怒り。
全部が、空に並ぶ。
全部が、ミユを見下ろしている。
違う、と言いたかった。
そんなの違う。
私は、ジョーカーなんかに作られてない。
首領Xなんかに育てられてない。
ドクター・モルスの実験なんかじゃない。
そう叫びたかった。
けれど、喉の奥で、言葉が詰まった。
だって、全部が嘘ではなかったから。
プリティミューは、ハンマーの柄を握り直した。
手のひらが汗で滑る。
指が震えている。
怖かった。
本当に怖かった。
何度も逃げたかった。
変身なんかしたくなかった。
バイト代に釣られた自分を、何度も殴りたくなった。
でも、戦うたびに何かを覚えた。
誰かを守るために前へ出ること。
怒りで動いてしまう自分。
怖くても、怖いと言っていいこと。
子どもでも選べること。
敵だった相手にも、終わり方があること。
死ぬのは怖いけれど、今生きている人を勝手に終わらせていい理由にはならないこと。
数で押しつぶされそうになっても、番号の奥に残っているものを見ること。
過去は、利用されるためにあるんじゃないこと。
全部、戦いの中で知った。
全部、怪人事件の中で変わった。
認めたくない。
でも、認めないと、きっと前へ進めない。
プリティミューは、小さく息を吸った。
「……そうだよ」
通信の向こうで、メグが息を呑む気配がした。
《先輩……?》
アインも、ワトソンも、言葉を発しなかった。
首領Xの赤い影が、わずかに揺れる。
《認めるのか》
プリティミューは、ゆっくり顔を上げた。
「認めるよ」
声は震えていた。
けれど、消えなかった。
「私は変わった」
「あんたたちの怪人に巻き込まれて、怖い思いして、腹立って、泣きそうになって、走り回って、何度も最悪って思って」
「たぶん、最初の私とは違う」
胸の奥が痛かった。
それでも、言葉を続ける。
「怪人が出なかったら、私は今でもただの高校生だったかもしれない」
「プリティミューなんて名前、知らないままだったかもしれない」
「ミュー・ハンマーなんて持たずに、普通に学校行って、普通にバイト探して、普通にママに怒られてたかもしれない」
そこまで言って、少しだけ笑った。
「いや、ママには今も怒られるけど」
メグが、通信の向こうで小さく息を吐いた。
緊張と涙が混じったような音だった。
首領Xが言う。
《ならば、君は我々の成果だ》
その瞬間、X-MUが動いた。
白黒の装甲が、音もなく地面を蹴る。
最短距離。
最適角度。
最小動作。
黒いハンマーが、プリティミューの胸元へ一直線に伸びる。
プリティミューは、ぎりぎりで受け止めた。
金属音が、広場に響く。
足元のアスファルトがひび割れた。
腕がしびれる。
「っ……!」
X-MUの無表情な仮面が、すぐ目の前にあった。
「対象発言、自己矛盾」
「外部要因による成長を認めながら、所有権を否定」
「非論理的」
プリティミューは歯を食いしばった。
「うるさい……!」
X-MUはさらに押し込んでくる。
白黒の装甲の隙間から、赤い観測光が脈打つ。
「あなたは、怪人事件によって形成された」
「あなたの戦闘技術、救助判断、心理耐性は、すべて観測により成長した」
「したがって、プリティミューはジョーカーの成果物である」
プリティミューの膝が沈む。
ハンマーの柄が、ぎしりと鳴った。
首領Xの声が重なる。
《君は、我々が作った》
その言葉が、胸の奥に刺さった。
作った。
成果物。
被験体。
原型。
完成形。
朝倉ミユではなく。
プリティミューという名前だけを、勝手に剥がして、勝手に測って、勝手に結論を出される。
その瞬間、ミユの中で何かが切れた。
「……変えられたことと」
プリティミューは、足に力を込めた。
沈んだ膝が、ゆっくり伸びる。
「選んだことは」
ミュー・ハンマーの白とピンクのラインが、鼓動のように光り始める。
「違うんだよ!」
プリティミューは、X-MUの黒い武器を弾き返した。
X-MUが一歩下がる。
その一歩は、完璧な動作の中で初めて生まれた、わずかな乱れだった。
プリティミューは、肩で息をしながらX-MUを睨みつけた。
「怪人がいたから助けたんじゃない」
「ジョーカーに言われたから立ったんじゃない」
「アインに雇われたからだけでもない」
「メグちゃんに見られてたからでもない」
「街の人に期待されたからでもない」
通信の向こうで、アインが息を詰めている。
メグが端末を握りしめている。
ワトソンの補助表示が、ノイズの中で必死に安定していく。
プリティミューは叫んだ。
「助けたいって思ったから、私が立ったんだよ!」
その声が、黒い観測フィールドを震わせた。
駅前ビジョンの映像が、一瞬乱れる。
過去の戦闘記録が揺らぎ、ノイズが走る。
X-MUは、即座に姿勢を立て直した。
「非合理」
「未完成」
「不安定」
「不要」
黒い武器が、再び振り下ろされる。
プリティミューは踏み込んだ。
「未完成で悪かったね!」
一撃を受け流す。
肩に衝撃が走る。
痛い。
でも、止まらない。
「でも、完成品より先に動くのが、私なんだよ!」
プリティミューは、わざと正面からは行かなかった。
X-MUの予測する最短距離ではなく、崩れたバス停の屋根を踏み台にして横へ跳ぶ。
X-MUの視線が追う。
その一瞬の遅れ。
メグの声が飛んだ。
《先輩、X-MUの予測モデル、また乱れました!》
「了解!」
プリティミューは、空中でハンマーを回転させる。
X-MUは蜘蛛糸データを展開した。
黒い糸が、駅前の街灯から街灯へと走り、網のように広がる。
プリティミューの足首に絡みつく。
「うわ、初期の嫌なやつ!」
さらに、蝙蝠伯爵の音波データが重なる。
耳の奥で、オルゴールの音が歪んだ。
平衡感覚が崩れる。
レイディスコーピオンの毒データが、言葉の形を取って視界に浮かぶ。
《あなたより完成体の方がよい》
《あなたは不要》
《あなたは騒がしい》
《あなたは遅い》
《あなたは守り切れない》
「文字で煽るな!」
プリティミューは叫びながら、ハンマーを地面へ叩きつけた。
衝撃で蜘蛛糸が千切れる。
しかし、すぐに甘い香気が漂った。
サラセニア・ルージュのデータ。
眠くなるような、全部を投げ出したくなるような香り。
続けて、ミラクルハニーの蜜が足元に広がる。
金色の光が、幼い記憶を揺さぶる。
何もしなくていい。
誰かに守ってもらえばいい。
戦わなくてもいい。
その奥から、ゲッコウリーパーの死相表示が浮かぶ。
《残り時間:測定不能》
《適性崩壊率:上昇》
《変身維持限界:接近》
プリティミューは歯を食いしばった。
「多い!」
「多いってば!」
「最終回だからって全部乗せしすぎ!」
アインの声が飛ぶ。
《バイト君、出力を上げる》
「今、バイト君に戻った!」
《照れている場合じゃない》
「照れてない!」
アインは、いつもの調子で言った。
けれど、その声の奥には、明らかに焦りがあった。
《ミュー・セルフブレイク、出力最大》
《押しつけられた自己定義を壊す》
《観測コアの外殻を割れ》
ワトソンの声が続く。
《観測干渉、遮断補助します》
《ただし、こちらの防壁も限界です》
《ミユさん、長くは持ちません》
メグが叫ぶ。
《先輩は、実験結果じゃありません!》
その声が、ノイズを突き破って届いた。
メグの声だけではなかった。
怪人事件ログの画面が、通信越しにミユの視界へ投影される。
そこには、戦闘データではない記録が並んでいた。
《朝倉ミユ先輩は、文句を言いながらも一番危ない場所へ行く》
《怖がっていても、誰かが泣いていると止まれない》
《疲れている時ほど、変な冗談を言う》
《合理的ではない判断をすることがある》
《でも、その非合理で助かった人がいる》
ミユは、一瞬だけ目を見開いた。
「メグちゃん……」
《記録は、観測するためだけのものじゃありません》
メグの声は震えていた。
でも、強かった。
《先輩が、自分を見失わないためにも残せます》
プリティミューの胸の奥が、熱くなった。
その時、スマホに通知音が鳴った。
戦闘中の視界端に、小さくメッセージが表示される。
《帰ってきなさい》
かなえからだった。
ただ、それだけ。
長い説明もない。
心配の言葉も、問い詰める言葉もない。
けれど、ミユには十分だった。
帰る場所。
名前を呼んでくれる人。
プリティミューじゃなくても、朝倉ミユとして戻れる場所。
プリティミューは、笑った。
「帰るよ」
X-MUが、観測コアを開いたまま突撃してくる。
胸部の赤い影が脈打つ。
首領Xの声が響いた。
《完成を拒むか》
プリティミューは、ミュー・ハンマーを両手で握りしめる。
「完成させられるのを拒んでるの!」
白とピンクの光が、ハンマー全体を包み込んだ。
それは、X-MUのように冷たい光ではなかった。
少し揺らいでいた。
強さにムラがあった。
火花も散っている。
出力も安定していない。
けれど、その光は、確かにミユ自身の呼吸に合わせて脈打っていた。
「ミュー・セルフブレイク!」
プリティミューがハンマーを振り下ろす。
衝撃波が、円形に広がった。
黒い観測フィールドを縛っていた鎖のような光が、次々と砕ける。
駅前ビジョンに映っていた過去映像が割れ、破片になって空へ散る。
蜘蛛男の影が消える。
蝙蝠伯爵の舞台が閉じる。
レイディスコーピオンの毒文字がほどける。
サラセニアの甘い香気が薄れる。
マンティスシザーの切断線がつながる。
カメ・レオンの偽装が剥がれる。
ミラクルハニーの蜜が光に溶ける。
ゲッコウリーパーの死相表示が消える。
リザードジェネラルの番号が砕ける。
復活怪人軍団の影が、静かに遠ざかる。
プリティミューは、X-MUへ向かって走った。
X-MUは迎撃する。
黒いハンマーが振り上げられる。
その軌道は完璧だった。
プリティミューの攻撃を読み切っている。
本来なら、ここで止められる。
でも、プリティミューは、最後の一歩で足を滑らせた。
いや、わざと滑らせた。
「非効率」
X-MUの仮面が、わずかに反応する。
プリティミューは、滑った勢いのまま、地面に片手をついた。
体勢はぐちゃぐちゃ。
フォームとしては最悪。
ヒーローの決め技としては、たぶん全然きれいじゃない。
でも、その一瞬だけ、X-MUの予測から外れた。
「そりゃそうでしょ」
プリティミューは、地面すれすれから跳ね上がる。
「私だって、次に何するか、たまに自分でもわかんないんだから!」
ハンマーが、X-MUの胸部観測コアへ届いた。
「プリティ・チョイス・インパクト!」
一撃。
白とピンクの光が、赤い観測コアを貫いた。
X-MUの装甲に、細いひびが入る。
ひびは胸から肩へ、腕へ、仮面へと広がっていった。
白黒の表面が剥がれ、その下から赤い観測光が漏れ出す。
首領Xの影が、ノイズに包まれる。
《定義不能》
《適性測定、継続不能》
《自己選択反応、予測値超過》
X-MUは、初めて足元をふらつかせた。
「プリティミュー……定義不能……」
声は、もう冷静ではなかった。
ノイズ混じりの、壊れかけた機械音。
プリティミューは肩で息をしながら、X-MUを見た。
「そりゃそうでしょ」
汗が顎を伝う。
膝は震えている。
腕も痛い。
たぶん、明日は全身筋肉痛どころじゃない。
それでも、笑った。
「私だって、まだ自分のこと全部わかってないんだから」
X-MUの仮面が砕ける。
胸部コアが、ぱきん、と音を立てて割れた。
黒い観測フィールドが上空から崩れ始める。
駅前広場を覆っていた暗い膜に亀裂が走り、その向こうから本物の夕方の光が差し込んだ。
赤黒い空が割れる。
街灯が瞬き、駅前ビジョンが通常表示へ戻る。
逃げ遅れていた人々が、呆然と空を見上げた。
誰かが、小さく拍手した。
それが広がる前に、X-MUの身体が光の粒になって崩れていく。
白黒の装甲が細かな粒子となり、夕方の光の中へ溶けていった。
プリティミューは、その場に立ち尽くした。
勝った。
少なくとも、今は。
「……終わった?」
自分で言って、自分で少し疑った。
この手の事件は、終わったと思った後が一番怖い。
その予感は、すぐに当たった。
X-MUの破片の一つが、まだ地面に残っていた。
胸部観測コアの欠片。
赤い光が、最後に一度だけ点滅する。
アインの声が飛ぶ。
《バイト君、そこから離れろ》
「え、何――」
欠片から、細い通信光が伸びた。
それは、ジョーカー帝都支部の方向へは向かわなかった。
空を走り、ビルの反射を渡り、細い赤い線となって消えていく。
同時に、アイン科学研究所。
メインモニターが勝手に点灯した。
アインは、操作卓の前で息を呑んだ。
画面には、一瞬だけ見覚えのない企業ロゴが表示された。
冷たい銀色の文字。
《NEUMANN INDUSTRIES》
その下に、さらに小さな識別コードが走る。
《WATSON-07/応答確認――》
次の瞬間、ワトソンが強制的に画面を遮断した。
研究所のモニターが真っ暗になる。
沈黙。
アインは、ゆっくりワトソンを見た。
いつもの猫型アバターは、画面の端で固まっている。
《……通信ノイズです》
ワトソンは言った。
いつもより、ほんの少しだけ声が硬かった。
アインの顔から、いつもの余裕が消えていた。
「今のは」
《通信ノイズです》
「ワトソン」
《……》
アインは、暗くなったモニターを見つめた。
「NEUMANN INDUSTRIES」
その名を口にした瞬間、研究所の空気が少しだけ冷えた。
ワトソンは答えない。
駅前広場では、プリティミューがまだ何も知らずに、崩れたX-MUの光の残滓を見つめていた。
夕方の風が吹く。
白とピンクの装甲が、かすかにきらめいた。




