第7節 ― 正義の味方は、自分で選ぶ
黒い観測フィールドが砕けたあと、ホウジュ区駅前広場には、夕方の光が戻っていた。
ほんの数分前まで、空は黒い膜に覆われ、街のあちこちに過去の戦闘映像が浮かんでいた。蜘蛛男の糸。蝙蝠伯爵の舞台。レイディスコーピオンの毒。ミラクルハニーの蜜。ゲッコウリーパーの月光。復活怪人軍団の影。
それらはすべて、駅前の空から消えていた。
残っているのは、折れた街灯、吹き飛ばされた案内看板、ひしゃげたガードレール、避難誘導のテープ、そしてスマホを構えたまま立ち尽くす人々だった。
誰も、すぐには声を出せなかった。
あまりにも多くのことが、一度に起きすぎた。
完成されたプリティミューと名乗る白黒の少女が現れたこと。
本物のプリティミューが、黒いフィールドの中でそれと戦ったこと。
街全体が、何者かの実験場にされたこと。
そして最後に、白とピンクの光が、その黒を叩き割ったこと。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
だが、広場に倒れている人は少なかった。逃げ遅れた子どもも、転倒した老人も、混乱の中で怪我をした会社員も、すでに安全な場所へ運ばれている。
プリティミューが、最後まで踏みとどまったからだ。
メグが、避難情報を流し続けたからだ。
ワトソンが、観測干渉を遮断したからだ。
アインが、μシステムを奪われないように繋ぎ直したからだ。
そして、ミユがもう一度、自分で変身したからだ。
「……終わった、よね」
プリティミューは、ミュー・ハンマーを地面についた。
ハンマーの先端が、割れたアスファルトに軽く触れる。いつもならそれだけで「やった!」とか「勝った!」とか、なにか一言くらい出てきそうなものだった。
けれど今は、言葉より先に膝が笑った。
「うわ」
変身が解ける。
白とピンクの装甲が淡い粒子になってほどけ、駅前広場の真ん中に、制服姿の朝倉ミユが立っていた。
いや、立っているつもりだった。
次の瞬間、膝から力が抜けた。
「……しんど」
そのまま座り込みかけたミユの腕を、メグが横から支えた。
「先輩!」
「大丈夫。たぶん。いや、あんまり大丈夫じゃないけど、生きてる」
「それなら、記録できます」
「メグちゃん、基準が記録寄りすぎる」
「でも、先輩が生きていないと書けません」
「それは……そう」
ミユは、そこで小さく息を吐いた。
足が震えている。
腕も重い。
喉は痛いし、背中は汗で冷えている。
たぶん、あとで全身筋肉痛になる。いや、たぶんではない。確実になる。
それでも、心臓は動いていた。
息ができる。
声が出せる。
メグの手が温かい。
生きている。
それだけで、さっきまで視界いっぱいに表示されていた観測データや適性値や同期率よりも、ずっと確かなことに思えた。
耳元で、通信が入った。
《ミユ》
その声に、ミユは目を瞬いた。
「また名前」
《今回くらいはね》
「毎回でよくない?」
《検討する》
「そこは即答してよ」
いつもの軽口のはずなのに、アインの声は少しだけ硬かった。
研究所の向こうで、彼がどんな顔をしているのか、ミユには見えない。けれど、さっきまでとは何かが違うのはわかった。
《契約は解除済みだ》
「うん」
《だから、今後はバイトではない》
「時給は?」
《危険手当は出す》
「そこは出るんだ」
《雇用契約ではなく、協力契約になる》
「急に社会人っぽい話!」
メグが、隣で小さく笑った。
その笑い声を聞いて、ミユも少しだけ肩の力が抜けた。
アインは、しばらく黙っていた。
通信越しの沈黙は、いつもより長く感じた。彼が端末を操作している音も、ワトソンの補助音声も、今は入ってこない。
やがて、アインは言った。
《もう一度聞く》
「うん」
《続けるのか》
ミユは、すぐには答えなかった。
駅前広場の空を見る。
観測フィールドが消えた空は、拍子抜けするほど普通だった。夕焼けがビルの窓に反射して、オレンジ色の帯を作っている。さっきまで空いっぱいに浮かんでいた過去の映像も、首領Xの影も、X-MUの白黒の装甲も、もう見えない。
けれど、なくなったわけではない。
怖かった記憶は、残っている。
蜘蛛男に襲われた時の、足が動かなくなる感じ。
蝙蝠伯爵の音で、メグが眠らされそうになった夜。
レイディスコーピオンの言葉が、クラスの空気を刺していったこと。
サラセニア・ルージュの甘い匂い。
マンティスシザーに、言葉を切り取られた怒り。
カメ・レオンに、誰が本物かわからなくなった不安。
ミラクルハニーに、子どもに戻りたい気持ちを見せつけられたこと。
グレイヴコンドルに、倒した怪人の残骸を使われた嫌悪感。
ゲッコウリーパーに、死を数字にされた恐怖。
リザードジェネラルに、数で押し潰されそうになった疲労。
復活怪人軍団に、過去をもう一度突きつけられた痛み。
そして、X-MUに「あなたは不要です」と言われた瞬間の、胸の奥が冷えるような感覚。
続けたら、また怖いことがある。
第1話の自分なら、きっと逃げていた。
今だって逃げたい。
逃げたくないわけじゃない。
戦わなくていいと言われた時、ほっとしたのも本当だ。
変身を解いた瞬間、もうこれで終われるのかもしれないと思ったのも本当だ。
それでも。
ミユは、μブレスレットを見た。
ただのアクセサリーのように腕に残ったそれは、もう強制契約の証ではない。アインが言った通り、契約は解除された。ここから先は、誰かに押しつけられたバイトではない。
なら、なおさら。
「続ける」
メグが、息を呑んでミユを見た。
アインも、通信の向こうで黙った。
ミユは、少しだけ笑う。
「ただし、条件があります」
《何だい》
「無茶な実験禁止」
《努力する》
「努力じゃなくて禁止!」
《善処する》
「それ一番信用できないやつ!」
今度は、メグがはっきり笑った。
「先輩、それは記録しておきます」
「して。赤字でして」
《不当な扱いだね》
「今までの積み重ねです」
ミユは、もう一度ブレスレットに触れた。
「あと、私をデータ扱いしないこと」
通信の向こうで、アインが息を止めたような間があった。
《……わかった》
「そこはちゃんと言うんだ」
《ミユは、データではない》
「よろしい」
ミユは頷いた。
その言葉を聞きたかったのだと、自分でもそこで気づいた。
観測対象でも、被験体でも、成果物でもない。
アインの実験協力者でも、ジョーカーの育成結果でも、X-MUの原型でもない。
朝倉ミユ。
怖がりで、文句が多くて、すぐ疲れて、よくお腹が空いて、でも、助けたいと思ったら動いてしまう高校生。
それでいい。
「私は、作られたヒーローかもしれない」
メグが、静かに聞いている。
「でも、続けるかどうかは私が決める」
ミユは少し照れた。
言葉にした途端、急に恥ずかしくなった。駅前広場で、瓦礫の真ん中で、メグと通信先のアインに向かって、何を宣言しているのだろうと思う。
でも、ここで言わないといけない気がした。
さっき、自分で選んだのだから。
「だから――」
ミユは、少しだけ視線をそらしながら言った。
「科学少女プリティミューは、私がやる」
メグは、端末を胸に抱えたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
「メグちゃん、そういう時は茶化していいんだよ?」
「茶化す場面ではありません」
「真面目!」
「でも、あとでログには書きます」
「それはそれで恥ずかしい!」
メグは端末を開いた。
怪人事件ログの入力画面が表示される。これまで、何度も見てきた画面だった。怪人の出現場所。被害状況。能力。対処法。プリティミューの戦闘記録。
けれど、今回メグが打ち込んだ文章は、いつもより少しだけ違っていた。
《第13話相当の事件において、プリティミュー適性臨界測定と呼ばれる最終観測実験が確認されました》
《ジョーカーは、プリティミューを自分たちの成果物として扱おうとしました》
《しかし、朝倉ミユ先輩は、それを否定するのではなく、選び直しました》
《正義の味方は、作られるものではありません》
《少なくとも、最後に立つ理由だけは、自分で選ぶものです》
ミユは画面を覗き込んで、顔を赤くした。
「メグちゃん、今回かなり恥ずかしい」
「第1部完結なので」
「メタい!」
「でも、本当のことです」
「本当のことって、たまに一番攻撃力あるよね」
ミユはそう言って、笑った。
笑えた。
そのことに、少しだけ安心した。
その夜。
朝倉家の玄関前で、ミユはしばらく立ち止まっていた。
制服は汚れている。
スカートの裾には砂埃がついている。
髪も乱れている。
膝には小さな擦り傷がある。
どう見ても、普通に学校から帰ってきた高校生ではなかった。
「……どう説明しよう」
ミユは小さく呟いた。
怪人と戦ってました。
ジョーカーに実験されました。
白黒の私っぽいやつと殴り合いました。
自分で正義の味方を続けることにしました。
どれも、夕飯前の会話としては重すぎる。
鍵を開けようとしたところで、玄関の扉が内側から開いた。
かなえが立っていた。
「おかえり」
その声を聞いた瞬間、ミユの喉の奥が詰まった。
「……ただいま」
かなえは、ミユを見た。
汚れた制服。
乱れた髪。
疲れ切った顔。
けれど、帰ってきた娘。
かなえは、何も聞かなかった。
叱ることも、問い詰めることも、泣くこともしなかった。
ただ、いつものように少し首を傾げて言う。
「ごはん、温める?」
ミユは、一瞬泣きそうになった。
戦闘中に届いた《帰ってきなさい》というメッセージが、胸の中でまた響いた。
帰ってきた。
ちゃんと帰ってきた。
「うん」
「大盛り?」
「普通で」
「本当に?」
「……大盛りで」
かなえは笑った。
「はいはい」
その、あまりにも普通の返事に、ミユの肩から力が抜けた。
リビングへ向かう母の背中を見ながら、ミユは思う。
帰る場所がある。
だから、立てるのかもしれない。
ヒーローだから帰るのではない。
帰る場所があるから、また立てる。
それは、X-MUにはなかったものだ。
一方、ジョーカー帝都支部。
巨大モニターには、ホウジュ区駅前広場の観測ログが映し出されていた。
X-MUの活動停止。
最終観測フィールドの消失。
プリティミューの再変身。
自己選択反応の発生。
μシステム再適合。
赤い文字で並ぶ報告項目を前に、ゲル大佐は深く、深く息を吐いた。
「X-MU、活動停止。最終観測フィールド消失」
報告する戦闘員42号の声にも、どこか疲れがにじんでいた。
「またか……」
「ただし、最終観測データは回収されています」
「つまり、モルスは満足している」
「はい。ものすごく」
「最悪だ」
ゲル大佐は、胃のあたりを押さえた。
すでに胃薬は飲んだ。
業務用の箱も開けた。
それでも足りない気がする。
そこへ、白いコートの裾を揺らして、ドクター・モルスが現れた。
「素晴らしい結果です」
「貴様の素晴らしいは聞き飽きた」
「プリティミューは、完成を拒みました」
「失敗ではないのか」
「いいえ」
モルスは、薄く笑った。
「未完成を選んだ完成品です。研究対象として、これ以上ない」
ゲル大佐の目つきが鋭くなる。
「モルス。貴様は、彼女を何にするつもりだ」
「私は観測するだけです」
「その言葉が一番信用できん」
モルスは否定しなかった。
ただ、モニターに映るプリティミューの映像を見つめていた。X-MUの前で変身を解き、そして自分の意思でもう一度変身した少女。
その瞬間の波形が、モルスの眼鏡に赤く反射していた。
「自己選択反応。外部強制契約解除後の再適合。興味深い。実に興味深い」
「人間を珍しい標本みたいに言うな」
「標本ではありません。生きていますから」
「余計に悪いわ」
その時、通信モニターが暗転した。
黒い画面に、赤い仮面のアイコンが浮かび上がる。
首領X。
ゲル大佐は姿勢を正した。
「ゲル大佐」
「はっ」
「第1段階は終了した」
「第1段階……」
その言葉に、ゲル大佐の眉がわずかに動いた。
十三回もの怪人作戦。
残骸回収。
死相実験。
量産怪人。
復活怪人軍団。
最終観測体X-MU。
それらすべてが、第1段階。
「プリティミューは、自分の意思で立つことを選んだ」
「はい」
「ならば次は、その意思がどこまで保つかを見る」
ゲル大佐は、表情を険しくした。
「まだ続けるおつもりですか」
「当然だ」
「彼女は、ジョーカーの成果物ではありませんでした」
「そうだ」
首領Xは、静かに言った。
「だからこそ、欲しい」
通信が切れた。
しばらく、司令室には誰の声もなかった。
ゲル大佐は拳を握っていた。
それは怒りなのか、不快感なのか、自分でも判別できなかった。
ジョーカーは敵を倒す組織だったはずだ。
少なくとも、自分はそういう現場を指揮してきた。
怪人を送り込み、作戦を実行し、失敗すれば次を考える。
だが、首領Xは今、プリティミューを倒すと言わなかった。
欲しい、と言った。
その言葉が、ゲル大佐の胃よりも深い場所に重く落ちた。
隣で、モルスは楽しげに笑っていた。
暗い研究室。
ドクター・モルスは、X-MUの観測コア破片を透明なケースに収めた。
破片は、黒と白と赤の光をわずかに残している。すでに活動は停止しているはずなのに、角度を変えると、どこかでまだ観測を続けているようにも見えた。
モルスは、ケースにラベルを貼る。
《J-13 最終観測実験/X-MU観測コア・プリティミュー自己選択反応データ回収済》
その隣の巨大モニターに、赤い文字が浮かび上がった。
《第2段階準備中》
《外部接続先:NEUMANN INDUSTRIES》
《WATSON-07 応答確認待機》
《観測者一号 再接続候補》
モルスは、その文字列を見て、満足げに目を細めた。
「さて」
黒い手袋の指が、モニター上の《WATSON-07》という文字をなぞる。
「こちらも、そろそろ動きますか」
同じ頃。
アイン科学研究所では、非常灯の赤い光だけが、白い壁を淡く照らしていた。
さっきまで鳴り続けていた警告音は、もう止まっている。
ホウジュ区駅前の観測フィールドは消えた。
X-MUの外部干渉も遮断した。
μシステムも、ミユの意思で再適合した。
戦闘は終わった。
だが、アインはまだ端末の前に立っていた。
画面には、ほんの数秒前まで表示されていた通信ログがある。
《NEUMANN INDUSTRIES》
その文字列は、すでに消えていた。
いや、消されていた。
ワトソンが、アインに背を向けるようにして、研究所のサブ端末を操作している。猫型のボディではなく、今日は人間アバターの姿だった。少年の姿のまま、表情をほとんど動かさずに、通信ログを削除している。
アインは、その背中を見た。
「ワトソン」
指が止まった。
《はい、アイン様》
「さっきの企業ロゴ。見間違いじゃないね」
《……》
「ノイマン・インダストリーズ」
ワトソンは答えなかった。
沈黙。
普段なら、何かしら理屈をつける。
システム上の誤表示です。
外部ノイズです。
調査中です。
今は優先順位が低いです。
そういう言葉が、返ってくるはずだった。
けれど、ワトソンは何も言わない。
アインの顔から、いつもの余裕が消えた。
「どうして、今さら」
その時だった。
研究所のメインモニターが、勝手に起動した。
電源を落としていたはずの画面に、黒が広がる。
赤いジョーカーのマーク。
そして、声。
《久しぶりだね》
アインは動かなかった。
ワトソンも動かなかった。
声は、静かに続いた。
《観測者一号》
アインの手が止まる。
その呼び名に、彼の表情が一瞬だけ凍った。
ミユはまだ、その通信を知らない。
ホウジュ区の別の場所。
コブラカレーは、すでに閉店していた。
客席の椅子は机に上げられ、店内の照明は落とされている。厨房だけに、小さな灯りが残っていた。
コブラは一人、鍋を洗っていた。
いつもなら、乱暴に見えて手際のいい動きで片づけを終わらせる。だが今夜は、少しだけ手が遅かった。
シンクの水音が、やけに大きく聞こえる。
やがてコブラは水を止めた。
店の奥へ行き、古い棚の前に立つ。
その棚は、普段は使われていない。カレー粉のストックでも、皿でも、古い伝票でもない。長い間、誰にも開けられていなかったように見える扉だった。
コブラは、しばらくそれを見つめた。
それから、ゆっくり開ける。
中には、黒と赤の蛇型装具が眠っていた。
埃をかぶっている。
だが、壊れてはいない。
むしろ、長い眠りから目覚めるのを待っていたように、暗い光を残していた。
ジョーカーの古い幹部装備。
コブラは、それを見下ろした。
その時、店の電話が鳴った。
今どき、ほとんど鳴ることのない固定電話だった。
ベルの音が、閉店後の店内に響く。
一度。
二度。
三度。
コブラは、受話器を取った。
無機質な声が流れる。
《旧幹部コード確認》
《コブラ》
《復帰命令を通達する》
コブラは黙っていた。
声は構わず続ける。
《第2部隊、再編開始》
《プリティミュー対策班へ合流せよ》
コブラは、低く笑った。
「……勝手に人の店へ注文入れてんじゃねえよ」
受話器を置く。
電話は沈黙した。
だが、厨房の奥に置かれた蛇型装具は、まだそこにある。
コブラは、しばらくそれから目を離さなかった。
その目は、カレー屋のものではなかった。
かつてジョーカーの中にいた男の目だった。
夜は、更けていく。
朝倉ミユは、まだ知らない。
自分が選び直したプリティミューという名前の先に、さらに深い実験が待っていることを。
アインが、首領Xに《観測者一号》と呼ばれたことを。
ワトソンに、《WATSON-07》という名が隠されていたことを。
コブラに、旧幹部としての復帰命令が届いたことを。
それでも、今夜だけは。
ミユは家に帰り、大盛りのごはんを食べる。
怪人でも、観測でも、データでもない。
朝倉ミユとして。
第1部、完。




