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第4節 ― 怪人反応

「……やっぱり帰ります」


 ミユがそう言った直後だった。


 研究所の廊下に、赤い光が走った。


 最初は、天井の蛍光灯がまたちらついたのかと思った。けれど違う。壁に埋め込まれていた細いパネルが一斉に点灯し、床の端に沿って赤いラインが走る。さっきまでただの古びたビルの廊下だった場所が、突然、何かの機械の内側みたいに変わっていった。


 甲高い警報音が鳴る。


 短く、鋭く、心臓を掴むような音だった。


「うわっ、なに!?」


 ミユは思わず耳を押さえた。


 ワトソンが廊下の中央で立ち止まり、青白い瞳を細く光らせた。首輪のランプが、青から赤へ変わる。


《怪人反応を検知》


 声が変わった。


 さっきまでの落ち着いた猫型端末の声ではない。研究所全体に響く、冷たいシステム音声だった。


《反応地点、ホウジュ区旧水質管理センター》


 ミユは固まった。


 旧水質管理センター。


 その言葉が、耳の奥で変に反響した。


 昼休みの教室。

 メグの眼鏡。

 スマホの画面。

 暗い廃施設。

 白い糸。

 赤く光る複眼。


 全部が一気に、頭の中へ戻ってきた。


「……え」


 ミユは、うまく声を出せなかった。


 旧水質管理センター。

 メグが見せてきた、あの動画の場所。

 メグが「今日は行きません」と言った場所。

 でも、努力しますとか、今日はとか、そういう不安な言い方ばかりしていた場所。


 胃のあたりが、すっと冷たくなる。


「待って。そこって……」


「座標、照合」


 アインはミユの反応など見ていなかった。さっきまでの会話を切り捨てるように、タブレットを操作しながら廊下の奥へ歩き出す。


 壁がまた一枚、横に滑った。


 今度は、さっきアインが出てきた隠し扉とは違う。廊下の奥全体が、内側から開いた。古いビルの壁の向こうに、金属製の階段が現れる。下へ続く階段だ。赤い非常灯が段差を照らし、その奥から、機械の低いうなりが聞こえてきた。


「反応種別は?」


 アインが言う。


 ワトソンは猫の姿のまま、階段の方へ歩きながら答えた。


《ジョーカー系生体反応。推定識別コード、J―〇一。スパイダータイプ》


「蜘蛛……」


 ミユの声が掠れた。


 昼にメグが見せた動画の白い糸が、目の前に浮かぶ。


 やっぱり、あれはただの加工ではなかったのか。

 ただの廃墟動画ではなかったのか。


 そんなことを考えた瞬間、次に浮かんだのはメグの顔だった。


「メグ……」


 ミユは慌ててスマホを取り出した。


 メグに連絡しようとする。

 旧水質管理センターには近づかないで。絶対行かないで。そう送ろうとした。


 けれど、スマホの画面を開いた瞬間、アンテナ表示が一瞬だけ乱れた。


 圏外。


 すぐに戻る。


 また圏外。


「なにこれ」


 ミユはスマホを持ち上げ、角度を変えた。意味がないことは分かっている。でも、そうせずにはいられなかった。


「電波、変なんだけど」


「怪人反応に伴う通信障害だ」


 アインが即答した。


「対象は周辺通信網へ干渉している。旧式の監視設備とスマートデバイスの双方に接続痕がある。興味深い」


「興味深いじゃない!」


 ミユは声を荒げた。


「そこ、昼に後輩が話してた場所なの。旧水質管理センター。動画見せられて、行くなって言ったけど、あの子そういうの気にする子で、もしかしたら――」


「なら急ぐ必要がある」


 アインは淡々と言った。


 ミユは一瞬、言葉を失った。


 その言い方が、あまりに平らだったからだ。


 心配しているのか。

 焦っているのか。

 助ける気があるのか。

 それとも、ただ「怪人反応」という実験対象が動いたから急いでいるだけなのか。


 分からない。


 分からないことが、怖かった。


 アインは階段の手前で振り返る。


「バイト君、初仕事だ」


 ミユは、反射で言い返した。


「いま初仕事って言った? 面接は?」


「現場で行う」


「ブラック企業の最悪形態!」


「現場判断能力を見るには効率的だ」


「効率の問題じゃない!」


 ミユは後ずさった。


「私は行かない。行かないから。っていうか、怪人って言ったよね? 今、普通に怪人って言ったよね? 求人に怪人って書いてなかったんだけど!」


「求人には“多少の危険あり”と記載した」


「多少で済むやつじゃないでしょ、それ!」


「程度の感じ方には個人差がある」


「便利に使うな、個人差!」


 アインはもう一度タブレットを操作した。


 廊下の壁に、旧水質管理センターの地図らしきものが表示される。古い管理棟、貯水槽、地下ポンプ室、中央制御室。いくつかの赤い点が点滅している。そのうち一つだけ、周囲の赤い円が大きい。


「主反応は管理棟内部。周辺に微弱な人間反応が複数。うち一つはフェンス外側から移動中」


「人間反応?」


 ミユの声が低くなる。


「誰かいるの?」


「いる」


「それ、危ないってこと?」


「怪人反応と接触すれば危険だ」


「もう接触してるの?」


「数値上は、まだだ」


「まだって何!」


「これから接触する可能性が高い」


 ミユの喉が詰まった。


 フェンス外側から移動中。


 その言葉が、妙に具体的で嫌だった。


 メグが眼鏡を押し上げながら、フェンスの外から覗き込んでいる姿が浮かぶ。

 「中には入りません」と言っていた。

 「今日は行きません」とも言っていた。

 約束します、と最後には言った。


 でも、メグはきっと、動画をもう一度見た。

 そして、気になってしまったのかもしれない。


「……電話」


 ミユはもう一度スマホを操作した。


 メグの名前を呼び出す。


 発信。


 画面には、呼び出し中の表示が出た。けれど音は鳴らない。すぐに切れた。


『接続できませんでした』


 ミユの指が震えた。


 もう一度。


 同じ表示。


 ミユは、スマホを握りしめた。


「行く」


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


 アインがわずかに眉を動かす。


「判断が早い」


「うるさい。あんたのせいじゃないけど、なんか全部あんたのせいな気がしてきた」


「因果関係が不明確だ」


「気持ちの問題!」


 ミユは階段へ向かおうとして、左手首のブレスレットを見た。


 まだ光っている。


 さっきからずっと、淡い青白い光を放ち続けている。まるで警報に反応しているみたいに、時々、内側のピンク色が脈を打つ。


「その前にこれ外して。行くとしても、勝手に変なものつけられたままは嫌」


「外せない」


「またそれ!?」


「初期同期が、怪人反応を受けて防御モードへ移行した。現場到着前に無理に解除すると、接続不全を起こす可能性がある」


「日本語で!」


 ワトソンが横から補足した。


「簡単に言うと、今外すと危険です」


「危険なのは分かったけど、そもそもつけたの誰!?」


「アインです」


「だよね!」


「手順としては不適切でした」


「手順どころか全部不適切!」


 アインは階段を下り始めた。


「移動中に説明する」


「待って。私、まだ行くって言っただけで、連れていかれるとは言ってない」


「移動手段はこちらにある」


「そういう意味じゃない!」


「徒歩では間に合わない」


「そこは分かるけど!」


 ミユは追いかけるしかなかった。


 階段は、外から見た古いビルには不釣り合いなほどしっかりしていた。金属の手すり。足音を吸う黒い床材。壁には細い配線と、小さな表示灯。下へ降りるほど、空気が冷たくなっていく。


 古いビルの地下に、別の場所がある。


 そうとしか思えなかった。


「ここ、本当に研究所なの?」


「そうだ」


「表向きは?」


「民間科学研究所」


「裏向きは?」


「怪人対策研究施設」


「面接で聞かされる情報じゃない!」


「だから現場で行う」


「いや、面接の意味が壊れてる!」


 階段を下りきると、そこには地下室が広がっていた。


 ミユは思わず足を止めた。


 上の階とはまるで違う。


 広い。


 古いビルの地下に収まっているとは思えないほど、奥行きがある。壁には大型モニターが並び、ホウジュ区の地図や、よく分からない波形、赤い警告表示がいくつも浮かんでいる。中央には操作卓。床には、白いラインで区画が描かれていた。


 隅には、工具、薬品ケース、金属製の箱、半透明の円筒、何に使うのか分からない腕のような機械。

 その奥に、白い小型バンが一台、静かに停まっていた。


 普通の配送車みたいに見える。


 けれど、横腹には小さく、μのマークが入っている。


「……なにこれ」


「移動観測車」


「見た目、社用車」


「目立たないようにしている」


「その努力はするんだ」


 アインは操作卓にタブレットをかざした。


 モニターのひとつに、旧水質管理センター周辺の映像が映る。監視カメラだろうか。画面は荒い。ノイズが走っている。夕方の薄い光の中、錆びたフェンスが見える。立入禁止の看板が揺れている。


 その奥に、白いものがあった。


 糸。


 昼に見た動画より、はっきりしていた。


 フェンスの内側から管理棟の窓へ。配管から屋上へ。蜘蛛の巣のように、施設全体を縫い合わせている。夕方の光を受けて、糸の一部が銀色に光る。


 そして、画面の端に、人影が映った。


 小さい。

 制服姿。

 カーディガン。

 髪が少し跳ねている。


 ミユは息を呑んだ。


「メグ……?」


 映像はノイズで乱れ、すぐに途切れた。


 ミユは操作卓に駆け寄った。


「今の、メグだよね!? 今のうちの後輩だったよね!?」


「断定には情報が不足している」


「でもそう見えた!」


「なら急ぐ理由が増えた」


「冷静に言うな!」


 ミユの胸が、嫌な音を立てている気がした。


 約束したのに。

 行かないって言ったのに。

 いや、責めるのはあとだ。あとでいい。今は、無事かどうかを確かめる方が先だ。


「行く。行くから、早く!」


「了解」


 アインは頷くと、白い小型バンの後部ドアを開けた。


 中は、普通の車ではなかった。


 後部座席の代わりに、機材が詰め込まれている。モニター、小型端末、ケーブル、収納ボックス。天井には細いレールが走り、壁には透明なケースが並んでいた。救急箱のようなものもある。座席は二つだけ。ひとつは助手席、もうひとつは後部の固定席。


「乗って」


「これ、法的に大丈夫な車?」


「車検は通っている」


「そこだけ現実的!」


 ワトソンがミユの足元をすり抜け、軽やかに車内へ跳び込んだ。


「ミユさん、後部固定席へ。移動中、μブレスレットの初期安定化を行います」


「安定化ってなに」


「揺れても暴走しないようにします」


「いま暴走って言った?」


「言いました」


「言い直して!」


「予期せぬ高出力化を防ぎます」


「もっと怖い!」


 アインは運転席ではなく、助手席側に乗り込んだ。ミユが疑問に思うより先に、運転席のハンドルが自動で沈み、ダッシュボードの画面にルートが表示される。


「自動運転?」


「半自律移動システムだ」


「普通の言葉で自動運転って言って」


「厳密には違う」


「今、厳密さ要らない!」


 ミユは後部固定席に座った。


 座席というより、病院の検査椅子とジェットコースターの安全バーを足して、さらに嫌な感じにしたようなものだった。腰にベルト、肩にベルト、足元にも固定具がある。


「ねえ、これ必要?」


「事故時の安全確保のためです」


 ワトソンが言う。


「事故前提なの!?」


「備えです」


「備えの方向性が怖い!」


 アインは助手席でモニターを操作しながら言った。


「ミユさん」


 ミユは一瞬、驚いた。


 アインが、初めて「バイト君」ではなく名前を呼んだ。


 けれど次の言葉で、すぐにその感慨は消えた。


「現場では、ボクの指示に従うこと」


「嫌です」


「即答?」


「だって今までの指示、全部信用できない」


「合理性はある」


「人としての安心感がない」


 ワトソンが座席横の小さな端末に前足を置いた。


「ミユさん、アインの説明は最悪ですが、あなたを死なせるつもりはありません」


「説明が最悪なのは認めるんだ」


「はい」


「即答なんだ」


「事実ですので」


 アインがわずかに不満そうな顔をした。


「最悪ではない。簡潔なだけだ」


「簡潔と不足は違います」


「ワトソンまで刺してくる」


 ミユは少しだけ笑いそうになった。


 笑っている場合ではないのに、ほんの一瞬だけ、緊張がほどけた。


 ワトソンは続ける。


「アインは、人間の不安を軽視します。説明の順序も悪いです。社会性にも課題があります」


「そこまで言う?」


「しかし、怪人を止めることについては本気です。あなたを現場へ連れていく判断も、危険ですが、無意味ではありません」


 ミユは黙った。


 無意味ではない。


 その言葉だけが、胸に残った。


 メグがいるかもしれない。

 誰かが危ないかもしれない。

 旧水質管理センターで、白い糸が広がっている。


 帰りたい。


 今でも、本音はそうだ。


 でも、このまま帰って、あとからメグが巻き込まれたと知ったら。


 その方が、きっと怖い。


「……分かった」


 ミユは、左手首のブレスレットを見た。


「でも、私は怪人退治とかできないから。喧嘩だって強くないし、運動神経も普通だし、さっきから意味分かんないし」


「運動能力は平均値よりわずかに上だ」


「慰め方がデータ!」


「ただし適合率は高い」


「それも何か分かってない」


「移動中に説明する」


「今度こそ本当に説明してよ」


「努力する」


「努力じゃなくて約束」


 アインは少しだけ考えた。


「約束する」


 その言い方は、ぎこちなかった。


 たぶん、あまり言い慣れていない言葉なのだろう。


 ミユは、それを聞いてから、ようやく背もたれに体を預けた。


 車内のランプが青く変わる。

 後部ドアが閉まり、外の地下室の音が遠ざかる。

 モニターに、ホウジュ区の地図が表示され、旧水質管理センターまでのルートが赤く引かれた。


 到着予測、七分四十秒。


 七分。


 たった七分。


 それだけで、ミユの日常は、学校の教室から、怪人反応の現場へ運ばれていく。


 小型バンが、静かに動き出した。


 地下室のシャッターが開く。夕方の光が細く差し込む。


 その光の向こうへ出る直前、ミユのスマホが震えた。


 画面を見る。


 通信状態は不安定。

 それでも、一件だけ通知が届いていた。


 メグからだった。


『先輩、ごめんなさい。

 旧水質管理センターの近くまで来てしまいました。

 中には入りません。

 でも、変な音がします。

 誰か、いるみたいです。』


 ミユの指先が冷たくなった。


 返信を打とうとした。


 けれど、次の瞬間、画面が暗くなった。


 通信圏外。


「……アイン」


「何」


「急いで」


 アインはモニターを見たまま、短く答えた。


「もう急いでいる」


 白い小型バンは、夕方のホウジュ区へ滑り出した。


 日常の道を、非日常の機械が走っていく。

 窓の外には、買い物帰りの人、自転車の学生、夕焼けに染まる商店街が流れていく。


 その全部が、まだ普通の世界だった。


 けれどミユの左手首では、μブレスレットが脈打つように光っていた。


 まるで、その普通の世界のすぐ裏側で、何かが糸を張り終えようとしていると告げるみたいに。

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