第2節 ― 眼鏡の後輩は怪人を語る
その日の授業は、いつもより長かった。
少なくとも、ミユにはそう感じられた。
黒板には、現代文の教師が書いた本文の要点が並んでいる。比喩表現。対比構造。作者の心情。試験に出るから線を引け、と言われた部分に、周囲の生徒たちは素直にシャープペンを走らせていた。
ミユも一応、ノートは開いている。
開いてはいる。
けれど、そこに書かれている文字は、途中からだいぶ怪しくなっていた。
比喩表現。
対比構造。
作者の心情。
時給二五〇〇円。
多少の危険。
動きやすい靴。
最後の二つは、明らかに現代文ではない。
「朝倉」
「はいっ」
ミユは反射で顔を上げた。
教室の空気が、一瞬だけこちらを向く。教師が黒板の前で、チョークを持ったままミユを見ていた。
「この段落で、筆者が言いたいことは?」
まずい。
ミユはノートを見下ろした。
そこには、筆者の言いたいことではなく、丸で囲まれた「動きやすい靴」の文字があった。
自分で書いたのに、なぜ丸で囲んだのか分からない。
「えーっと……」
教室の後ろの方で、誰かが小さく笑った。
ミユは急いで教科書を見た。けれど、目に入ってくる文字は全部、同じ速度で泳いでいる。ページを間違えている気もするし、そもそも今どこを読んでいるのかも分からない。
教師がため息をついた。
「朝倉。眠いのは分かるが、目は開けておけ」
「開いてます」
「開いているだけだ」
クラスに、今度ははっきりと笑いが起きた。
ミユは耳まで熱くなりながら、椅子に沈んだ。
違う。眠いわけではない。いや、眠いのもある。朝から求人サイトを見て、応募して、すぐ返信が来て、しかも「動きやすい靴でお越しください」などという不穏な文章を読まされたら、普通の高校生の集中力など残っている方がおかしい。
――普通の高校生は、朝からそんな求人に応募しない。
頭の中で、母の声に似た何かが言った。
ミユは口をへの字に曲げた。
正論は嫌いだ。自分の中から出てくる正論は、もっと嫌いだ。
窓の外では、青い空の下を白い雲がゆっくり流れていた。校庭では体育の授業中らしく、笛の音が時々聞こえる。どこにでもある学校の午前。どこにでもある教室。どこにでもいる高校生。
その中で、ミユのスマホだけが、机の中で妙に重かった。
本日十七時。
アイン科学研究所。
服装自由。筆記用具不要。
多少の危険に備え、動きやすい靴でお越しください。
どう考えても、最後の一文だけおかしい。
けれど、面接だけなら。
変だったら帰ればいい。
ミユは朝から、もう何度目になるか分からない言い訳を心の中で繰り返した。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気は一気にほどけた。
椅子を引く音。弁当箱を開ける音。購買へ走る男子の足音。机を寄せる女子たちの声。誰かがスマホで動画を流し、別の誰かが「音でかい」と文句を言う。
ミユは机に突っ伏した。
「……帰りたい」
まだ午後の授業が残っているし、その後には例の面接がある。つまり帰れない。帰りたいと思う時に限って、人生はだいたい予定を詰めてくる。
鞄から弁当を出そうとしたところで、教室の入り口から小さな声がした。
「あの、ミユ先輩」
ミユは顔を上げた。
入口に、高梨メグが立っていた。
一年生の制服をきっちり着て、胸元のリボンも校則通り。小柄な体に少し大きめのカーディガン。肩より少し長い髪は、朝の湿気のせいか、横のあたりがふわふわ跳ねている。
そして、いつもの眼鏡。
丸みのある大きなフレームの奥で、メグの目はどこか落ち着きなく、それでいて妙に輝いていた。
ミユはその目を見た瞬間、少しだけ嫌な予感がした。
メグがこういう目をしている時は、たいてい何か見つけている。
怪しい動画とか。
都市伝説とか。
投稿者不明の目撃情報とか。
普通の人なら見なかったことにするものとか。
「メグ。どうしたの」
「お昼、ご一緒してもいいですか」
「いいけど……また何か見つけた?」
メグは一瞬、ぴたりと止まった。
それから、眼鏡を指で押し上げた。
「……先輩、どうして分かったんですか」
「顔」
「顔に出てましたか」
「眼鏡が光ってる」
「光ってません」
「気持ち的に」
メグは少しだけ頬を赤くして、弁当袋を抱えながらミユの席へ近づいてきた。
クラスの女子の何人かが、二人をちらっと見る。メグは一年生の中では少し有名だった。目立つタイプという意味ではない。怪人事件、都市伝説、昔の特撮番組、未確認生物、廃墟映像、そういう話題になると急に早口になる眼鏡の後輩として、妙な存在感があった。
ミユとは、春に知り合った。
入学直後、校内で迷っていたメグをミユが職員室まで連れて行った。ただそれだけのことだ。ミユにとっては、本当にただの親切だった。
けれどメグは、その日から何かとミユのところへ来るようになった。
最初は距離感に戸惑った。正直、今もたまに戸惑う。
でも、メグが悪い子ではないことも、ミユはちゃんと知っている。
メグはミユの前の席に椅子を反対向きにして座り、弁当を膝の上に置いた。けれど、弁当を開けるより早く、スマホを取り出す。
ミユは箸を持ったまま、半目になった。
「やっぱり何か見つけたんじゃん」
「先輩、旧水質管理センターって知ってますか」
「あの立入禁止の廃墟?」
「はい」
メグの声が、少しだけ低くなった。
ホウジュ区旧水質管理センター。
ミユも名前くらいは知っている。学校から少し離れた、川沿いの古い施設だ。十年くらい前に閉鎖されて、そのままフェンスで囲われている。錆びた門と、立入禁止の看板と、落書きだらけの外壁。夜になると肝試しに行く人がいるとか、昔事故があったとか、そういう話も聞いたことがある。
ただし、ミユにとってはあくまで「通学路から外れたところにある廃墟」だった。
行こうと思ったことはない。
普通はない。
「昨日、そこで白い糸みたいなものが撮影されてるんです」
「蜘蛛でしょ」
ミユは即答した。
メグは眼鏡の奥で目を細める。
「普通の蜘蛛は、配管から管理棟の屋上まで糸を張りません」
「大きい蜘蛛でしょ」
「サイズが、人間を吊れるくらいあります」
「なんで嬉しそうなの?」
「嬉しくはないです。興味深いだけです」
「それ、ほぼ嬉しいって意味じゃない?」
メグは否定しようとして、少し考えた。
「……七割くらいは」
「認めた」
ミユは卵焼きを口に入れた。母が朝作ってくれた弁当は、いつも通り少し甘めの味がした。朝、応募ボタンを押した時の妙な緊張が、ほんの少しだけゆるむ。
けれど、メグのスマホ画面を見た瞬間、そのゆるみは消えた。
「これです」
メグが差し出したスマホには、短い動画が表示されていた。
暗い。
画質は悪い。手ぶれもひどい。投稿者はフェンスの外から撮っているらしく、画面の手前には錆びた金網が映り込んでいる。奥に見えるのは、灰色のコンクリートの建物。割れた窓。絡まった配管。夕方か夜明けか分からない、薄い青黒い空。
最初の数秒は、ただの廃墟映像に見えた。
けれど、カメラが右へ揺れた瞬間、白いものが画面を横切った。
糸。
そう呼ぶしかないものだった。
細いのに、妙に存在感がある。光を受けて、ところどころ銀色にきらめいている。一本ではない。何本も、何十本も、配管から窓へ、窓から屋上へ、屋上からフェンスの内側へ、施設全体を縫うように伸びている。
ミユの箸が止まった。
「……なにこれ」
「昨日の夜、匿名アカウントに上がった動画です。すぐ消されたんですけど、保存していた人がいて、そこから再投稿されてます」
「なんで保存してる人がいるの」
「インターネットなので」
「便利なようで最悪な答え」
動画の中で、撮影者らしき人物が小さく息を呑む声が入った。
カメラがさらに奥を映す。
管理棟の二階。割れた窓の向こう。
赤い光が、二つ、いや、四つ、いや、もっとたくさん、闇の中で瞬いた。
複眼。
そう思った瞬間、画面が大きくぶれた。
誰かが走る足音。荒い息。金網に何かがぶつかる音。
そして、動画はそこで途切れた。
再生時間は、たった十二秒。
それなのに、ミユの背中にはうっすら汗が滲んでいた。
「……加工でしょ」
ミユは言った。
自分でも、声が少し固いのが分かった。
メグは首を横に振る。
「加工の可能性はあります。でも、影の入り方と手ぶれのタイミングが自然です。あと、投稿者のアカウント、普段は廃墟写真を上げてるだけで、こういう作り込み系の人じゃないんです」
「詳しいね」
「調べました」
「だろうね」
メグはさらにスマホを操作し、地図アプリを開いた。旧水質管理センターの場所にピンが立っている。その周囲には、赤い丸がいくつも付けられていた。
「それ、何」
「ここ数日で上がった目撃情報です。白い糸を見た、スマホの電波が変になった、フェンスの近くでカメラが勝手に起動した、誰かに見られてる気がした、など」
「最後のは気のせいじゃない?」
「先輩、都市伝説は気のせいを集めるところから始まります」
「名言っぽく言わないで」
ミユはスマホの画面から目を逸らした。
旧水質管理センター。白い糸。赤い複眼。勝手に起動するカメラ。
不気味だ。
けれど、自分には関係ない。
関係ないはずだ。
だって今日は、放課後に面接がある。多少の危険ありの、怪しいけれど高時給のバイト面接。そっちだけでも十分すぎるくらい不穏なのに、廃墟の白い糸まで気にしていたら、ミユの一日は許容量を超える。
「で、メグはまさか行く気じゃないよね」
ミユが言うと、メグは分かりやすく目を泳がせた。
「行く気なんだ」
「フェンスの外から見るだけです」
「それ、行くって言うんだよ」
「でも、昼間なら」
「昼間でも廃墟は廃墟。立入禁止は立入禁止」
「中には入りません」
「フェンスの外でも危ないでしょ。変な人いるかもしれないし」
「変な人なら、たぶんわたしも分類上は――」
「自覚あるならなおさら行くな」
ミユの声が少し強くなった。
自分でも驚くくらい、強く出た。
メグが目を丸くする。
ミユは少し気まずくなって、視線を弁当に落とした。
「……あのさ。面白いのは分かるけど、危ないものは危ないから」
「はい」
メグは小さく頷いた。
その返事が素直すぎて、ミユは逆に不安になった。メグはこういう時、素直に頷く。そして、そのあと「でも気になって」と言いながら、結局近づくことがある。
好奇心が強い。怖がりなくせに、怖いものに近づく。
そこがメグの危なっかしいところだった。
「本当に行かない?」
「……今日は、行きません」
「今日は?」
「今日は」
「明日も行かないで」
「努力します」
「努力じゃなくて約束して」
「約束は、観測条件が変わると破綻する場合が」
「屁理屈を覚えるな」
メグは少しだけ笑った。
ミユもため息をつく。
その時、机の中のスマホが震えた。
ミユはびくっとした。
メグが目ざとく気づく。
「先輩、通知ですか」
「うん。まあ」
ミユは画面を伏せ気味にして確認した。
『本日の面接時間に変更はありません。
十七時にお越しください。
遅刻の場合、危険度評価に影響します。』
ミユは固まった。
危険度評価。
なにそれ。
面接で使う単語じゃない。
「先輩?」
「なんでもない」
ミユは素早くスマホを伏せた。
メグが少しだけ首を傾げる。
「今日、何かあるんですか」
「別に。ちょっと用事」
「用事」
「うん」
「どこか行くんですか」
「まあ、近場」
「先輩、顔が怪しいです」
「私の周り、顔で判断する人多すぎない?」
「眼鏡なので」
「眼鏡にそんな機能ないから」
メグは眼鏡を押し上げ、真面目な顔になった。
「でも、無理しないでくださいね」
その声には、さっきまでの都市伝説を語る熱がなかった。
普通に、心配している声だった。
ミユは一瞬、言葉に詰まった。
メグは知らない。
ミユが朝、怪しい求人に応募したことを知らない。
今日の十七時、アイン科学研究所という場所へ行くことも知らない。
そこが何なのか、ミユ自身も知らない。
だからこそ、軽く返せばいい。
「大丈夫だって。面接……じゃなくて、ちょっとした用事だから」
「今、面接って言いかけませんでした?」
「言いかけてない」
「言いました」
「聞き間違い」
「眼鏡なので聞こえました」
「眼鏡は耳じゃない!」
メグは少しだけむっとした顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
ミユは内心でほっとした。
昼休みの残り時間は、思ったより少なくなっていた。教室の時計を見ると、次の予鈴まであと五分。弁当はまだ半分以上残っている。
「やば。食べないと」
ミユは慌てて箸を動かした。
メグもようやく弁当を開ける。小さな弁当箱の中には、きっちり詰められたおにぎりと、冷凍食品らしいからあげが二つ、ミニトマトが三つ入っていた。
けれどメグは食べるより先に、またスマホを見た。
「食べなよ」
「はい。でも、この動画、消される前にもう少し解析を」
「食べなさい」
「はい」
ミユが強めに言うと、メグは素直にスマホを置いた。
その素直さが、やっぱり危なっかしい。
窓の外では、校庭からまた笛の音が聞こえた。空は朝よりも明るく、雲は白い。教室には弁当の匂いと、友達同士の笑い声と、午後の授業を嫌がる気配が満ちている。
普通の学校。
普通の昼休み。
普通の高校生の会話。
その中に、白い糸と赤い複眼の動画だけが、小さな棘のように残っていた。
ミユは、もう一度スマホを見そうになる自分をこらえた。
十七時。
アイン科学研究所。
動きやすい靴。
旧水質管理センター。
白い糸。
関係ない。
そう思いたかった。
そう思おうとした。
「先輩」
メグが、からあげを箸でつまんだまま言った。
「なに」
「気をつけてくださいね」
ミユは顔を上げた。
メグは、画面ではなくミユを見ていた。
眼鏡の奥の目は、不安そうだった。好奇心で光っている時とは違う、友達を心配する目だった。
「……なにが」
「分かりません。でも、なんとなく」
「なんとなくで不吉なこと言わないで」
「すみません」
メグは小さく頭を下げる。
ミユは困って、卵焼きの最後の一切れを口に入れた。
「大丈夫だって。私、危ないことには近づかないタイプだから」
言ってから、自分で少しだけ目を逸らした。
朝、怪しい求人に応募したばかりの人間が言う台詞ではない。
メグはじっとミユを見ていたが、やがて小さく頷いた。
「はい。信じます」
「信じるの早いな」
「ミユ先輩なので」
「それ、理由になってる?」
「なってます」
そのまっすぐな返事に、ミユは何も言えなくなった。
予鈴が鳴る。
メグは慌てて弁当箱を片づけた。
「それじゃ、戻ります。動画、あとで送りますね」
「送らなくていい」
「送ります」
「聞いてた?」
「資料として」
「いらない資料!」
メグは小さく笑って、椅子を戻した。
教室を出る直前、もう一度振り返る。
「本当に、気をつけてくださいね」
ミユは軽く手を振った。
「はいはい。メグも、旧水質管理センターには行かないこと」
「努力します」
「約束!」
「……約束、します」
メグはそう言って、廊下へ小走りに出ていった。
ミユはその背中を見送りながら、深く息を吐いた。
「約束って言ったからね……」
自分にも言い聞かせるように呟く。
机の中で、スマホがまた震えた気がした。
けれど、今度は見なかった。
午後の授業が始まる。
十七時までは、まだ少し時間がある。
ミユは教科書を開き直した。
白い糸の動画も、赤く光る複眼も、動きやすい靴も、全部いったん頭の隅へ追いやろうとした。
けれど、一度見てしまったものは、簡単には消えない。
黒板の白いチョークの線が、なぜか細い蜘蛛の糸のように見えた。




