第6節 ― 蜘蛛男、出現
管理棟の暗がりの奥で、赤い光が増えた。
一つではなかった。
二つでもなかった。
割れた窓の向こう、古びた配管の影、天井から垂れ下がった白い糸の奥で、いくつもの赤い点がゆっくり瞬いている。
それは、目だった。
ただし、人間の目ではない。
丸く、硬く、濡れたように光る複眼。
いくつもの視線が、同時にミユたちを見ていた。
風が止まった。
いや、もともと風など吹いていなかったのかもしれない。けれどその瞬間、施設の外にいた野次馬たちのざわめきも、川の水音も、遠くを走る車の音も、全部が急に薄くなった。
聞こえるのは、かさり、かさり、という乾いた音だけ。
何かが糸を踏む音。
何かが壁を這う音。
何かが、こちらへ降りてくる音。
男の子が、小さくしゃくり上げた。
「やだ……」
その声に反応するように、管理棟の入口の影が膨らんだ。
白い糸が左右へ裂ける。
その奥から、黒いものが現れた。
人型ではあった。
けれど、人間ではなかった。
黒い外骨格。節のある長い手足。肩から背中へ盛り上がった甲殻のような装甲。背中には、機械とも生き物の器官ともつかない丸い糸袋がいくつも並び、そこから細い白い糸が脈打つように伸びている。
首元には、古びた赤いマフラーの切れ端のような布が巻かれていた。
そこだけが、妙に昔のヒーロー番組の怪人じみている。
でも、指先から垂れる糸には、青白い光のラインが走っていた。糸というより、光ファイバーの束。蜘蛛の巣というより、街の通信網を無理やり生き物にしたもの。
顔には、人間の口に似た裂け目がある。
その上に、赤い複眼がぎらぎらと並んでいた。
ミユは息をするのを忘れた。
頭では分かっていた。
怪人反応。
スパイダータイプ。
蜘蛛男。
アインもワトソンも、ずっとそう言っていた。
けれど、言葉で聞くのと、実際に目の前へ現れるのとでは、まるで違った。
これは、いる。
冗談でも、動画でも、加工でもない。
怪人が、目の前にいる。
蜘蛛男は、管理棟の入口の上部に片手をかけ、逆さにぶら下がるように身を乗り出した。
赤い複眼が、ミユを見た。
次に、メグを見た。
それから、足元を糸に絡め取られている男の子を見た。
裂けた口が、にたりと歪む。
「見ィつけた」
声は、湿っていた。
耳元で囁かれたようでもあり、スマホのスピーカーから割れて聞こえる音声のようでもあった。人間の声を真似しているのに、どこか周波数がずれている。背中の奥を冷たい指で撫でられたような不快感が、ミユの全身に走った。
メグが、ミユの背後で小さく息を呑む。
「本当に……怪人……」
「感動してる場合じゃない!」
ミユが叫んだ瞬間、蜘蛛男の右腕が動いた。
速かった。
黒い腕がしなる。指先から白い糸が飛ぶ。
糸は空中で何本にも分かれ、男の子の足元へ絡みついた。
「うわっ!」
男の子の体が後ろへ引かれる。
「待って!」
ミユはフェンスの切れ目へ走ろうとした。
その瞬間、左手首のμブレスレットが強く光った。
《接近警告》
ワトソンの声が、ブレスレットから響いた。
ミユの目の前を、細い糸が横切った。
もし一歩前に出ていたら、顔に当たっていた。
ミユは足を止めきれず、砂利の上でつまずいた。
「ひっ……!」
情けない声が出た。
次の糸が、フェンスの外側へ飛ぶ。
狙いは、メグだった。
「メグ!」
ミユが振り返るより早く、メグの手首に白い糸が絡んだ。
「あっ――」
メグのスマホが地面に落ちる。
糸はさらに伸び、メグの腕から肩へ、肩から胴へ、あっという間に巻きついていった。細いのに強い。メグは必死にもがいたが、糸は動くほどきつくなる。
「先輩!」
「メグ、動かないで!」
「でも、これ、締まって――」
ミユはメグへ駆け寄ろうとした。
けれど、蜘蛛男が指を軽く動かす。
フェンスの隙間から伸びた別の糸が、ミユの足元に突き刺さった。地面の砂利を弾き、白い線が靴のすぐ横を走る。
ミユは反射的に飛び退いた。
飛び退いた自分に、ぞっとした。
助けたいのに。
体が、先に逃げた。
怖い。
怖い。
怖い。
自分の心臓の音が、耳のすぐ奥で鳴っている。
蜘蛛男は、そんなミユの反応を楽しむように、裂けた口を広げた。
「逃げる。止まる。迷う。よく見える」
赤い複眼が、一斉に細くなる。
「お前の足。お前の手。お前の目。お前の呼吸。全部、見えている」
施設の監視カメラが、ぎぎ、と音を立てて動いた。
一斉に、ミユへ向く。
管理棟のカメラ。
フェンス横のカメラ。
貯水槽の上のカメラ。
電柱に取りつけられた古い防犯カメラ。
さらに、野次馬たちのスマホのカメラまで。
ミユは、自分が一度に何十もの目で見られているような感覚に襲われた。
周囲の人々がざわめく。
「え、動かない」
「スマホ、勝手に撮影してる!」
「ライブ切れないんだけど!」
「通知来た、なんか通知来た!」
「逃げろって、これ、誰が――」
ミユのスマホも震えた。
地面に落ちたメグのスマホも。
男の子のポケットの中からも。
野次馬たちの手の中でも、いくつもの画面が一斉に光る。
通知。
そこには、同じ文が表示されていた。
『逃げても無駄。』
次の瞬間、二つ目。
『あなたの場所は見えている。』
三つ目。
『次はあなた。』
誰かが悲鳴を上げた。
それをきっかけに、野次馬たちは一斉に後ずさった。スマホを投げ捨てる者。必死に電源を切ろうとする者。動画を撮り続けていた若い男が、青ざめた顔で画面を叩く。
「なんで切れないんだよ!」
蜘蛛男は、ゆっくりと体を揺らした。
上から吊られているように。
あるいは、自分こそがこの空間を吊るしているように。
「逃げるな。逃げるなら、もっとよく見えるところへ逃げろ」
蜘蛛男の指が動く。
男の子の体が、管理棟の方へ少し引き寄せられた。
「やだ、やだぁ!」
「やめて!」
メグが叫ぶ。
その声に反応するように、メグを縛る糸も強く引かれた。メグの体がフェンスにぶつかる。
「痛っ……!」
「メグ!」
ミユは走ろうとした。
でも、足が動かない。
自分でも信じられないくらい、膝が震えている。手のひらは汗で濡れて、喉はからからで、息を吸うたびに胸の奥が痛い。
誰かが危ない。
メグが捕まっている。
男の子が引きずられている。
助けなきゃ。
そう思うのに、体が動かない。
怪人が怖い。
糸が怖い。
見られているのが怖い。
自分のスマホの画面に、次は自分だと表示されているのが怖い。
ミユは、自分が普通の高校生なのだと痛いほど思い知った。
正義の味方ではない。
戦える人間ではない。
怪人を前にして、格好よく飛び出せるような人間ではない。
左手首で、μブレスレットだけが明るく光っていた。
その光が、場違いなくらい綺麗で、ミユは余計に怖くなった。
その時、ブレスレットからアインの声が聞こえた。
《バイト君》
「今それどころじゃない!」
《右に三歩》
「右ってどっち!」
《箸を持つ方》
「私、左利きなんだけど!」
《じゃあ逆だ》
「雑!」
ミユは反射で叫び返した。
けれど、叫びながらも体が動いた。
右、ではなく、左利きの自分にとっての箸を持つ方の逆。つまり右。いや、今は考えている場合ではない。とにかくアインが言った方向へ三歩。
一歩。
足が砂利を踏む。
二歩。
白い糸が、さっきまでミユのいた場所を通り抜けた。
三歩。
糸は地面に刺さり、砂利を弾いた。
ミユは息を止めた。
もし動いていなかったら、胸のあたりに当たっていた。
「……当たるとこだった!」
《だから言った》
「説明が遅い!」
《今のは警告から着弾まで一・二秒。十分に早い》
「人間には早くない!」
ワトソンの声が重なった。
《ミユさん、呼吸を。過呼吸傾向があります》
「呼吸って言われると分かんなくなる!」
《吸って、吐いて》
「そんな基本から!?」
《基本が最も重要です》
ミユは言われた通り、無理やり息を吸った。
空気が冷たい。
錆と川と糸の匂いが混ざって、喉が少し痛い。
それでも、ほんの少しだけ視界が戻った。
メグはフェンスのそばで糸に縛られている。男の子は施設内側で足を絡め取られている。蜘蛛男は管理棟の入口上部。監視カメラはミユを追っている。周囲の人たちは逃げ始めているが、何人かはスマホを落として混乱している。
アインの声が続く。
《前方、糸二本。低い姿勢》
「低い姿勢ってどのくらい!」
《転ぶ寸前》
「表現!」
ミユはしゃがみ込むように体を低くした。
頭の上を、白い糸が二本、ひゅんと音を立てて通り過ぎる。髪の先がわずかに揺れた。
怖い。
でも、さっきより見える。
アインの指示は腹が立つほど雑で、説明も足りなくて、声も平坦で、今すぐ文句を言いたい。
けれど、少なくとも糸の動きは読んでいる。
ミユは、地面に手をつきながら顔を上げた。
「アイン! メグを助けるには!?」
《糸の基部を切る必要がある》
「切るって、何で!」
《現時点のキミには切断装備がない》
「じゃあどうしろっていうの!」
《まず、生き残る》
「それ目標低くない!?」
《初回任務としては妥当だ》
「任務にしないで!」
蜘蛛男が、かさりと身を揺らした。
「面白い」
赤い複眼が、ミユを見つめる。
「よく避ける。よく叫ぶ。よく震える。お前、ただの餌ではないな」
「餌じゃない!」
ミユは言い返した。
声は震えていた。
でも、言い返した。
蜘蛛男の口が裂ける。
「では、何だ」
ミユは答えられなかった。
何だと聞かれても、分からない。
高校生。
バイト面接に来ただけの人間。
変なブレスレットをつけられた人間。
メグを止められなかった先輩。
怖くて足が震えている、ただのミユ。
蜘蛛男は、それを見透かしたように笑った。
「分からぬなら、糸で決めてやる」
背中の糸袋が膨らむ。
白い糸が、一斉に震えた。
施設全体が、鳴った。
フェンス。
配管。
管理棟。
監視カメラ。
スマホ。
地面に落ちたメグの端末。
野次馬たちが手放した画面。
すべてが、蜘蛛男の指先につながっているように見えた。
そして、ミユのスマホにまた通知が表示される。
『あなたも、もう巣の中。』
ミユの背中に冷たい汗が流れた。
メグが叫ぶ。
「ミユ先輩、逃げてください!」
男の子も泣きながら言う。
「お姉ちゃん、来ないで!」
その二つの声が重なった。
逃げていい。
来ないでいい。
自分たちを助けようとして、巻き込まれなくていい。
そう言われている。
それなのに、ミユは動けなかった。
さっきまでの恐怖で動けなかったのとは、違う。
逃げてもいいと言われて、かえって足が止まった。
ここで逃げたら。
メグが泣いている顔を、ずっと思い出す。
男の子の声を、ずっと思い出す。
母に「変だったから帰った」と言えても、自分では自分を許せない。
そんなこと、分かりたくなかった。
分かりたくなかったけれど、分かってしまった。
アインの声が低くなる。
《バイト君》
「……なに」
《μシステムの防御出力を一段階上げる。動くなら今だ》
「だから、どう動けばいいの」
《フェンス内へはまだ入るな。まず高梨メグを糸の可動範囲から外す》
「メグを?」
《右斜め前、二歩。そこから彼女の肩を押せ。糸の牽引方向をずらせる》
「押すって、乱暴!」
《死ぬよりはいい》
「言い方!」
ミユは歯を食いしばった。
右斜め前。
二歩。
また糸が来るかもしれない。
怖い。
でも、メグの糸はフェンスに絡んでいる。今なら、まだ完全には引き込まれていない。
ミユは走った。
白い糸が、横から飛ぶ。
《頭を下げて》
「分かってる!」
今度は、言われるより少し早く体が動いた。
糸が髪をかすめる。
ミユはメグのそばへ滑り込むように近づき、その肩を両手で押した。
「メグ、こっち!」
「きゃっ!」
メグの体が横へずれる。
同時に、メグを引いていた糸の角度が変わり、フェンスの金網に強く擦れた。ぎり、と嫌な音がする。完全には切れないが、牽引の力が一瞬だけ弱まった。
メグがその場に膝をつく。
「先輩……!」
「動かないで。動くと締まる!」
「はい……!」
ミユはメグの前に立った。
自分でも、どうしてそこに立ったのか分からなかった。
メグを守れるわけではない。
怪人と戦えるわけでもない。
それでも、メグの前に立っていた。
蜘蛛男は、赤い複眼を細めた。
「ほう」
その声には、先ほどまでとは違う色が混じっていた。
興味。
獲物を見る目から、別の何かを見る目へ変わっていく。
「巣の中で、糸に逆らうか」
蜘蛛男の背中から、さらに太い糸が伸びた。
今度の糸は、さっきまでの細い線ではない。束になっている。白く、重く、ところどころに青白い光が走っている。ミユの胴体など簡単に巻き取れそうだった。
アインの声が鋭くなる。
《退避》
「どこに!」
《後方三歩》
「後ろにメグがいる!」
《なら横》
「横ってどっち!」
《左》
「箸を持つ方!?」
《キミの場合はそうだ》
「最初からそう言って!」
ミユはメグの腕を抱えるようにして、横へ転がった。
太い糸が、二人のすぐ横を叩いた。
地面が跳ねる。
砂利が飛び、ミユの頬に小さく当たった。
痛い。
少し切れたのか、頬が熱い。
ミユは、頬に手を当てた。
指先に、ほんの少し血がついた。
それを見た瞬間、遅れて恐怖が腹の底から湧き上がった。
遊びではない。
動画でも、都市伝説でも、面接でもない。
当たったら、怪我をする。
下手をしたら、死ぬ。
ミユの視界が揺れる。
それでも、蜘蛛男は待ってくれない。
赤い複眼が、楽しそうに光った。
「逃げても無駄。見えている。次は――」
蜘蛛男の指が、ミユを指した。
「お前だ」
μブレスレットが、強く発光した。
ミユの左手首から、熱が広がる。
アインの声が、ブレスレット越しに低く響いた。
《バイト君。次の段階へ移る》
「次って何」
《μシステムを起動する》
ミユは、息を呑んだ。
蜘蛛男の糸が、再び空中へ放たれる。
白い束が、夕方の光を裂いて迫ってきた。




