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第1節 ― 高額バイトには理由がある

挿絵(By みてみん)


 朝倉家の朝は、いつも少しだけ慌ただしい。


 台所では、換気扇が低く唸っていた。フライパンの上で卵が焼ける音がして、味噌汁の湯気が古いダイニングの天井へ薄くのぼっていく。テレビでは、朝の情報番組が今日の天気と電車の遅延を伝えていたけれど、その音はほとんど生活音に溶けていた。


 ホウジュ区の古いマンション。二LDK。南向きではあるが、向かいの建物が近いせいで、朝の光は少し遅れて部屋に入ってくる。


 朝倉ミユは、食卓の端に置いたスマホを親指でスクロールしていた。


 画面には求人情報が並んでいる。


 コンビニ。カフェ。ファミレス。倉庫作業。試験監督。イベントスタッフ。

 どれも見慣れた文字のはずなのに、時給の数字だけが妙に現実的だった。


「九百八十円……千百円……千二百円……」


 ミユは小さくつぶやきながら、トーストをかじった。


 焦げている。


 自分で焼いたのだから、誰にも文句は言えない。けれど、焦げたパンの苦さは、朝から求人サイトを見ている自分の気分に妙に合っていた。


 高校二年生。


 まだ大人ではない。

 でも、子どもです、とは言い切れない。


 進学のこと。塾のこと。修学旅行の積立。スマホ代。制服の買い替え。友達と出かける時の交通費。

 ひとつひとつは、世界をひっくり返すような金額ではない。けれど、積もるとちゃんと重い。


 そして、その重さはたいてい、母の財布に乗る。


「……別に、うちがすごく貧乏ってわけじゃないけど」


 誰に言うでもなく、ミユは言い訳みたいに呟いた。


 本当に、そうだ。


 朝倉家は、食べるものに困っているわけではない。電気もつくし、ガスも使える。母の朝倉かなえは、地域スーパーでパートリーダーをしながら、家計も家事も、だいたい明るい顔で回している。


 ただ、その「だいたい明るい顔」の裏に、どれだけの計算と我慢があるのか。


 ミユは、もう知らないふりができる年齢ではなかった。


 冷蔵庫に貼られたカレンダーには、赤いペンでいくつもの予定が書かれている。


 家賃。

 光熱費。

 学校引き落とし。

 スマホ代。

 母の勤務シフト。

 ミユの三者面談。


 そして、来月の母の誕生日。


 そこだけ、ミユが小さな星のシールを貼っていた。かなえはたぶん気づいている。気づいているけれど、何も言わないでいる。


「せめて、なんか買いたいじゃん……」


 スマホの画面を見ながら、ミユは唇を尖らせた。


 その時だった。


 画面の中で、ひとつの求人が目に止まった。


 他の求人より、明らかに時給の数字が大きい。


 ミユは思わず、指を止めた。


『実験補助スタッフ募集』


 ミユは眉を寄せる。


「実験補助……?」


 下に条件が並んでいた。


 時給二五〇〇円。

 未経験可。

 制服貸与。

 高校生可。

 多少の危険あり。

 科学に理解のある方歓迎。


 ミユは、しばらく無言で画面を見つめた。


 時給二五〇〇円。


 その数字だけが、朝の食卓の上でぴかぴか光っているように見えた。


 時給二五〇〇円。

 三時間で七五〇〇円。

 週に二回入れたら、一か月で――


 頭の中で計算しかけて、ミユは途中で止まった。


 その少し下にある文字が、どう考えてもおかしい。


「多少の危険あり……?」


 声に出してから、ミユはスマホを少し遠ざけた。


 危険。


 求人にその二文字が普通に書いてあること自体、だいぶ危険な気がする。


 危険物取扱とか、薬品を使うとか、そういう意味だろうか。

 いや、そもそも高校生可で実験補助という時点で怪しい。

 科学に理解のある方歓迎、というのも微妙だ。科学に理解がない人を実験補助に呼ぶ気があったのか。


 やめたほうがいい。


 ミユの中の常識が、かなり真剣な声で言った。


 でも、時給二五〇〇円。


 ミユの中の現実が、もっと大きな声で言った。


「……制服貸与って書いてあるし」


 自分でも意味のわからない理由を口にして、ミユはもう一度画面を見た。


 制服貸与。

 未経験可。

 高校生可。


 多少の危険あり。


 やっぱり、そこだけ引っかかる。


 その時、台所から母の声が飛んできた。


「ミユ」


「ん」


「なに、また変な動画?」


 かなえはフライパンを片手に、半分だけ振り返っていた。肩までの髪を後ろで軽く結び、部屋着の上にエプロンをつけている。仕事に行く前の、いつもの母の姿だった。


 口調は雑だけれど、目はちゃんとミユを見ている。


 ミユはスマホを少し伏せた。


「求人」


「求人?」


 かなえの眉が、ほんの少し上がった。


「バイト探してんの?」


「うん。まあ、ちょっと」


「ちょっと、ねえ」


 かなえは卵を皿に移しながら、食卓に置いた。焼き加減はきれいだった。ミユの焦げたトーストとは違う。


「高校生可で時給二五〇〇円は、だいたい変よ」


「言わないで。私も今それ思った」


「思ったなら閉じなさい」


「でも時給二五〇〇円」


「そこだけ繰り返すと、余計に怪しいわよ」


 かなえは椅子に座ると、ミユの向かいで味噌汁をすすった。


 ミユはスマホを隠すでもなく、かといって堂々と見せるでもなく、微妙な角度で手に持っていた。


 かなえはその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「お金、足りないの?」


「え?」


「欲しいものあるなら言いなさい。すぐ買えるかは別だけど」


「違うって。そういうんじゃない」


「じゃあ、なに」


 ミユは一瞬、言葉に詰まった。


 家計の足しにしたい。


 そう言えば、かなえはきっと笑う。


 笑って、そんなこと気にしなくていい、と言う。

 高校生は高校生らしくしていなさい、と言う。

 お金のことは大人に任せなさい、と言う。


 でも、その「大人」が毎日どれだけ疲れた顔で帰ってくるかを、ミユは知っている。


 スーパーの制服のまま、買い物袋を下げて帰ってくる母。

 食卓に座る前に、先に洗濯機を回す母。

 給料日前になると、チラシを見ながら献立を組み替える母。

 ミユが「この参考書、ちょっと高いんだけど」と言うと、一瞬だけ目を伏せて、それから「必要なら買いなさい」と言う母。


 そういう小さな場面が、ミユの中に積もっている。


「……自分のスマホ代くらい、自分で出せたらなって」


 結局、ミユは半分だけ本当のことを言った。


 かなえは、しばらく黙ってミユを見た。


「それ、私に気を遣ってる?」


「違うし」


「違わない顔してる」


「顔で決めないで」


「母親なので」


「そういう万能カードやめて」


 かなえはふっと笑った。


 それから、箸で卵焼きを切りながら、少しだけ声を柔らかくした。


「バイトするのは、反対しないよ」


 ミユは顔を上げた。


「え、いいの?」


「いいわよ。高校生だし。社会勉強にもなるし。自分で稼いだお金のありがたみもわかるし」


「じゃあ」


「ただし」


 かなえは箸をミユに向けた。


「怪しいのは駄目」


 ミユはスマホを見た。


 実験補助スタッフ募集。

 時給二五〇〇円。

 多少の危険あり。


 怪しい。


 とても怪しい。


 全力で怪しい。


「……具体的には?」


「今、あんたが見てるやつ」


「まだ内容言ってないんだけど」


「顔に書いてある」


「顔、便利すぎない?」


「ミユは昔から、悪いこと考えると眉間に出る」


「悪いことじゃないし。求人見てるだけだし」


「高校生可で時給二五〇〇円は、だいたい変」


「二回言った」


「大事なことだから」


 ミユはむっとして、スマホを食卓に置いた。


「でも、ちゃんと会社名あるし。場所もホウジュ区内だし。実験補助っていっても、たぶん資料整理とか、モニターとか、そういうやつだと思う」


「多少の危険って書いてあるんでしょ」


「見えてるの!?」


「ミユがそこだけ三回見た」


「観察力こわい」


 かなえは味噌汁を置き、少しだけ真面目な顔になった。


「本当にやるなら、面接行く前に場所と連絡先は送ること。帰る時間も連絡すること。変だと思ったらすぐ帰ること」


「……行っていいの?」


「止めたら、こっそり行くでしょ」


「行かないし」


「行く顔してる」


「もう顔の話やめて」


 かなえは笑った。


 でも、その笑いは、ただの軽口ではなかった。


 心配している。

 でも、縛りつけすぎない。

 聞きたいことはある。

 でも、今はまだ聞きすぎない。


 そういう距離だった。


 ミユは、その距離に少しだけ胸が痛くなった。


 本当は言えばいい。


 進学費用が心配だとか。

 修学旅行の積立を見て、ちょっと焦ったとか。

 母の誕生日に、今年くらいはちゃんとしたものを買いたいとか。

 電子レンジの調子が悪いのに、かなえが「まだ使える」と言っているのを知っているとか。


 言えばいい。


 でも言ったら、かなえはきっと困った顔をする。


 ミユが一番見たくない顔をする。


「……大丈夫。変だったらやめる」


「その言葉、信用半分ね」


「半分はあるんだ」


「半分はね」


 かなえは時計を見て、慌てて立ち上がった。


「やば。もう出ないと」


「今日早番?」


「早番からの事務補助。最悪」


「お疲れさまです」


「ほんとよ。ミユ、皿は流しに入れといて。あと制服、椅子にかけっぱなしにしない」


「わかってる」


「昨日も言った」


「今日はやる」


「その言葉も信用半分」


「半分ばっかり!」


 かなえはバッグを肩にかけ、玄関へ向かった。途中で振り返る。


「バイト、ちゃんと考えてから応募しなさいよ」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


「あと、危ないと思ったら行かない」


「わかった」


 かなえはドアノブに手をかけた。


 そして、少しだけ声を落とした。


「お金のこと、あんまりひとりで考えすぎないこと」


 ミユの指が、スマホの画面の上で止まった。


 かなえは、それ以上は何も言わなかった。


「行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


 玄関のドアが閉まる。


 部屋の中に、朝の情報番組の声と、冷めかけた味噌汁の匂いだけが残った。


 ミユはしばらく、閉じたドアを見ていた。


 それから、小さく息を吐く。


「だから、そういうのがさ……」


 困るんだよ。


 最後までは言わなかった。


 ミユはスマホを持ち直した。


 画面にはまだ、例の求人が表示されている。


 実験補助スタッフ募集。

 時給二五〇〇円。

 未経験可。

 制服貸与。

 高校生可。

 多少の危険あり。

 科学に理解のある方歓迎。


 どう見ても怪しい。


 かなえの言う通りだ。

 高校生可で時給二五〇〇円は、だいたい変だ。


 でも。


 時給二五〇〇円なら、スマホ代は出せる。

 少し続ければ、参考書代も出せる。

 もっと頑張れば、母の誕生日に、ちゃんとしたものも買える。


 電子レンジだって、もしかしたら。


「……面接だけ」


 ミユは誰にともなく言った。


「面接だけ行って、変だったら帰る。うん。それならセーフ」


 自分で言って、自分で頷く。


 その理屈がかなり危ういことには、気づいていた。

 でも、気づいていても、指は止まらなかった。


 応募フォームを開く。


 名前。

 年齢。

 連絡先。

 希望勤務時間。

 志望動機。


 志望動機の欄で、ミユは少し悩んだ。


 家計の足しにしたい。

 母に心配をかけたくない。

 自分にも何かできると思いたい。


 そんなことは書けない。


 だから、ミユは短く打った。


『科学に興味があり、実験補助の仕事を経験してみたいと思ったため』


 嘘ではない。


 科学に興味があるかと聞かれると微妙だけれど、経験してみたいかと言われると、まあ、時給込みならそうだ。


「……よし」


 ミユは送信ボタンに指を置いた。


 ほんの一秒、迷った。


 母の「怪しいのは駄目」という声が、頭の中で響いた。


 でも同時に、母が毎月の予定を書き込んでいるカレンダーも浮かんだ。

 給料日前にチラシを見比べる横顔も。

 「必要なら買いなさい」と笑う声も。


 ミユは唇を結んだ。


「私だって、ちょっとくらい」


 何かできる。


 そう思いたかった。


 送信。


 画面に、応募完了の文字が表示された。


 その瞬間、スマホが短く震えた。


『ご応募ありがとうございます。

 本日十七時、アイン科学研究所にて面接を行います。

 服装自由。筆記用具不要。

 多少の危険に備え、動きやすい靴でお越しください。』


 ミユは画面を見つめた。


 動きやすい靴。


 その一文だけ、妙に具体的だった。


「……やっぱり、変かも」


 朝の光が、ようやく窓から差し込んできた。


 食卓の上で、冷めた味噌汁が静かに湯気を失っていく。


 高額バイトには、理由がある。


 けれどその理由が、応募した本人にとって親切なものとは限らない。

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