第1節 ― サイエンスパワー・メイクアップ!
光は、爆発ではなかった。
音も、熱も、衝撃もない。
ただ、ミユの左手首からあふれた青白い輝きが、一瞬で彼女の全身を包み込んだ。夕方の旧水質管理センター。その錆びたフェンスも、白い糸も、赤く光る監視カメラも、管理棟の暗がりで身を伏せる蜘蛛男も、その光に照らされて色を失った。
時間が、少しだけ遅くなったように見えた。
ミユの視界の中で、白い糸束が迫っている。
メグが叫んでいる。
男の子が泣いている。
蜘蛛男の赤い複眼が、じっとこちらを見ている。
けれど、次の瞬間、ミユの体を取り巻く光の粒が、無数の細い線へ変わった。
線は、数式のように空中を走った。円を描き、弧を描き、ミユの体の輪郭をなぞっていく。青白い粒子の中に、ピンク色の光が混ざる。まるで星屑と実験データを一緒に溶かしたような、不思議な輝きだった。
「な、なにこれ……!」
ミユは自分の腕を見た。
制服の袖が光にほどけるように消え、その上から半透明の膜が重なっていく。膜は一瞬だけ水面のように揺れ、それから硬質な装甲へ変わった。
白を基調にした細い腕部アーマー。
関節部分には、淡いピンクのライン。
手首のμブレスレットは、いつの間にか大きく展開し、銀色の輪とピンクの発光パーツを持つ制御端末に変わっている。
胸元にも、μの記号が浮かんだ。
制服のリボンがあった位置には、ハート型に見える小さなプレートが形成される。けれどよく見ると、それは可愛い飾りではなかった。いくつもの薄い装甲板が重なり、衝撃を外側へ逃がすような構造になっている。
スカートのように広がる軽量アーマーが、腰の周りで展開した。ピンクと白。端には小さな光の粒。ひらりと揺れるたびに、金属とも布ともつかない質感で夕日を反射する。
「ちょ、待って、待って、待って!」
ミユは思わず叫んだ。
待ってほしい。
せめて説明がほしい。
いや、説明があったとしても、たぶん納得はできない。
光は待たなかった。
膝、足首、靴先へと装甲が走る。履いていたスニーカーの形が変わり、白とピンクの軽量ブーツへ変化する。踵に小さな推進器のような部品が生えた。
そして最後に、ミユの右手へ光が集まった。
何かが、手の中で形を取る。
柄。
丸いヘッド。
発光するμマーク。
ピンク色の外装。
白い縁取り。
それは、どう見ても。
「……ピコピコハンマーじゃん!」
《ミュー・ハンマーだ》
アインの声が、ブレスレットから即座に返ってきた。
「名前の問題じゃない!」
《対怪人用高密度衝撃波発生装置だ》
「見た目が完全におもちゃ!」
《威圧感を抑え、使用者の心理的抵抗を軽減するデザインだ》
「むしろ抵抗しかないんだけど!」
光が弾けた。
音が戻る。
迫っていた蜘蛛男の糸束が、ミユの目の前へ到達した。
《左腕を上げろ》
「左って箸を持つ方!?」
《キミの場合はそうだ》
「ややこしい!」
ミユは言われるまま、左腕を上げた。
ブレスレットから半透明の円形シールドが展開する。糸束がそこへ叩きつけられ、白い火花のような光を散らした。衝撃でミユの体が後ろへ押される。
「うわっ!」
足が滑る。
けれど転ばなかった。
ブーツの底が、砂利の地面を噛むように固定された。ミユは自分の体が、いつもより軽く、いつもより強く支えられていることに気づく。
怖い。
でも、立っていられる。
ミユは、恐る恐る自分の姿を見下ろした。
白とピンクの装甲。
胸元のμマーク。
妙に可愛いスカート風アーマー。
手にはピンク色のミュー・ハンマー。
「……なにこれ」
《戦闘用μシステム標準装備だ》
「標準装備が可愛すぎるんだけど!?」
《機能性と視認性を両立した結果だ》
「視認性って、目立ってどうするの!」
《ヒーローには識別性が必要だ》
「科学の話じゃなくなってきた!」
その時、背後でメグが小さく息を呑んだ。
ミユは振り返る。
メグはまだ白い糸に縛られていた。肩から胴へかけて、細い糸が痛々しく巻きついている。怖くないはずがない。痛いはずだ。逃げたいはずだ。
それなのに、メグは目を輝かせていた。
眼鏡の奥の瞳が、夕日の中でうるんでいる。
「……かわいい」
「言わないで!」
ミユは即座に叫んだ。
「今、こっちは人生最大級に恥ずかしいんだから!」
「す、すみません。でも、すごいです。すごく、えっと、その……」
「褒めなくていい! むしろ忘れて!」
「忘れられる気がしません」
「正直!」
メグの声は震えていた。
けれど、その震えの中に、さっきまでとは違うものが混ざっていた。
恐怖だけではない。
驚き。
憧れ。
そして、信じたいという気持ち。
その視線が、ミユには痛いくらい眩しかった。
自分はそんなものではない。
ただの高校生だ。
変なバイトに応募して、変な研究所に行って、変なブレスレットをつけられて、変な格好に変身させられただけだ。
でも、メグは今、ミユを見ている。
助けてくれる人として。
ミユは唇を噛んだ。
管理棟の暗がりで、蜘蛛男が身を起こした。
「変わったか」
赤い複眼が、ミユの全身をなめるように見た。
「光る。飾る。名を持とうとする。人間は、糸に絡まってもなお、自分を特別に見せたがる」
「別に見せたくてこうなったんじゃない!」
ミユはミュー・ハンマーを両手で握った。
握った瞬間、ハンマーのヘッド部分に小さな光が走る。重さは見た目よりずっと軽い。けれど、芯には確かな密度があった。
使い方は分からない。
分からないが、ただのおもちゃではないことだけは分かる。
蜘蛛男の指が動いた。
再び糸が飛ぶ。
《右へ二歩》
「また右!?」
《今度は本当に右だ》
「分かりづらい!」
ミユは右へ跳んだ。
跳んだ、つもりだった。
けれど体が想像以上に軽く、地面を蹴った瞬間、彼女はほとんど跳ね上がるように横へ飛んでいた。
「うわ、高っ!」
糸は空振りし、フェンスに絡みつく。
ミユは着地に失敗しそうになりながら、なんとか片膝をついて止まった。
「なにこれ、体が勝手に!」
《筋力補助と姿勢制御が入っている》
「先に言って!」
《言ったら慣れるのかい?》
「言われないよりマシ!」
ワトソンの声が割り込む。
《ミユさん、蜘蛛男の攻撃間隔が短くなっています。会話しながらの回避は危険です》
「会話させてるのそっち!」
蜘蛛男は糸の上を滑るように移動した。
その動きは速い。地面を歩いていない。施設全体に張り巡らされた糸を足場に、空中を渡っている。管理棟の入口からフェンスの上へ、フェンスの上から電柱へ、電柱から貯水槽の側面へ。赤い複眼が、あらゆる角度からミユを追う。
ミユのスマホが、また勝手に震えた。
地面に落ちたメグのスマホも光る。
周囲で逃げ遅れていた人々の端末にも、一斉に通知が走った。
『変わっても無駄。』
『見えている。』
『糸の中では、すべて遅い。』
「うるさいな、もう!」
ミユは思わず叫び、ミュー・ハンマーを振った。
狙いは蜘蛛男――のつもりだった。
しかし、ハンマーは見事に空を切った。
勢い余って、ミユの体がくるりと回る。
「わっ、待って、止まっ――」
そのまま足元の砂利に引っかかり、前のめりに倒れかける。
《姿勢制御補助》
ブーツの側面から小さな光が噴き、ミユの体勢が強引に戻された。
「助かったけど雑!」
《転倒は回避した》
「気持ちの問題!」
蜘蛛男が、低く笑った。
「不格好だ」
「初めてなんだから仕方ないでしょ!」
「初めての獲物ほど、よく暴れる」
「その言い方やめて!」
その時、アインの声が少しだけ強くなった。
《バイト君、名乗りだ》
「は?」
《名乗りだ》
「名乗り!?」
《ヒーローには必要だ》
「科学なのに急に精神論!」
《敵味方識別、周囲への安心効果、怪人への注意誘導、映像記録における呼称統一。合理的な効果がある》
「理屈をつければ何でも許されると思うな!」
《早く。蜘蛛男が次弾を撃つ》
ミユは一瞬、空を仰ぎたくなった。
変身ワードだけでも限界だった。
その上、名乗り。
しかも、周囲にはまだスマホがある。メグがいる。野次馬もいる。蜘蛛男も見ている。
恥ずかしさで逃げたい。
でも、逃げられない。
蜘蛛男の糸が、メグと男の子をさらに引いた。
「うっ……!」
「やだ、助けて!」
その声で、ミユの中の何かがもう一度切れた。
恥ずかしいとか、録画されているとか、あとで噂になるとか。
それはたぶん、後で死ぬほど後悔すればいい。
今は、メグと男の子が先だ。
ミユはミュー・ハンマーを構え直した。
構え方は、たぶん間違っている。両手で握って、野球のバットみたいになっている。可愛い装甲も、戦闘用のブーツも、まだ全然自分のものになっていない。
それでも、蜘蛛男を睨んだ。
いや、睨もうとした。
怖くて少し目は泳いだ。
でも、前を向いた。
「ええい、もう、知らない!」
ミユは息を吸った。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
μブレスレットが、胸の鼓動に合わせるように光る。
そして、やけくそで叫んだ。
「科学少女プリティミュー! 名前に文句があるなら開発者に言って!」
言った。
言ってしまった。
一瞬、場が止まった。
蜘蛛男の糸が空中でわずかに揺れた。
周囲で逃げかけていた人々が、思わず振り返った。
メグは目を輝かせたまま固まり、男の子は泣きながらもぽかんと口を開けた。
アインの声が、通信越しに淡々と響く。
《名乗り確認。音声登録完了》
「登録しないで!」
《プリティミュー、初期戦闘モードへ移行》
「初期ってなに! まだ何段階あるの!?」
《説明は後だ》
「そればっかり!」
蜘蛛男が、ゆっくりと裂けた口を歪めた。
「プリティ、ミュー」
怪人の声が、その名をなぞる。
「名を持ったか。ならば、その名ごと糸に巻いてやる」
蜘蛛男の背中の糸袋が膨らんだ。
白い糸が、何十本も一斉に放たれる。
ミユはミュー・ハンマーを握りしめた。
怖い。
恥ずかしい。
何も分からない。
それでも、もう名乗ってしまった。
科学少女プリティミュー。
その名前は、あまりにも可愛くて、あまりにも恥ずかしくて、あまりにも今の自分には重すぎた。
けれど、メグがその名を聞いて、泣きそうな顔のまま笑った。
「プリティミュー……!」
その声だけで、ミユは少しだけ前に出られた。
「アイン!」
《何だい》
「次、何すればいいの!」
《まず、死なない》
「もっとヒーローっぽい指示を出して!」
白い糸が迫る。
ミユは悲鳴を飲み込み、ピンク色のハンマーを構えた。
初出勤は、まだ始まったばかりだった。




