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第3節 ― 怖いのに、逃げないんだ

 メグは、息をするたびに白い糸が胸を締めるのを感じていた。


 痛い。


 痛い、というより、嫌な圧迫だった。細くて軽そうに見えるのに、糸はまるで金属線のように硬い。肩に食い込み、胴を押さえ、腕の自由を奪っている。少し動くだけで、糸はぎり、と音を立てて締まった。


 だから、動けない。


 逃げられない。


 フェンスの内側では、男の子が泣いている。管理棟の暗がりでは、蜘蛛男の赤い複眼が光っている。周囲ではジョーカーの戦闘員たちが「イーッ!」と叫びながら態勢を立て直している。


 そして、その全部の真ん中に、プリティミューが立っていた。


 白とピンクの装甲。

 胸元のμマーク。

 スカートのように広がる軽量アーマー。

 手には、どう見ても可愛いピコピコハンマーにしか見えない武器。


 変身した瞬間、メグは本当に、かわいい、と思った。


 それは嘘ではない。


 夕方の廃墟の前で、白い糸と赤い監視ランプに囲まれているのに、プリティミューの姿だけが、そこにぱっと光を落としたみたいだった。特撮番組や魔法少女アニメで見た、画面の向こうのヒーローが、現実の世界へ飛び出してきたように見えた。


 すごい。


 かわいい。


 本当に、ヒーローみたい。


 けれど、見ているうちに、メグは気づいてしまった。


 プリティミューは、震えていた。


 ミュー・ハンマーを握る手に力が入りすぎている。

 足元は、ほんの少しずつ後ろへ下がりたがっている。

 蜘蛛男が動くたびに肩が跳ねる。

 糸が飛ぶたびに、悲鳴を飲み込んでいる。


 それでも、逃げない。


 メグの前に立っている。


 男の子の方を何度も見ている。


 アインの指示に文句を言いながら、ワトソンの警告に怒りながら、ハンマーの音に突っ込みながら、それでも、プリティミューはメグと男の子の前から退かなかった。


「……怖いのに、逃げないんだ」


 メグの口から、ぽつりと声が漏れた。


 自分でも、言ったあとで胸が熱くなった。


 プリティミューは、完璧なヒーローではない。


 壁にぶつかった。

 転びかけた。

 戦闘員を吹き飛ばしたあと、敵なのに「ごめん」と謝っていた。

 蜘蛛男に笑われて、普通に怒っていた。


 でも、逃げない。


 怖いのに。


 それが、メグには何よりもすごいことに見えた。


「メグ、聞こえてる!?」


 プリティミューが振り返らずに叫んだ。


「聞こえてます!」


「その糸、まだ痛い!?」


「痛いですけど、まだ大丈夫です!」


「大丈夫じゃない時の言い方!」


 プリティミューは叫びながら、横から飛びかかってきた戦闘員の警棒をミュー・ハンマーで受けた。


 ぽこん、と場違いに軽い音が鳴る。


 次の瞬間、戦闘員は「イーッ!?」と悲鳴を上げて後ろへ転がった。


「だから音!」


《有効打だ》


 アインの声が、ブレスレット越しに響く。


「有効打なのは分かったけど、こっちの気持ちが追いつかない!」


《気持ちは戦闘ログに反映されない》


「反映して!」


《検討する》


「本当に検討しそうで怖い!」


 プリティミューは文句を言いながら、蜘蛛男へ向き直った。


 だが、蜘蛛男は正面から近づいてこない。


 糸の上を滑り、フェンスの上から管理棟の壁へ、壁から貯水槽の側面へ、赤い複眼だけを不気味に光らせながら移動している。攻撃する時だけ糸を放ち、それ以外は常に距離を取っていた。


 メグにも分かった。


 蜘蛛男は、焦っていない。


 プリティミューが戦いに慣れていないことを見抜いている。

 直接倒しに来るのではなく、糸で消耗させようとしている。


 そして、その糸は減らない。


 さっきプリティミューが何本か叩き切ったはずなのに、管理棟の奥から新しい糸が伸びてくる。フェンスに絡んだ糸も、地面を這う糸も、すぐに別の糸で補われる。


 メグは、背筋が冷たくなった。


「切っても、増えてる……?」


《そうだ》


 アインの声がした。


 プリティミューが振り向きかける。


「メグに返事した!? 私じゃなくて!?」


《今の発言は正確だった》


「そこじゃない!」


 アインは、車内か研究所か、どこか別の場所から通信しているはずだった。けれど声はすぐ近くで聞こえる。ブレスレットと、ミユの装甲内に展開された通信機能を通じて、蜘蛛の巣の中でもはっきり届いていた。


 ワトソンの声も重なる。


《周辺映像を解析中。蜘蛛男の糸は、物理的に張られているものと、通信干渉用の導線を兼ねるものが混在しています》


「簡単に言って!」


 プリティミューが叫ぶ。


《糸そのものが、蜘蛛男の手足であり、目であり、通信ケーブルでもあります》


「簡単に言われても嫌!」


《旧水質管理センターの監視設備が乗っ取られています。監視カメラ、残存配線、非常用通信機器。さらに周辺のスマートフォンも、糸を介して一部支配下に置かれています》


 メグは地面に落ちた自分のスマホを見た。


 画面が勝手に点灯している。


 カメラが起動していた。


 レンズは、プリティミューを映している。

 いや、映させられている。


 メグはぞっとした。


 蜘蛛男は、ただ糸で捕まえるだけではない。


 見ている。


 撮っている。


 広げている。


 この場所そのものを巣にしている。


「だから、あいつ、全部見えてるって……」


 プリティミューの声が低くなった。


 怖がっている。


 けれど、同時に理解しようとしている声だった。


 アインが答える。


《蜘蛛男を直接叩いても、糸は再生する》


「じゃあどうするの!」


《中央制御室の巣核を壊せ》


「面接に来た高校生に言うことじゃない!」


《現時点で最も成功率が高い》


「成功率とか言われると逆に不安!」


 プリティミューは叫びながら、飛んできた糸をハンマーで叩いた。


 ぽこん。


 糸が弾ける。


 しかし、その直後に管理棟の奥から新しい糸が伸びた。


 まるで傷口が塞がるように、切れた部分を白い繊維が補っていく。


 蜘蛛男が笑った。


「我が巣を叩いても無駄だ。糸は戻る。目は増える。逃げ道は閉じる」


「うるさい!」


 プリティミューはハンマーを構え直す。


 けれど、その声には焦りが混ざっていた。


 メグは、糸に縛られたまま周囲を見た。


 中央制御室。


 旧水質管理センターの中枢。


 たしか、昼に調べた施設図では、管理棟の奥、二階へ続く階段の先に制御室があったはずだ。かつて水質管理システムやポンプ設備を操作していた場所。閉鎖後も、古い制御盤や監視モニターが残っているという廃墟写真を見たことがある。


「先輩!」


「なに!?」


「中央制御室、たぶん管理棟の奥です! 二階への階段を上がった先、古い制御盤がある部屋!」


 プリティミューがこちらを見た。


「なんで知ってるの!?」


「昼に調べました!」


「そういうところだよ!」


「すみません!」


 でも、今だけは役に立った。


 メグはそう思いたかった。


 アインが即座に反応する。


《高梨メグの情報と施設図データが一致。中央制御室は管理棟二階北側。そこに高密度の怪人反応を確認》


 ワトソンの声が続く。


《反応形状は球状。直径推定二・七メートル。糸の束と通信機器が融合した中枢体と思われます》


「球状って、何?」


《巣核です》


 その言葉と同時に、プリティミューの視界にも何か表示されたのか、彼女は一瞬だけ空中を見るような仕草をした。


「巣核……」


《はい。蜘蛛男の糸を生成・再生・制御している中枢です。そこを破壊すれば、メグさんと男の子を拘束している糸も弱体化する可能性が高いです》


「可能性って言い方やめて!」


《確実と言うにはデータ不足です》


「正直!」


 プリティミューは奥歯を噛むような顔をした。


 それから、メグと男の子を見た。


 メグは、思わず背筋を伸ばそうとして、糸に締められて息を詰めた。


「っ……」


「メグ!」


「大丈夫、です……!」


 大丈夫ではない。


 けれど、今ここで弱音を吐けば、プリティミューは迷う。


 そう思った。


 男の子も、フェンスの向こうで泣きながらプリティミューを見ていた。足首の糸はさっきより増えている。白い繊維が、靴から膝のあたりまで伸び始めていた。


 時間がない。


 メグにも分かった。


 蜘蛛男が、糸の上でゆっくり身を起こす。


「巣核」


 その声に、笑みが混じっていた。


「聞こえているぞ。お前たちの声も、震えも、相談も」


 監視カメラが赤く光る。


 地面に落ちたスマホが、一斉にプリティミューを映す。


「我が巣の中で、我が巣の心臓を探すか。愚かだ。巣の奥へ進むほど、糸は濃くなる」


「じゃあ、行かれたら困るんだ」


 プリティミューが言った。


 声は震えていた。


 でも、さっきより少しだけ、前を向いていた。


 蜘蛛男の複眼が細くなる。


「来られるものなら来い。糸の一本も踏まずに、我が巣を越えられるならな」


「踏むと思う」


《踏む可能性は高い》


「そこは否定して!」


《だが、踏んでも死ななければよい》


「目標が低い!」


 プリティミューは叫んだが、足は前へ出た。


 一歩。


 白いブーツが、砂利を踏む。


 その足元に、細い糸が伸びかけた。


《左へ半歩》


「半歩ってどれくらい!」


《今》


「今って何!」


 ミユはほとんど反射で体をずらした。


 糸がブーツのすぐ横をかすめる。


 メグは息を呑んだ。


 危ない。


 けれど、避けた。


 プリティミューは本当に初心者だ。

 何度も転びかける。

 何度も叫ぶ。

 何度も文句を言う。


 でも、少しずつ対応している。


 アインの指示を聞いている。

 ワトソンの警告に反応している。

 自分の体の動きを、少しずつ理解しようとしている。


 それが見えた。


 メグには、はっきり見えた。


「プリティミュー……」


 口に出すと、少しだけ胸が震えた。


 その名前は、さっきまでミユ先輩のものではなかった。


 でも今、目の前で、少しずつその名前になろうとしている人がいる。


 メグは、痛む胸で息を吸った。


「先輩!」


 プリティミューが振り返る。


「今、先輩って呼んだ!?」


「す、すみません!」


「いや、いいけど! 今ちょっとややこしい!」


 メグは必死に言った。


「中央制御室まで行くなら、管理棟の正面入口は危ないです! 昼の動画だと、窓側にも糸が集中してました。たぶん、裏手の非常階段の方が――」


 言いかけた瞬間、メグのスマホが地面で強く光った。


 画面に文字が浮かぶ。


『よく知っているな。』


 メグの息が止まった。


 蜘蛛男の複眼が、ゆっくりとメグへ向く。


「お前も、よく見ていた」


 糸が締まった。


「っ……!」


「メグ!」


 プリティミューが駆け寄ろうとする。


《待て》


 アインの声が止めた。


《蜘蛛男はミユの進路を潰すために、高梨メグを利用している。接近すれば、メグごと糸に巻き込まれる》


「じゃあどうすればいいの!」


《先に巣核だ》


「でもメグが!」


《巣核を壊せば救える可能性が高い》


「可能性!」


《今、直接助けようとすれば共倒れの可能性が高い》


 プリティミューは動きを止めた。


 メグは、締まる糸の中で必死に首を振った。


「行ってください!」


「メグ!」


「わたしは、まだ大丈夫です! だから、その子も……わたしも、助けるなら、たぶん、そっちです!」


 怖かった。


 本当は、今すぐそばに来てほしかった。


 糸を外してほしかった。


 大丈夫だと言ってほしかった。


 けれど、メグにも分かってしまった。


 蜘蛛男は、ここでプリティミューを足止めしたいのだ。


 なら、進まなければならない。


 プリティミューは、メグを見た。


 泣きそうな顔だった。


 ヒーローみたいな格好なのに。

 装甲は光っているのに。

 手には武器を持っているのに。


 その顔は、ミユ先輩だった。


 怖くて、迷って、でも放っておけない人。


「……すぐ戻る」


 プリティミューは言った。


 小さな声だった。


 けれど、メグには届いた。


「はい」


「絶対、助けるから」


「はい……!」


 メグは頷いた。


 その言葉を信じたかった。


 信じるしかなかった。


 蜘蛛男が低く笑う。


「巣の奥へ行くか。ならば見せてやろう。糸に向かって進む虫が、どれほど愚かかを」


 管理棟の入口が、白い糸に覆われる。


 戦闘員たちが再び前へ出る。


 42番が腰を押さえながら、小声で言った。


「いや、これ、絶対また吹っ飛ばされる流れじゃないですか……」


「聞こえてる!」


 プリティミューが叫ぶ。


「聞こえるように言ってません!」


「言ってた!」


《バイト君、集中》


 アインの声。


「してる!」


《勝利条件を確認する。蜘蛛男を殴ることではない。中央制御室の巣核を破壊することだ》


「分かった!」


《経路は管理棟正面から一階ホール、階段、二階北側制御室。ただし正面は糸密度が高い》


 ワトソンが続ける。


《裏手の非常階段に糸密度の薄い箇所があります。高梨メグさんの情報と一致。そこから侵入してください》


「メグ、情報ありがとう!」


「はい!」


 メグは、糸に縛られたまま返事をした。


 それが少しだけおかしくて、少しだけ悲しかった。


 プリティミューはミュー・ハンマーを握り直した。


 まだ構えはぎこちない。

 足は震えている。

 きっと、怖い。


 それでも、彼女は走り出した。


 正面ではなく、管理棟の裏手へ向かって。


 蜘蛛男の糸が一斉に揺れる。


 戦闘員たちが叫ぶ。


「イーッ!」


 監視カメラの赤いランプが、プリティミューを追う。


 メグはその背中を、糸に縛られたまま見つめた。


 かわいいだけじゃない。


 すごいだけじゃない。


 怖いのに、逃げない。


 メグは、そのことを胸の奥に刻みつけるように、プリティミューの名前をもう一度呼んだ。


「プリティミュー!」


 ピンクと白の背中が、一瞬だけ振り向いた。


 そして、管理棟の影へ向かって駆けていった。

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