第2節 ― 初戦闘はだいたい泥臭い
白い糸が、雨のように降ってきた。
一本一本は細い。
けれど、空中で絡み合い、束になり、網になり、逃げ道を塞ぐ。
ミユはミュー・ハンマーを構えた。
構えたつもりだった。
実際には、両手で柄を握りしめ、腰が引けて、肩に力が入りすぎて、野球の初心者がバットを怖がっているような姿勢になっていた。
《前方、糸三本。右へ回避》
「右! だから右ってどっち!」
《先ほど説明した》
「戦闘中に左右を即答できるほど人生に慣れてない!」
《右足側だ》
「最初からそう言って!」
ミユは右へ跳んだ。
跳んだ、つもりだった。
だが、μシステムの補助が入った体は、ミユの想像よりずっと強く地面を蹴った。足元の砂利が弾け、体がふわりと浮く。
「え、ちょ、飛びすぎ――!」
視界が急に高くなった。
フェンスの上。
白い糸の上。
管理棟の二階の割れた窓。
そこまで見えた。
次の瞬間、ミユは管理棟の外壁へ肩から突っ込んだ。
「ぐえっ!」
ヒーローらしからぬ声が出た。
硬いコンクリートにぶつかったはずなのに、痛みは思ったほどではなかった。装甲が衝撃を逃がしたのだろう。胸元のハート型プレート――衝撃分散プレートだとアインは言い張りそうなそれが、淡く光って衝撃を吸収している。
けれど、恥ずかしさは吸収してくれなかった。
ミユは壁をずるずると滑り落ちながら、顔を真っ赤にした。
「いまの見た!?」
「見ました!」
メグが糸に縛られたまま、なぜか律儀に答えた。
「見ないで!」
「す、すみません!」
蜘蛛男が、糸の上で体を揺らした。
「跳ぶ。ぶつかる。落ちる。面白い」
「笑うな!」
ミユは立ち上がろうとして、足元に絡んだ糸に気づかなかった。
次の一歩で、見事に足を取られる。
「わっ!」
前のめりに倒れかけたところで、姿勢制御が作動した。ブーツのかかとから小さな光が噴き、強引に体勢を戻す。
戻すには戻した。
ただし勢いがつきすぎた。
「うわわわわっ!」
ミユは両腕をぐるぐる回しながら、今度は後ろへよろめいた。ミュー・ハンマーが空を切り、白い糸を一本だけ偶然叩き落とす。
ぱん、と軽い音がした。
糸が弾けた。
ミユは目を丸くする。
「え、当たった?」
《当たった》
アインの声が返る。
「今の、狙ったことにしていい?」
《記録上は偶発的命中だ》
「記録を書き換えて!」
《事実ではない》
「味方なら盛って!」
ワトソンの声が続いた。
《ミユさん、左上方から追加攻撃》
「遅い!」
白い糸が、ミユの肩をかすめた。
装甲の表面に白い跡が走る。糸はそのまま背後のフェンスに絡み、金網をぎしりと歪ませた。
《警告は攻撃到達の〇・四秒前でした》
「人間には遅い!」
《次回から〇・八秒前を目標にします》
「増やす方向で!」
ミユはミュー・ハンマーを握り直した。
蜘蛛男は、管理棟の壁面から糸を伝ってゆっくり降りてくる。赤い複眼が、ミユの不格好な動きをひとつも見逃さない。
その見られている感覚が、気持ち悪い。
スマホのカメラ。監視カメラ。蜘蛛男の複眼。メグの目。男の子の涙で濡れた目。
全部が、自分を見ている。
ミユは唇を噛んだ。
「見ないでよ……」
小さな声だった。
けれど、蜘蛛男は聞き逃さなかった。
「見られるのが嫌か」
その声が、スマホのスピーカーを通したように割れて響いた。
「ならば、もっと見てやろう」
周囲の監視カメラが、一斉にミユを追った。
赤いランプが増える。
地面に落ちたスマホの画面にも、ミユの姿が映る。ピンクと白の装甲。手にしたハンマー。半泣きの顔。
SNSの投稿が、勝手に流れていく。
『ピンクの変身ヒーロー、壁にぶつかった』
『なんか名乗ったぞ』
『科学少女プリティミュー?』
『かわいいけど動きが初心者』
『これガチ? 撮影?』
『旧水質管理センター、やばい』
「実況しないで!」
ミユは叫んだ。
その叫びに合わせるように、蜘蛛男が指を鳴らした。
かちり。
糸の奥から、別の声が響いた。
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
ミユは固まった。
管理棟の影。
貯水槽の裏。
フェンスの切れ目。
錆びた配管の下。
そこから、黒い全身スーツの人影が次々と現れた。
頭から足先まで黒。顔は簡素なマスクで覆われ、胸元には白いジョーカーの紋章。手には短い警棒のような武器。腰には小型端末。背中には、それぞれ番号が書かれている。
秘密結社ジョーカーの戦闘員たちだった。
彼らは蜘蛛男の周囲に散開し、妙に統一された動きで構える。
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
ミユは、思わず突っ込んだ。
「掛け声、古くない!?」
一番近くにいた戦闘員が、ぴたりと動きを止めた。
「こっちも伝統なんですよ!」
「返事するんだ!?」
「現場の士気に関わるので!」
「急に組織人っぽい!」
その戦闘員の背中には、大きく「42」と書かれていた。
他の戦闘員より、少しだけ動きが慎重だった。構えも、どこか腰が引けている。けれど、周囲をよく見ている。蜘蛛男の糸の位置も、ミユの動きも、逃げていく野次馬の方向も、いちいち確認しているようだった。
蜘蛛男が低く命じる。
「囲め」
「イーッ!」
戦闘員たちが一斉に走り出した。
ミユはミュー・ハンマーを構え直した。
「え、待って、数多くない!? 怪人一人じゃないの!?」
《怪人作戦には補助要員がつくことが多い》
アインが平然と答える。
「求人票に書いといて!」
《戦闘員の平均戦闘能力は低い》
「低くても集団で来たら怖い!」
《バイト君の現出力なら対処可能だ》
「使い方が分かればね!」
先頭の戦闘員が警棒を振り上げた。
ミユは反射でミュー・ハンマーを振った。
見事に空振りした。
警棒が装甲に当たる。
かん、と乾いた音がした。
「痛くない……けど怖い!」
ミユは反射的にハンマーを振り返す。
今度も狙いは甘かった。
だが、ミュー・ハンマーのヘッドが戦闘員の警棒にぶつかった瞬間、ぽこん、という妙に可愛い音とともに、衝撃波が広がった。
「イーッ!?」
戦闘員が後方へ吹っ飛ぶ。
ミユは目を丸くした。
「なに今の音!」
《衝撃緩和音だ》
「緊張感!」
《対象への威力は十分だ》
「音だけピコピコ!」
別の戦闘員が横から飛びかかる。
ミユは避けようとして、また跳びすぎた。
今度は配管の上に片足を乗せてしまう。バランスを崩し、両手をばたつかせる。
「落ちる落ちる落ちる!」
《その高さなら落下しても装甲が吸収する》
「そういう問題じゃない!」
足元から白い糸が伸びる。
蜘蛛男が笑う。
「足場の上にも糸はある」
「そういう嫌なこと言わないで!」
糸がブーツに絡みついた。
引かれる。
「うわっ!」
ミユの体が宙に浮きかける。
その瞬間、ワトソンの声。
《右手のハンマーを地面へ。衝撃波で糸を弾けます》
「早く言って!」
《今言いました》
ミユは配管から落ちるようにしてハンマーを振り下ろした。
ぽこん。
また、やけに可愛い音。
だが効果はあった。
ハンマーの先端から円形の衝撃が広がり、足に絡んだ糸がぶつりと弾ける。ミユは地面へ着地――しようとして、また勢いを制御できず、砂利の上を滑った。
「止まれえええ!」
滑った先に、戦闘員42号がいた。
42号は両手を広げて、明らかに戸惑っていた。
「え、ちょ、こっち来るんですか!?」
「私にも分かんない!」
「誘導担当、誰ですか!」
「私が聞きたい!」
ミユは止まれないまま、ミュー・ハンマーを抱えるように前へ突っ込んだ。
ハンマーのヘッドが、42号の腹部に当たる。
ぽこん。
間の抜けた音と同時に、42号の体が見事に吹っ飛んだ。
「うわあああ、労災案件ー!」
42号は叫びながら、白い糸の張っていない草むらへ転がっていった。
ミユは地面に両手をついて止まり、荒い息を吐く。
「……ごめん!」
自分でも、なぜ謝ったのか分からなかった。
戦闘員なのに。
敵なのに。
でも、あまりに現場の人っぽかった。
草むらから、42号の声だけが返ってきた。
「謝られると逆に傷つく!」
「元気そうでよかった!」
「よくないです!」
周囲の戦闘員たちが一瞬、動揺した。
「四十二番がやられたぞ!」
「初回から変身ヒーロー出るなんて聞いてない!」
「怪人戦の補助って聞いて来たのに!」
「しかもピンクだぞ!」
「ピンクは強いって相場が決まってるだろ!」
「そうなの!?」
ミユは思わず聞き返した。
戦闘員の一人が答える。
「だいたい強いです!」
「なんで詳しいの!」
「研修で!」
「どんな研修!」
蜘蛛男が、苛立ったように糸を鳴らした。
「騒ぐな」
その一言で、戦闘員たちの背筋が伸びた。
「イーッ!」
蜘蛛男は複眼をぎらつかせ、ミユへ視線を戻す。
「不格好だが、糸を切る力はある。ならば、先に絡める」
背中の糸袋が脈打つ。
今度は、戦闘員たちの足元にも白い糸が伸びた。
糸は彼らの腰や腕に軽く絡み、まるで操り人形の糸のように動きを補助する。戦闘員たちは一斉に跳んだ。さっきよりずっと速い。まるで蜘蛛の巣の上を滑る虫のように、糸に引かれてミユを囲む。
「ずるい! 部下をラジコンにしてる!」
《糸による運動補助だ》
アインが言う。
「解説してる場合じゃない!」
《対策を提示する。周囲の糸をまとめて叩け》
「まとめてって、どこ!」
《足元》
ミユは足元を見た。
白い糸が、砂利の隙間を這うように伸びている。戦闘員たちの動きに合わせ、ぴんと張ったり、緩んだりしている。
見えている。
さっきより、見えている。
変身したからなのか、必死だからなのかは分からない。
けれど、ミユには糸の動きが、少しだけ線として見えた。
ミユはハンマーを構えた。
「これ、叩けばいいんだよね!」
《そうだ》
「音、どうにかならない!?」
《仕様だ》
「じゃあ、やけくそ!」
ミユはミュー・ハンマーを足元へ振り下ろした。
ぽこん。
可愛い音。
しかし、その下で衝撃波が地面を走った。
白い糸が、数本まとめて弾ける。糸に動きを補助されていた戦闘員たちが、一斉にバランスを崩した。
「イーッ!?」
「足場が!」
「補助切れた!」
「自力で走れってことですか!?」
「普通そうだよ!」
ミユは叫んだ。
だが、叫んだ瞬間、蜘蛛男が上から糸を放った。
《上》
ワトソンの警告。
「短い!」
ミユはハンマーを頭上へ振り上げる。
白い糸がハンマーに絡む。
蜘蛛男が、そのまま強く引いた。
「わっ!」
ミュー・ハンマーが引かれる。
ミユの体ごと、前へ持っていかれる。
《手を離すな》
アインの声。
「離した方がよくない!?」
《武装を奪われる》
「ですよね!」
ミユは両手で柄にしがみついた。
蜘蛛男は糸を引く。
ミユは引きずられる。
足元の砂利が削れ、ブーツの底が火花のような光を散らす。
メグが叫んだ。
「プリティミュー!」
その名前で呼ばれて、ミユは一瞬だけ目を見開いた。
まだ、自分の名前だと思えない。
でも、メグはその名前を呼んだ。
助けてほしい、という声ではなく。
負けないで、という声で。
ミユは歯を食いしばった。
「引っ張るなあああ!」
腕に力を込める。
μブレスレットが光った。
ミュー・ハンマーのヘッド部分が回転し、小さな電子音を鳴らす。
次の瞬間、ハンマーから衝撃波が逆流するように走った。
ぽこん、ではなく。
どん、と少し重い音がした。
絡んでいた糸が弾ける。
蜘蛛男の体が、わずかにのけぞった。
ミユも反動で後ろへ転がった。
「いった……くないけど、びっくりした!」
《今のは良い反応だ》
アインが言う。
「褒めるならもっと分かりやすく褒めて!」
《偶発的だが有効》
「褒めてない!」
蜘蛛男の複眼が、細くなった。
笑っていた気配が消えていく。
ミユは地面に尻もちをついたまま、ハンマーを抱え込んだ。息が荒い。体のあちこちが熱い。怖い。恥ずかしい。混乱している。戦えているのかどうか、自分でも分からない。
でも、さっきよりは少しだけ前に出ている。
戦闘員たちは距離を取り直し、蜘蛛男の周囲へ戻った。42号も草むらからよろよろと起き上がり、腰を押さえながら列の端へ戻る。
「四十二番、復帰します……」
「大丈夫なの?」
ミユが思わず聞く。
「敵に心配されるの、メンタルに来ますね!」
「ごめん!」
「謝らないでください!」
蜘蛛男が低く唸った。
「遊びは終わりだ」
管理棟の奥で、白い糸がさらに増える。
ミユは立ち上がった。
足はまだ震えていた。
ハンマーの構えも、たぶん間違っている。
それでも、彼女はメグと男の子の前からは退かなかった。
《バイト君》
アインの声が、少しだけ真面目になる。
《このまま蜘蛛男と正面から戦っても消耗する。勝利条件を切り替える》
「勝利条件?」
《巣を壊す》
ミユは、息を整えながら聞き返した。
「巣って、どれ」
目の前には、施設全体を覆う白い糸。
管理棟。
貯水槽。
フェンス。
監視カメラ。
スマホ。
男の子を捕まえる糸。
メグを縛る糸。
全部が巣に見えた。
ワトソンの声が続く。
《中央制御室に、蜘蛛男の糸の中枢反応があります》
ミユは管理棟の暗い入口を見た。
その奥に、赤い監視ランプがいくつも光っている。
蜘蛛男がそこを守るように、糸の上で身を沈めた。
ミユは、乾いた喉を鳴らした。
「……あそこに行けってこと?」
《はい》
「初戦闘で?」
《はい》
「面接帰りの高校生に?」
《はい》
「このバイト、絶対おかしい」
《同意します》
ワトソンの即答に、ミユはほんの少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではない。
それでも、笑いそうになった。
その一瞬だけ、恐怖で固まっていた胸が動いた。
ミユはミュー・ハンマーを握り直す。
「メグ、もうちょっとだけ待ってて」
メグは糸に縛られたまま、必死に頷いた。
「はい……!」
男の子も、涙でぐしゃぐしゃの顔でこちらを見る。
ミユは大きく息を吸った。
初戦闘は、思っていたよりずっと泥臭い。
格好よくもない。
スマートでもない。
名乗りは恥ずかしいし、武器はピコピコ鳴るし、敵の下っ端には労災を心配される。
けれど、まだ終わっていない。
ミユは、管理棟の暗がりを睨んだ。
「……行けばいいんでしょ、行けば!」
蜘蛛男の糸が、答えるように震えた。




