第3節 ― アイン科学研究所へようこそ
放課後のチャイムが鳴った瞬間、ミユは机の上に広げていた教科書を閉じた。
いつもなら、少しだけ教室に残る。友達と他愛ない話をしたり、メグに捕まって怪人動画を見せられたり、購買の余ったパンを買うかどうかで悩んだりする。けれど今日は、鞄に荷物を詰める手が自然と早くなっていた。
十七時。
アイン科学研究所。
動きやすい靴。
朝から何度も頭の中で繰り返した単語が、授業が終わった途端、急に現実の予定として迫ってきた。
「……面接だけ。面接だけ」
ミユは小さく呟きながら、スマホを取り出した。
母には、昼休みのうちにメッセージを送ってある。
『放課後、バイトの面接行ってくる。場所はホウジュ区のアイン科学研究所ってところ。変だったら帰る』
かなえからの返信は、すぐに来ていた。
『変だったらじゃなくて、変だと思った時点で帰りなさい。場所は確認した。終わったら連絡』
そのあとに、スタンプが一つ。
腕組みをしているうさぎのスタンプだった。
かわいいのに圧が強い。
ミユは、そのスタンプを思い出して少しだけ笑いそうになった。笑いそうになったあと、やっぱり少しだけ胸が痛くなった。
母は止めなかった。
でも、心配していないわけではない。
そのことが分かるから、余計に「変だったらちゃんと帰ろう」と思う。思うのだが、時給二五〇〇円という数字もまた、まだミユの中でしっかり光っている。
教室を出る時、廊下の向こうにメグの姿が見えた。
メグは一年生の廊下からこちらを覗き込むようにして立っていた。手にはスマホ。どう見ても、昼に話していた旧水質管理センターの動画をまた見ている顔だった。
ミユは一瞬、声をかけようか迷った。
メグはミユに気づくと、小さく手を振った。
「ミユ先輩!」
「メグ。旧水質管理センター、行かないって約束したよね」
挨拶より先に言うと、メグはびくっと肩を揺らした。
「い、行きません。今日は」
「今日は、じゃない」
「行きません」
「本当に?」
「……たぶん」
「今、信頼度が下がった」
メグは申し訳なさそうに眼鏡を押し上げた。
「先輩こそ、気をつけてくださいね」
「私はただの面接」
言ってから、ミユは自分で引っかかった。
昼休みには、面接のことを誤魔化した。今も詳しく言う必要はない。メグはミユのバイト先を知らない。知らないままでいい。たぶん、その方がいい。
なのに、メグの目はほんの少しだけ細くなった。
「面接、なんですね」
「……うん。まあ」
「どこのですか」
「普通のところ」
「普通のところは、自分で普通って言わないです」
「眼鏡のくせに鋭いな」
「眼鏡なので」
「だから眼鏡にそんな機能ないって」
ミユは軽く手を振った。
「とにかく、私は大丈夫。メグこそ、変な廃墟に近づかないこと。動画を見るだけ。分かった?」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
「今の間が不安」
メグは少し笑った。
その笑いが、昼休みの最後に見せた不安そうな顔よりは柔らかかったので、ミユはそれ以上問い詰めなかった。
昇降口で靴を履き替える。
ミユは、いつものローファーではなく、朝から持ってきていたスニーカーに履き替えた。動きやすい靴でお越しください、という文章があまりにも不気味だったので、一応従ってしまったのだ。
従っている時点で負けている気がする。
「面接で走らされたりしないよね……」
誰も答えない。
答えられても困る。
ミユは鞄を肩にかけ、校門を出た。
ホウジュ区の放課後は、少しだけ騒がしい。
駅へ向かう学生たち。自転車で商店街を抜ける中学生。買い物袋を下げた主婦。店先で揚げ物の匂いを漂わせる総菜屋。信号待ちの車の列。歩道の端には、昨日の雨で濡れた落ち葉がまだ少し残っている。
普通の街だった。
昼に見た、白い糸の動画が嘘みたいに思えるくらい、普通の街。
求人サイトの地図アプリは、ミユを駅前から少し外れた通りへ導いていった。大通りから一本入ると、人通りは急に減る。古い雑居ビルと、小さな工務店、シャッターの閉まった店舗、コインパーキング。道路の端には、色褪せた自動販売機が立っている。
スマホの画面では、目的地まであと三分。
ミユは周囲を見回した。
「……研究所って、こういうところにあるもの?」
世界的な研究所、とまでは思っていなかった。けれど、実験補助スタッフを募集しているくらいだから、もう少し白くて清潔で、ガラス張りで、受付のお姉さんがいて、消毒液の匂いがする場所を想像していた。
目の前に現れたのは、三階建ての古いビルだった。
一階は、以前は何かの事務所だったらしい。ガラス戸には内側から白いブラインドが下ろされ、端に古いテープの跡が残っている。二階の窓には、段ボール箱と謎の機械らしき影。三階の窓は半分だけ開いていて、そこから細いケーブルが一本、壁伝いに下へ伸びている。
看板らしい看板はない。
ただ、入口脇の郵便受けの上に、小さな金属プレートが貼ってあった。
『アイン科学研究所』
文字は小さい。
小さすぎる。
知らなければ見落とす。
「……絶対、表に出す気ないじゃん」
ミユはスマホの地図と表札を交互に見た。
間違いない。
ここだ。
面接時間までは、あと五分。
帰るなら今だ。
ミユはビルの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
母の言葉が頭に浮かぶ。
変だと思った時点で帰りなさい。
変だ。
かなり変だ。
この時点で帰っても、約束違反にはならない。むしろ約束通りだ。
しかし、ここまで来て何も聞かずに帰るのも、それはそれで悔しい。時給二五〇〇円の正体くらいは知りたい。というか、この建物で本当に時給二五〇〇円が出るのかが気になる。
ミユは深呼吸した。
「面接だけ。変だったら帰る。面接だけ」
今日何度目かの言葉を口にしてから、ビルのガラス戸に手をかけた。
鍵は開いていた。
中は、思ったより暗かった。
細い廊下の奥に、受付らしきものはない。床には古い灰色のタイル。壁には、よく分からない配線が何本も這っている。天井の蛍光灯は点いているが、一本だけ時々ちかちかと瞬いていた。
空気には、ほこりの匂いと、機械が温まった時のような匂いが混ざっている。
ミユは一歩だけ入って、すぐに足を止めた。
「すみませーん……?」
返事はない。
「面接に来た朝倉ですけどー……?」
声が、廊下に妙に響いた。
その時、足元で何かが動いた。
ミユはびくっとして後ずさった。
黒灰色の猫が、廊下の奥からゆっくり歩いてきた。
すらりとした体つき。毛並みはきれいで、暗い廊下の中でも青みがかった光を帯びているように見える。首には黒い首輪。小さな青いランプが一つ、規則正しく点滅していた。
猫はミユの前まで来ると、ぴたりと座った。
そして、じっと見上げてきた。
瞳が青白い。
普通の猫にしては、少し賢そうすぎる。
「……猫だ」
ミユは緊張が少し抜けて、しゃがみ込んだ。
「あんた、ここで飼われてるの?」
猫はしばらくミユを見ていた。
それから、口を開いた。
「飼われている、という表現には若干の誤りがあります」
ミユは固まった。
一秒。
二秒。
三秒。
「……しゃべった!」
ミユは廊下に響く声で叫んだ。
猫は耳を少し伏せた。
「音量を下げていただけますか。私の聴覚センサーは繊細です」
「猫がしゃべった!」
「猫ではありません。猫型端末です」
「猫型端末!?」
「はい。初めまして、朝倉ミユさん。私はワトソン。アイン科学研究所の管理補助を担当しています」
猫――ワトソンは、実に落ち着いた声でそう言った。
声は猫の口から出ているようにも聞こえるし、首輪の小型スピーカーから出ているようにも聞こえる。どちらにしても、猫が人間の言葉で自己紹介していることに変わりはない。
ミユはしゃがんだまま、じりじりと後ろに下がった。
「帰ります」
「面接はまだ開始していません」
「猫が喋った時点でかなり開始してるでしょ、変なことが」
「正確には、私は猫ではありません」
「そこは今どうでもいい!」
ミユが立ち上がろうとした時、廊下の奥で自動ドアのような音がした。
それまで壁にしか見えなかった部分が、横に滑った。
その奥から、白衣を着た小柄な人物が現れた。
ミユは思わず目を瞬かせた。
年下に見える。
中学生くらいだろうか。身長はミユよりかなり低い。銀灰色の短い髪が、蛍光灯の光を受けて淡く光っている。前髪が少し片目にかかっていて、顔立ちは驚くほど整っていた。
少年、に見える。
少なくとも、最初に浮かんだ印象はそれだった。
ただ、少年と言い切るには、どこか中性的で、声を聞く前から性別を決めつけづらい雰囲気がある。白衣は少し大きく、袖から出た手首は細い。白シャツに黒い細いネクタイ。片手にはタブレット端末。もう片方の手には、銀色の小さなケースを持っていた。
その人物は、ミユを上から下まで一瞬で観察した。
目が、氷のように薄い青だった。
「時間通りだね」
第一声は、それだった。
挨拶でも、歓迎でも、名乗りでもない。
時間通り。
ミユは少しだけむっとした。
「えっと、面接に来た朝倉ミユです」
「知っている」
「そっちは?」
「アイン」
白衣の少年は、短く名乗った。
「この研究所の所長だ」
ミユは沈黙した。
目の前の相手をもう一度見る。
小柄。
白衣。
中学生くらい。
所長。
「……所長?」
「そうだ」
「あなたが?」
「他に誰がいる」
ミユは足元の猫型端末を見た。
ワトソンがしっぽをゆっくり揺らした。
「私は管理補助です」
「聞いてないけど答えた」
ミユは頭を押さえた。
今日は、朝から情報量が多い。
時給二五〇〇円。
白い糸の動画。
旧水質管理センター。
喋る猫。
中学生くらいの所長。
もう帰っていい気がする。かなえの言う「変だと思った時点」は、とうに過ぎている。
「じゃあ、面接を始める」
アインはそう言うと、ミユの返事を待たずに近づいてきた。
ミユは反射的に一歩下がる。
「ちょっと待って。面接って、普通は志望動機とか、勤務可能日とか聞くんじゃないの?」
「それらは応募フォームから確認済みだ」
「じゃあ何を面接するの」
「適合率」
「何の?」
アインは手に持っていた銀色のケースを開けた。
中には、ブレスレットが入っていた。
金属製に見えるが、ただの金属ではない。細い輪の内側に、半透明の素材が埋め込まれている。表面には小さな記号が浮かんでいた。ギリシャ文字のミューに似た形。光の角度によって、青白くちらつく。
ミユが「なにそれ」と言うより早く、アインはそのブレスレットを取り出した。
そして、ミユの左手首にぱちんとはめた。
あまりにも自然な動きだったので、ミユは一瞬反応が遅れた。
手首に冷たい感触。
次の瞬間、ブレスレットの内側が淡く光った。
「なにこれ!」
ミユは叫んだ。
「μシステム簡易接続端末」
「そういうことじゃなくて、勝手につけるな!」
「安心していい。適合率を見るだけだ」
「その前に面接しなさいよ!」
「今している」
「装着する面接があるか!」
ミユはブレスレットを外そうとした。
外れない。
留め具らしいものはあるのに、指で押しても開かない。引っ張ってもびくともしない。金属の輪は細いのに、妙に手首に馴染んでいて、外そうとすればするほど内側の光が強くなる。
「外して!」
「まだ駄目だ」
「まだって何! いつならいいの!」
「測定が終わったら」
「測定って何を!」
「だから適合率だ」
「だから何の!」
アインはタブレットを見た。
ミユの抗議など、最初から音声データ程度にしか認識していないような顔だった。
ワトソンが足元で静かに言う。
「アイン、説明が不足しています」
「必要な情報は伝えた」
「人間基準では不足しています」
「人間は要求情報量が多い」
「あなたも人間です」
「そこはまだ検証中だ」
「検証しないで!」
ミユは思わず突っ込んだ。
アインが初めて、少しだけミユを見た。
「反応速度は悪くない」
「褒められた気がしない」
ブレスレットの光が、手首から腕へ、細い線のように広がった。
痛みはない。
けれど、ぞわっとした。
冷たい水に指先を入れた時のような感覚が、皮膚の下を走る。左手首から肘へ、肩へ、胸の奥へ。何かが自分の中を通り抜け、測っている。体温。脈拍。筋肉。骨。もっと奥の、名前のつかないものまで。
ミユは思わず腕を押さえた。
「これ、ほんとに大丈夫なの」
「理論上は」
「理論上って言葉が一番怖いんだけど!」
「実証中とも言える」
「もっと怖い!」
アインのタブレットが、小さく音を立てた。
ワトソンの青い瞳にも、同じような光が走る。
廊下の壁に埋め込まれていたらしい細いパネルが、ふっと点灯した。そこに数字と波形が表示される。心拍数。神経伝達。細胞反応。聞いたことのない単語。見たことのないグラフ。
ミユには何が何だか分からない。
ただ、アインの表情が変わったことだけは分かった。
それまで淡々としていた薄青い目が、ほんのわずかに見開かれる。
「……九十七」
アインが呟いた。
タブレットを操作する。
「九十八・六」
さらに数字が上がる。
「九十九・一」
ワトソンのしっぽが、ぴたりと止まった。
「アイン」
「黙って」
アインの声が、初めて少しだけ鋭くなった。
ミユは嫌な予感がして、ブレスレットを見る。
光が強くなっている。
青白い光の中に、ほんの少しピンク色が混ざった気がした。
「な、なに。何の数字?」
アインは答えない。
「ねえ、何の九十九?」
アインはタブレットから顔を上げた。
その目は、もうただの面接官の目ではなかった。
新しい実験結果を見つけた研究者の目。
予想外の数値に出会った科学者の目。
そして、目の前の人間を、人間としてではなく、何かの可能性として見ている目。
ミユは、背中が冷たくなるのを感じた。
「朝倉ミユ」
「な、なに」
「キミ、普通の高校生かい?」
「普通だけど!」
「そうか。普通の定義を更新する必要がある」
「勝手に世界の定義を変えないで!」
アインはもう一度タブレットを見る。
「μシステム適合率、九十九・三パーセント。誤差範囲を加味しても、実戦接続可能域を大きく超えている」
「実戦?」
「生体負荷耐性も高い。神経同期の拒絶反応もほぼない。運動能力は平均値だが、反射パターンに特異性がある。感情変動による出力変化の余地も大きい」
「待って。私の話してる?」
「他に誰がいる」
「猫とか!」
「ワトソンは猫ではない」
「そこ今どうでもいい!」
ミユは本気でブレスレットを外そうとした。
外れない。
何度やっても外れない。
焦りが、じわじわと喉の奥に上がってくる。
「ねえ、外して。もう測ったんでしょ。適合とか何とか知らないけど、外して」
アインは、ようやく少しだけ首を傾げた。
「なぜ?」
「なぜって、勝手につけられたから!」
「危険はない」
「その言葉、あんた基準でしょ!」
「ボクの基準は高精度だ」
「信用できるか!」
ワトソンが静かに口を挟んだ。
「アイン。ミユさんの心拍数が上昇しています。恐怖反応です」
「想定内だ」
「想定していたなら、なおさら説明が必要です」
「説明はこれからする」
「順序が逆です」
「研究においては、順序より観測機会を優先する場合がある」
「人間関係においては最悪です」
「この猫型端末、思ったよりまとも!」
ミユはワトソンを見た。
ワトソンは上品に座ったまま、しっぽを一度だけ揺らした。
「ありがとうございます。ただし、私は猫ではありません」
「もう猫でいいじゃん!」
アインは二人のやり取りを聞き流しながら、銀色のケースを閉じた。
「採用」
「は?」
「朝倉ミユ。キミを実験補助スタッフとして採用する」
ミユはぽかんとした。
それから、怒りが一拍遅れてやってきた。
「いや、私まだ働くって言ってない!」
「応募した」
「面接に来ただけ!」
「適合した」
「その適合が何か分かってない!」
「説明する」
「遅い!」
アインは廊下の奥を指さした。
「中へ。研究所を案内する」
「行かない」
「なぜ」
「なんか怖いから帰ります」
ミユはきっぱり言った。
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
言ってから、すぐに母の顔が浮かんだ。
変だと思った時点で帰りなさい。
今だ。
完全に今だ。
喋る猫型端末が出てきて、中学生くらいの所長に勝手に謎のブレスレットをつけられ、九十九パーセントとか言われた。これ以上ないくらい、帰るべき場面だ。
ミユは一歩下がった。
「外して。それ外したら帰るから」
アインはミユを見た。
その表情には、困惑がほんの少しだけ浮かんでいた。
まるで、相手が逃げる可能性を計算していなかったみたいに。
「帰るのか」
「帰る」
「時給二五〇〇円だよ」
「うっ」
ミユの足が、一瞬止まった。
アインの目がわずかに細くなる。
「危険手当は別途支給する」
「別途……」
「交通費も出る」
「交通費……」
「初回勤務後、食事補助もつける」
「食事補助」
ワトソンが静かに言った。
「アイン。交渉材料の提示順が非常に俗的です」
「有効なら問題ない」
「問題あります」
ミユは唇を噛んだ。
揺れるな。
ここで揺れるな。
自分は今、喋る猫と勝手に装着された謎ブレスレットのある研究所から帰ろうとしている。食事補助で迷っている場合ではない。
「……いや、帰る。外して」
アインは少しだけ考えた。
それから、ミユの手首のブレスレットに視線を落とした。
「すぐには外せない」
「なんで!」
「初期同期が始まった」
「始めたの誰!」
「ボクだ」
「堂々と言うな!」
ブレスレットは、まだ淡く光っている。
ミユは左手首を押さえたまま、玄関の方へ下がった。
アインは追ってこない。けれど、その目はミユから離れない。
ワトソンが静かに立ち上がり、ミユとアインの間に入るように歩いた。
「ミユさん。現時点で、端末による身体的危険は確認されていません。ただし、あなたが不安を感じるのは当然です」
「当然だよね!?」
「はい。アインの行動には、社会通念上かなりの問題があります」
「かなりって言った!」
「ワトソン」
アインが不満そうに呼ぶ。
ワトソンは振り返らない。
「しかし、研究所を離れる場合も、端末の状態確認は必要です。無理に外そうとすると、皮膚に軽微な損傷が出る可能性があります」
「軽微でも嫌なんだけど!」
「同感です」
ミユは頭を抱えた。
帰りたい。
猛烈に帰りたい。
でも、ブレスレットは外れない。
目の前の所長は説明が下手すぎる。
猫型端末はまともそうだが猫ではないと言い張る。
そして時給は二五〇〇円。
最悪だ。
条件だけは妙にいい最悪だ。
「……五分」
ミユは言った。
アインが瞬きする。
「五分だけ説明聞く。五分で納得できなかったら帰る。ブレスレットは外す。絶対外す。あと勝手に採用するな」
「五分で説明するには、前提知識が不足している」
「じゃあ三分にする?」
「五分でいい」
アインは即答した。
ミユは半目で睨む。
「あと、私の名前は朝倉ミユ。バイト君とか呼んだら帰る」
「了解した、バイト君」
「今言った!」
「習慣化には時間が必要だ」
「初対面で習慣も何もないでしょ!」
ワトソンが小さく咳払いのような音を出した。
「アイン。まずは謝罪からです」
アインは不思議そうにワトソンを見た。
「謝罪?」
「勝手に端末を装着したことについてです」
「必要かい?」
「必要です」
「なぜ?」
「人間社会では必要です」
アインは少し考えた。
そして、ミユを見上げた。
「勝手に装着したことは、手順として不適切だった」
「それ謝罪?」
「謝罪の構文ではある」
「気持ちがない!」
「気持ちは後で検証する」
「検証するな!」
ミユは深く息を吐いた。
このままでは話が進まない。
いや、進まなくていいのかもしれない。帰るべきなのだから。
けれど、左手首のブレスレットは、まるで最初からそこにあったみたいに、ミユの肌に馴染んで光っている。
九十九・三パーセント。
その数字の意味は分からない。
でも、アインの目の色が変わったことだけは分かる。
何かに選ばれた、なんて大げさなことは思いたくない。
思いたくないが、普通の面接では絶対に起きないことが起きている。
「……で」
ミユは腕を組んだ。
「ここ、何の研究所なの」
アインの表情が、少しだけ真面目になった。
白衣の奥で、薄青い瞳が光る。
「怪人を観測し、解析し、対抗するための研究所だ」
ミユは黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
「……やっぱり帰ります」
ミユは即答した。
アイン科学研究所の廊下に、ワトソンの小さなため息のような電子音が響いた。




