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第5節 ― 旧水質管理センターの蜘蛛の巣

 旧水質管理センターは、夕方の町の端に沈むように建っていた。


 ホウジュ区の住宅地を抜け、古い商店街を過ぎ、川沿いの道へ出ると、町の音は少しずつ薄くなる。車の走行音も、人の話し声も、店先の呼び込みも、全部が背後に置き去りにされていく。


 代わりに聞こえてくるのは、川の水音と、風に揺れる金網の軋みだった。


 十年前に閉鎖された施設。


 そう聞いていた。


 けれど、目の前に現れたそれは、ただの廃墟ではなかった。


 錆びたフェンス。

 傾いた立入禁止の看板。

 ひび割れたコンクリートの外壁。

 古い貯水槽。

 窓ガラスの割れた管理棟。

 その奥に沈むように並んだ、配管と階段と、暗い開口部。


 そこまでは、どこにでもある廃施設だった。


 けれど、その全体を覆っている白いものが、施設の意味を変えていた。


 糸。


 最初にそう思った。


 でも、近づくほど、それはミユの知っている蜘蛛の糸ではなくなっていった。


 細い。

 白い。

 けれど、ところどころに光が走っている。


 ただの繊維ではない。まるで透明なケーブルの中を、淡い電流が流れているみたいだった。フェンスから管理棟の窓へ、屋上から貯水槽へ、配管から監視カメラへ。糸は施設全体を縫いつけるように張り巡らされている。


 夕日を受けると銀色に光り、影に入ると、そこだけ闇が濃くなる。


 ミユは車の後部座席から、その景色を見た瞬間、言葉を失った。


「……なに、これ」


 声が、自分のものではないみたいに聞こえた。


 昼休みに見た動画は、たった十二秒だった。画質も悪く、手ぶれもひどく、加工だと言い張れば、まだそう思えた。


 でも、今は違う。


 窓の向こうに、白い糸がある。


 現実として、そこにある。


 そして、それは呼吸しているように、かすかに揺れていた。


 アインの小型バンは、施設から少し離れた路地に停まった。見た目は何の変哲もない白い社用車だ。けれど車内のモニターには、施設周辺の立体図と、赤い警告表示がいくつも浮かんでいる。


 ワトソンは助手席の端末に接続され、猫型の体を丸く伏せたまま、青白い瞳だけを光らせていた。


《通信干渉を確認。周辺スマートフォン端末、複数台に異常アクセス痕》


「異常アクセスって?」


 ミユが訊くと、アインはモニターを見たまま答えた。


「カメラ、位置情報、通知機能の乗っ取りだ」


「乗っ取り?」


「蜘蛛男の糸は、物理的な拘束器官であると同時に、通信補助端末として機能している可能性が高い。旧水質管理センターには、閉鎖前の監視設備と通信配線が残っている。それを利用して、周辺の機器へ干渉している」


「つまり?」


「ここに近づいたスマートフォンは、見られているかもしれない」


 ミユは反射的に自分のスマホを見た。


 画面の右上では、電波表示が不安定に揺れている。圏外になったかと思うと、一本だけ立つ。すぐに消える。通知は来ない。メグへの返信も送れない。


 なのに、画面が一瞬だけ勝手に明るくなった。


 ミユは息を呑んだ。


「今、触ってない」


「触るな」


 アインの声が少しだけ鋭くなった。


 画面には、何かの投稿が表示されていた。


『ホウジュ区の蜘蛛の巣廃墟、ガチでやばい』

『近くまで来たけど電波変』

『ライブ中 誰かいる?』

『白い糸、増えてない?』

『赤いランプみたいなの見えた』

『旧水質管理センター 蜘蛛 怪人?』

『逃げた方がいい?』

『いや、もっと近くで撮って』


 ミユはぞっとした。


 施設の周辺には、遠巻きに何人かの人影があった。


 制服姿の高校生。

 自転車を停めた大学生らしい二人組。

 スマホを掲げている若い男。

 犬の散歩の途中で足を止めた中年女性。

 たぶん、全員が同じものを見ている。


 白い糸。


 廃墟。


 不気味な噂。


 スマホで撮れば、何かが起きるかもしれない場所。


 危ないと分かっているのに、人は近づく。


 メグだけではない。


 画面の中にある「やばい」は、警告ではなく、誘惑にもなるのだ。


「……なんで逃げないの」


 ミユは小さく呟いた。


 自分の声が少し震えている。


 ワトソンが答えた。


「恐怖と好奇心は、しばしば同じ対象へ向かいます」


「猫型端末が人間心理を語らないで」


「私は猫ではありません」


「今そこはいい」


 ミユは車の窓に手をついた。


 フェンスの向こうに、赤い光がいくつも見えた。


 最初は夕日が割れた窓に反射しているのかと思った。けれど違う。監視カメラだった。古い施設の外壁やポールに取りつけられた監視カメラが、ありえない角度で動いている。


 本来なら、もう電源など入っていないはずのカメラ。

 十年前に止まったはずの目。


 そのレンズの奥で、赤いランプが点いていた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 まるで、施設全体がこちらを見ている。


 ミユは背筋を強張らせた。


「アイン。あのカメラ、動いてる」


「見ている」


「誰が」


「蜘蛛男だ」


 その名前を聞いた瞬間、ミユの左手首でμブレスレットが強く脈打った。


 淡い青白い光が、一瞬だけピンクに変わる。


 ミユは手首を押さえた。


「なに、これ。反応してる?」


「怪人反応に対する自動防御同期だ。現時点では問題ない」


「問題ないって言われるたびに問題ある気がしてくる」


「それは認知の問題だ」


「こっちのせいにするな!」


 アインはすでに車のドアを開けていた。


 小柄な体に不釣り合いなほど大きな白衣が、夕方の風に揺れる。片手にはタブレット。もう片方には、細長い黒いケースを持っている。


 ミユも慌てて車を降りた。


 その瞬間、廃施設の匂いがした。


 湿ったコンクリート。

 錆びた鉄。

 川の水。

 古い機械油。

 そして、何か生臭いような、甘いような、言葉にしづらい匂い。


 ミユは顔をしかめる。


「……くさ」


「有機質の分泌物が混ざっている」


「言い方!」


「蜘蛛男の糸だ」


「もっと嫌になった!」


 ワトソンも車から降りた。猫型の体は地面に着地すると、すぐに低い姿勢になった。耳がぴくりと動く。しっぽがまっすぐ伸びる。


「人間反応を再確認しました。フェンス外側に一名。管理棟一階付近に一名。後者は低年齢と推定」


「子どもがいるの?」


 ミユの声が跳ねた。


 アインがモニターの情報をタブレットに転送する。


「推定年齢、八歳から十歳。移動速度が不安定。迷い込んだ可能性がある」


「なんでそんなところに!」


「好奇心、あるいは動画配信の影響」


「最悪!」


 その時だった。


 フェンスの向こう側ではなく、こちら側。施設の外周を回り込む細い歩道の方から、小さな物音がした。


 砂利を踏む音。


 続いて、聞き覚えのある声。


「……やっぱり、ここからなら中が見える」


 ミユは振り向いた。


 心臓が嫌な跳ね方をした。


 そこに、メグがいた。


 制服の上にカーディガン。肩からスクールバッグ。片手にはスマホ。もう片方の手で、眼鏡の位置を直している。フェンスの外側に立っている。確かに、中には入っていない。


 入ってはいない。


 でも、来ていた。


 約束したのに。


 ミユは頭で考えるより早く叫んだ。


「メグ!?」


 メグがびくっと肩を震わせた。


 こちらを振り向く。


 眼鏡の奥の目が、大きく見開かれる。


「ミユ先輩!?」


「なんでいるの!」


「先輩こそなんでここに!?」


 ほとんど同時だった。


 夕方の空の下、白い糸に覆われた廃施設の前で、いつもの学校の会話みたいな声がぶつかった。


 その違和感が、ミユの胸に妙に刺さった。


 ここは学校ではない。

 昼休みの教室でもない。

 弁当を食べながら、怪しい動画について話す場所ではない。


 なのに、メグがいる。


 日常が、ここまで来てしまっている。


 ミユは駆け寄った。


「来ないって約束したでしょ!」


「す、すみません。でも、先輩に連絡したあと、やっぱり気になって、それで、フェンスの外から見るだけならって」


「それが駄目だって言ったの!」


「本当に中には入ってません!」


「そういう問題じゃない!」


 メグは怒られているのに、視線がちらちらとミユの背後へ向かっていた。


 アイン。

 ワトソン。

 白い小型バン。

 ミユの手首で光るμブレスレット。


 全部、普通ではない。


 メグは眼鏡を押し上げた。


「先輩、その人たちは……?」


「えっと」


 ミユは言葉に詰まった。


 面接先の人。

 怪人対策研究所の所長。

 しゃべる猫型端末。

 勝手にブレスレットをつけた危険人物。


 どれを言っても説明にならない。


 アインは、そんなミユの困惑を無視して歩いてきた。


「キミが高梨メグか」


 メグがびくっとする。


「え、どうして名前を」


「ミユさんの通信履歴と、直近の連絡内容から推定した」


「個人情報!」


 ミユが叫ぶ。


 アインは気にしない。


「キミはここから離れた方がいい。危険だ」


 言っている内容は正しい。


 正しいのだが、言い方があまりにも平板だった。


 メグは、驚きと困惑と好奇心が混ざった顔でアインを見た。


「危険って、やっぱり、あの糸は……」


「怪人由来の生体繊維だ」


「怪人」


 メグの目が、恐怖より先に光った。


 ミユはその顔を見て、両肩を掴みたくなった。


「メグ、今ちょっと嬉しそうになったでしょ」


「な、なってません」


「なった!」


「興味深いとは思いました」


「そういうところ!」


 ワトソンが静かに近づいてきた。


 メグはワトソンを見て、今度こそ完全に固まった。


「猫……?」


「猫ではありません。猫型端末です」


「しゃべった」


「その反応は本日二例目です」


「二例目って私のこと!?」


 ミユが言うと、ワトソンは軽くしっぽを揺らした。


 メグは一歩近づきかけた。


「すごい……本当に人工知能なんですか? 自律型ですか? 発声は首輪のスピーカー? それとも口腔部に――」


「メグ、今それどころじゃない!」


「すみません!」


 メグは慌てて姿勢を正した。


 その時、フェンスの向こうから小さな声が聞こえた。


「……おーい」


 ミユたちは一斉に振り向いた。


 声は、施設の内側からだった。


 管理棟の方。


 割れた窓の下。

 錆びた配管の影。

 白い糸が幾重にも張られた奥。


 そこに、小学生くらいの男の子がいた。


 黄色いランドセルではない。学校帰りではなく、休日用の小さなリュックを背負っている。半袖の上にパーカー。膝には擦り傷がある。顔は青ざめ、今にも泣きそうだった。


 男の子は、フェンスの内側からこちらを見ていた。


 どうやって入ったのか、フェンスの一部が古く破れている。そこから潜り込んだのだろう。


 ミユの頭が熱くなった。


「なにしてるの! そこから出て!」


 男の子は首を横に振った。


「出られない……」


「なんで!」


「道が、糸で……」


 声が震えている。


 男の子の足元には、白い糸が絡んでいた。


 まだ完全には捕まっていない。けれど、細い糸が靴に巻きつき、足首のあたりまで伸びている。男の子が一歩動こうとするたび、糸がぴんと張る。


 その奥、管理棟の暗い入口の中で、何かが動いた。


 かさり。


 乾いた音。


 ミユの全身が強張った。


 それは、ただの風ではない。


 糸が動いている。


 管理棟の壁から、配管から、割れた窓から、白い糸が少しずつ男の子の方へ伸びている。ゆっくりと。けれど確実に。


 蜘蛛が獲物へ近づくように。


「アイン!」


 ミユが叫ぶ。


 アインはすでにフェンスの状態を見ていた。


「フェンスの切れ目から入れる。だが、糸に触れるな。触れれば端末干渉か拘束を受ける」


「じゃあどうすればいいの!」


「解析中」


「解析中じゃ間に合わない!」


 ミユはフェンスに駆け寄った。


 錆びた金網の一部が、人ひとり通れるくらいに曲がっている。そこから内側へ入れる。入れてしまう。


 だから男の子も入った。


 たぶん、動画を見たのだ。

 面白半分で来たのかもしれない。

 誰かに見せるためかもしれない。

 ただの好奇心かもしれない。


 でも、今は関係ない。


 子どもが、糸に絡まれている。


「待って、先輩!」


 メグがミユの腕を掴んだ。


「危ないです!」


「分かってる!」


「分かってるなら――」


「でも、あの子あそこにいるじゃん!」


 ミユは振り向いた。


 メグの顔が、くしゃりと歪んだ。


 ミユは自分の声が震えていることに気づいた。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 怪人なんて知らない。

 戦い方なんて知らない。

 μシステムも、適合率も、アインの言うことも、何一つ分かっていない。


 でも、男の子の足に糸が絡まっている。


 それだけは分かる。


 見なかったことにはできない。


 アインがミユの手首を見た。


「μブレスレットの反応が上がっている」


「今それどうでもいい!」


「どうでもよくない。キミが接近するなら、最低限の防御を起動する必要がある」


「だったら早くして!」


「まだ完全起動は危険だ」


「危険しかない!」


 ワトソンが静かに言った。


「ミユさん、現時点であなたが単独突入するのは推奨できません」


「じゃあ、あの子は?」


「救助が必要です」


「でしょ!」


「ですが、無計画な接触は被害者を増やします」


 ワトソンの声は落ち着いていた。


 だからこそ、ミユは一瞬だけ踏みとどまった。


 男の子は泣きそうな顔で、こちらを見ている。


「お姉ちゃん……」


 その声で、ミユの胸がぎゅっと縮んだ。


 メグも息を呑んだ。


 その時、男の子の背後で、監視カメラの赤いランプが一斉にこちらを向いた。


 ぎぎ、と古い機械が軋む音。


 一つだけではない。


 管理棟の壁。

 電柱の上。

 貯水槽の脇。

 割れた窓の内側。


 いくつもの赤い目が、ミユたちを見た。


 そして、ミユのスマホが勝手に震えた。


 画面が明るくなる。


 そこには、通知が表示されていた。


『見つけた』


 ミユの喉が凍った。


「……なに、これ」


 メグのスマホも震えた。


 アインのタブレットにも、赤い警告が走る。


 周囲でスマホを構えていた野次馬たちが、一斉にざわめいた。


「え、通知きた」

「なにこれ、見つけたって」

「誰が送ってんの?」

「ライブ止まったんだけど」

「やばくない?」


 空気が変わった。


 それまでの好奇心混じりのざわめきが、遅れて恐怖に変わっていく。


 白い糸が、風もないのに揺れた。


 男の子の足首に絡んだ糸が、少し強く引かれる。


「痛っ……!」


「動かないで!」


 ミユは叫んだ。


 メグが震える声で言う。


「先輩、これ、本当に……」


「うん」


 ミユは、フェンスの向こうから目を離せなかった。


 日常は、もう完全にこちら側へ来てしまった。


 昼休みの動画。

 メグの好奇心。

 怪しいバイト。

 アイン科学研究所。

 μブレスレット。

 白い糸。

 男の子の泣きそうな声。


 全部が一本の糸で結ばれていく。


 逃げたい。


 帰りたい。


 母に、変だったから帰ったと言いたい。


 でも、目の前で子どもが糸に引かれている。


 ミユは左手首のブレスレットを握った。


 光が強くなる。


 アインが低く言った。


「来る」


「なにが」


 ミユが聞いた瞬間、管理棟の暗がりの奥で、赤い光がいくつも瞬いた。


 昼に見た動画と同じ。


 いや、それよりもずっと近い。


 複眼のような赤い光。


 かさり。


 また、音がした。


 今度は、はっきりと。


 何かが、糸の奥からこちらへ近づいてくる音だった。

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