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第7節 ― 変身しろ、バイト君

 白い束が、夕方の光を裂いて迫ってきた。


 それは糸というより、鞭だった。


 空気が鳴った。

 ひゅ、と耳のすぐ奥を切るような音がして、ミユは反射的にメグの肩を抱え込んだ。


 次の瞬間、太い糸束が二人のすぐ横を叩いた。


 地面が跳ねる。


 砂利が舞い上がり、ミユの頬に細かな痛みが散った。メグが小さく悲鳴を上げる。フェンスの金網が激しく揺れ、錆びた立入禁止の看板が、ぎい、と嫌な音を立てた。


 ミユはメグを庇うように地面へ倒れ込んだ。


 痛い。


 肘を打った。膝も擦った。頬も熱い。

 でも、まだ動く。まだ立てる。


 立てるはずなのに、体がすぐには言うことを聞かなかった。


「先輩……!」


 メグの声が震えている。


 ミユは顔を上げた。


 メグを縛る糸は、まだ完全にはほどけていなかった。肩から胴にかけて細い白い線が巻きつき、少し動くたびに肌へ食い込むように締まる。眼鏡はずれて、片方のレンズに砂埃がついていた。


 フェンスの向こうでは、男の子がさらに管理棟の方へ引きずられていた。


「やだ、やだぁ! 帰る、帰るから!」


 男の子は泣きながら、両手で地面を掴もうとしていた。けれど指先が触れるのは砂利と乾いた雑草だけで、白い糸は容赦なく足首を引いていく。


 管理棟の暗がりで、蜘蛛男が楽しそうに首を傾けた。


「逃げたいか」


 赤い複眼が、細く光る。


「逃げたいなら、逃げる道を見つけろ。見つけたつもりの道は、すべて我が糸の上だ」


 蜘蛛男の指が動く。


 施設中の白い糸が、同時に震えた。


 フェンス。

 配管。

 割れた窓。

 錆びた監視カメラ。

 地面に落ちたスマホ。

 メグの手首。

 男の子の足。


 全部が、一本の大きな巣になっている。


 ミユは息を飲んだ。


 逃げ道がない。


 そう理解した瞬間、左手首のμブレスレットが熱を持った。


《バイト君》


 アインの声が響く。


 平坦で、冷静で、今この場の恐怖から少しだけ離れた声。


 その声が、ミユには腹立たしくて、同時に少しだけ頼りにも聞こえた。


《μシステムを起動する。変身だ、バイト君》


「聞いてない!」


 ミユは叫んだ。


 こんな状況でなければ、もっと大声で怒鳴っていたと思う。

 いや、十分大声だった。


「変身ってなに!? 今、変身って言った!? 私、面接に来ただけなんだけど!」


《求人票に“制服貸与”と書いた》


「制服って戦闘服のことじゃないでしょ!」


《広義では制服だ》


「広義を悪用するな!」


 蜘蛛男の糸が、再び空中へ走った。


 ミユはメグを抱えたまま横へ転がる。

 糸が、今まで二人がいた場所を貫いた。


 地面に白い線が残る。


 そこから、細かな糸が芽のように広がり、周囲の砂利を絡め取っていく。


 触ったら終わりだ。


 ミユは直感した。


 触れたら、引きずられる。

 縛られる。

 見られる。

 逃げ道を奪われる。


《防御起動だけでは限界がある。完全起動が必要だ》


「完全起動とか言われても分かんない!」


《適合率は十分だ》


「知らない! その適合率って何なの!」


《変身に耐えられる確率だ》


「もっと先に言え!」


 ミユの声が裏返った。


 喉が痛い。

 泣きそうなのか、怒っているのか、自分でも分からない。


 メグが、ミユの腕の中で小さく身じろぎした。


「先輩……変身って……?」


「知らない!」


 ミユは即答した。


 本当に知らない。


 何も知らない。


 朝は求人を見ていただけだった。

 昼はメグと都市伝説の動画を見ていただけだった。

 放課後は、怪しいけれど高時給のバイト面接へ行っただけだった。


 それなのに、今は怪人の前にいる。


 左手首には謎のブレスレット。

 頭の中にはアインの声。

 目の前には白い糸。

 背後には震えるメグ。


 どこで間違えたのか。


 応募ボタンを押した時だ。


 そんなこと、分かっている。


「ミユさん」


 今度はワトソンの声が、ブレスレットから聞こえた。


《μシステムは、あなたの身体を一時的に強化するための装備です。現状では、それ以外にメグさんと男の子を同時に救出できる手段はありません》


「そんな急に真面目な説明されても!」


《急に真面目な状況になりました》


「ずっと真面目だったよ!」


《あなたが認識したのが今です》


「言い方!」


 言い返しながら、ミユは男の子を見た。


 男の子の体が、また一歩分、管理棟の方へ引かれた。


 もう、フェンスからでは手が届かない。


 メグも気づいたのだろう。青ざめた顔で、必死に声を上げる。


「だめ! その子を離して!」


 蜘蛛男の赤い複眼が、メグへ向いた。


「声が大きい」


 指が動く。


 メグを縛っていた糸が、ぎゅっと締まった。


「うっ……!」


「メグ!」


 ミユは反射的にメグの体に手を回した。

 糸を引き剥がそうとする。


 しかし、糸は硬かった。


 細いのに、指が入らない。無理に引っ張ると、メグの体ごと締めつけてしまう。


「やめて、メグが痛がってる!」


「痛いと、よく動く」


 蜘蛛男は笑った。


「よく泣く。よく叫ぶ。よく逃げる。糸にかかったものは、みな美しく震える」


「最低……!」


 ミユは歯を食いしばった。


 怖い。


 怖いけれど、それ以上に腹が立った。


 メグを見て笑っている。

 男の子を引きずって笑っている。

 周りの人たちのスマホを勝手に動かして、逃げ場を奪って、怖がる様子を眺めている。


 そんなことのために、誰かが泣かされている。


 左手首のブレスレットが、さらに強く光った。


 光は青白さを失い、少しずつピンク色を帯びていく。内側から脈打つように、μの記号が浮かび上がった。


《感情出力の上昇を確認》


 アインの声。


《バイト君、起動するなら今だ》


「だから、私はやるって言ってない!」


《言っていないが、残り時間は少ない》


「勝手に決めないで!」


《では決めろ》


 その言葉だけ、妙に静かだった。


 ミユは一瞬、何も言えなくなった。


《逃げるか、起動するか。どちらでもいい。ただし、選択の結果は残る》


 冷たい言い方だった。


 けれど、嘘ではなかった。


 逃げてもいい。


 本当は、逃げてもいいのだと思う。


 ミユはただの高校生だ。

 怪人退治の訓練なんて受けていない。

 何かに選ばれた覚えもない。

 正義の味方になりたいと思ったこともない。


 母に言われた通り、変だと思った時点で帰ればよかった。

 メグを叱って、車に乗せて、警察か消防に連絡すればよかった。

 自分が前に出る理由なんて、どこにもない。


 でも。


「先輩……」


 メグが、かすれた声で言った。


「逃げてください」


 その声が、ミユの胸を刺した。


 メグは泣きそうだった。

 怖くて、痛くて、それでもミユを逃がそうとしている。


 フェンスの向こうでは、男の子も泣いていた。


「お姉ちゃん、来ないで……」


 来ないで。


 逃げて。


 その言葉は、優しい。

 優しいから、苦しかった。


 ここで逃げたら、自分はきっと一生、その優しさを覚えている。


 助けられなかったことよりも、助けようとしなかったことを覚えてしまう。


 母の顔が浮かんだ。


 朝の食卓。

 冷めていく味噌汁。

 「お金のこと、あんまりひとりで考えすぎないこと」と言った声。


 ミユは、母に心配をかけたくなかった。

 少しでも役に立ちたかった。

 そのために、高額バイトに応募した。


 なのに、今ここで逃げたら。


 たぶん、時給二五〇〇円よりずっと重いものを、自分で背負うことになる。


「……私」


 ミユは震える息を吐いた。


 膝はまだ震えている。

 手も震えている。

 頬の傷は痛い。

 喉はからからで、心臓はうるさい。


 正義の味方なんかじゃない。


 そんな覚悟はない。


 でも。


「今、逃げたら……たぶん、寝られない」


《睡眠障害の話かい?》


「そういうことじゃない!」


 ミユは反射で叫んだ。


 ワトソンが、ごく小さく電子音のため息をつく。


《アイン。今のは比喩です》


《理解した》


「絶対してない!」


 叫んだ拍子に、少しだけ怖さが薄れた。


 ほんの少しだけ。


 ミユはメグの前に立ち上がった。


 足元は不安定だった。糸がいつ飛んでくるか分からない。蜘蛛男の赤い複眼が、自分を見ている。監視カメラも、スマホも、全部こちらを向いている。


 それでも、立った。


 メグが息を呑む。


「先輩……?」


「メグ、動かないで。絶対、糸引っ張らないで」


「でも」


「大丈夫って言いたいけど、大丈夫かは分かんない」


 ミユは左手首を見た。


 μブレスレットは、今までで一番強く光っていた。


「でも、なんか、やるしかないっぽい」


 声は震えていた。


 格好よくはなかった。


 ヒーローの決意には、全然見えなかった。


 でも、ミユはそこにいた。


 蜘蛛男がゆっくりと体を起こす。管理棟の入口上部から、節のある手足を伸ばし、糸の上を滑るようにこちらへ近づいてくる。


「変わるか。震える餌が、別のものに」


「餌じゃないって言ってるでしょ……!」


 ミユは睨み返そうとした。


 でも、目が合った瞬間、やっぱり怖くて少しだけ視線が揺れた。


 蜘蛛男はそれを見逃さない。


「怖いか」


「怖いよ!」


 ミユは叫んだ。


「怖いに決まってるでしょ! 今日初対面の怪人に、怖くない方がおかしいでしょ!」


 蜘蛛男の動きが、一瞬だけ止まった。


 アインも、通信の向こうで黙った気配がした。


 ミユは息を荒くしながら続けた。


「でも、怖いからって、あんたの好きにさせる理由にはならない!」


 言ってから、自分で驚いた。


 こんな台詞、自分が言うとは思わなかった。


 足は震えている。

 手も震えている。

 でも、声だけは出た。


 ブレスレットが応えるように発光した。


《起動条件、到達》


 ワトソンの声が響く。


《μシステム、待機状態から初期変身シーケンスへ移行可能》


「待って。今、変身シーケンスって言った?」


《言いました》


「ほんとにやるの?」


《あなたが選択しました》


「選択したっていうか、追い込まれただけなんだけど!」


《選択には、しばしば追い込まれた状況も含まれます》


「哲学っぽく誤魔化さないで!」


 アインの声が割り込んだ。


《バイト君、起動ワードを言え》


「起動ワード?」


《サイエンスパワー・メイクアップ》


 ミユは絶句した。


 白い糸が揺れる音も、メグの荒い息も、男の子の泣き声も、遠巻きに逃げていく人々の足音も、その瞬間だけ全部遠くなった。


 サイエンスパワー。


 メイクアップ。


 それを。


 自分が。


 この状況で。


「……それ、私が言うの?」


《当然だ》


「絶対イヤ!」


 ミユは全力で拒否した。


 心の底から拒否した。


「無理! 無理無理無理! 人前でそんなの言えるわけないでしょ! しかもメグいるし! スマホいっぱいあるし! 絶対どっかで録画されてるし!」


《音声認証を兼ねている》


「もっと普通の認証にして!」


《初期設計者の趣味だ》


「誰! その初期設計者連れてきて!」


《ボクだ》


「あんたか!」


 ミユは本気でアインを殴りたくなった。


 だが、殴る相手はここにいない。いるのは通信の向こうだ。目の前にいるのは蜘蛛男で、メグを縛り、男の子を引きずっている。


 最悪だ。


 どっちを向いても最悪だ。


「先輩……」


 メグが、苦しそうに声を出した。


「わたしは、聞かなかったことにしますから……」


「気遣いが逆に痛い!」


 蜘蛛男が、かさり、と糸の上を動いた。


「何を迷う。言葉ひとつで変われるなら、言えばよい」


「怪人に正論っぽいこと言われるの腹立つ!」


「言えぬなら、糸に戻れ」


 蜘蛛男の背中の糸袋が膨らんだ。


 今度は、先ほどよりもずっと太い糸束だった。


 それは男の子へ伸びていた糸と、メグを縛る糸を同時に引いた。


「きゃっ!」


「うわああ!」


 メグの体がフェンスへ強く引かれる。男の子は管理棟の暗がりへ、さらに半身ほど引きずり込まれた。


 ミユの中で、何かが切れた。


 恥ずかしいとか。

 無理とか。

 人前とか。

 録画とか。


 全部、今ではない。


 今ではないのだ。


「分かった! 言えばいいんでしょ、言えば!」


《発声は明瞭に》


「うるさい!」


 ミユは左手首を胸の前に掲げた。


 μブレスレットの光が、夕方の薄暗さの中で鮮やかに広がる。青白い光に、ピンクの粒子が混ざっていく。風もないのに、ミユの髪がふわりと浮いた。


 メグが目を見開く。


「先輩……?」


 男の子が泣きながらこちらを見る。


 蜘蛛男の複眼が、一斉にミユへ向く。


 ミユは顔を真っ赤にして、歯を食いしばった。


 こんなの、絶対に自分の人生で言う台詞ではなかった。


 でも、言わなければ、メグが引きずられる。

 男の子が消える。

 自分は、きっと一生、今日の夕方を忘れられなくなる。


 だから。


 ミユは、ほとんどやけくそで叫んだ。


「サイエンスパワー・メイクアップ!」


 その瞬間、μブレスレットが眩い光を放った。


 音が消えた。


 白い糸が迫る。

 蜘蛛男が跳ぶ。

 メグの声が、遠くでミユの名前を呼ぶ。


 ミユの足元から、光の円が広がった。


 青白い数式のような線。

 ピンク色の粒子。

 心臓の鼓動に合わせて脈打つμの記号。


 光はミユの手首から腕へ、肩へ、胸へ、全身へ広がっていく。


 熱い。


 怖い。


 でも、もう止まらない。


 高額バイトには、だいたい理由がある。


 ミユはその理由を、今まさに、全身で理解しようとしていた。

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