第4節 ― 蜘蛛の巣は、街につながっている
プリティミューは、管理棟の影へ向かって走った。
走った、というより、走らされている気分だった。
足が軽い。
軽すぎる。
白とピンクのブーツが砂利を蹴るたび、地面との接触が一瞬だけ薄くなる。体が前へ運ばれる。いつもの体育の授業で走る感覚とはまるで違った。息は上がっているのに、足はまだ動く。怖くて膝は震えているのに、装甲の内側で筋肉を補助する何かが、勝手に姿勢を立て直してくる。
「うわ、速い、速い、速い!」
《速度を落とすな。蜘蛛男の糸が追っている》
「言われなくても分かる!」
背後で、白い糸が地面を叩いた。
ぱしん、という乾いた音が、すぐ後ろで鳴る。振り返らなくても分かった。いま足を止めたら、背中から絡め取られる。
プリティミューはミュー・ハンマーを抱えたまま、管理棟の正面を避け、フェンス沿いに裏手へ回り込んだ。
旧水質管理センターの裏側は、表よりさらに薄暗かった。
建物の陰に入ったせいで、夕焼けの光が途切れる。足元には枯れた雑草と、割れたコンクリート片。壁には古い配管が何本も走り、その隙間に白い糸が絡んでいる。
上を見ると、割れた窓の奥で赤いランプが動いた。
監視カメラ。
もう電源が入っているはずのない、古いカメラが、ぎぎ、と軋みながら首を回し、プリティミューを追っていた。
「見ないで!」
《言って止まる相手ではない》
「言わなきゃ気が済まないの!」
プリティミューは走りながら、ハンマーを振り上げた。
割れた窓の奥へ、半ばやけくそで投げつけそうになって、慌てて止める。
「これ、投げていいの!?」
《推奨しない。武装を失う》
「じゃあ聞く前に言って!」
《聞かれたから答えた》
「会話の順番!」
窓の奥で、赤いランプがひとつ増えた。
さらにもうひとつ。
カメラだけではない。
管理棟の中に落ちている古いスマホ。
誰かが肝試しで置いていったのか、配信機材の一部なのか分からない端末。
壁に取りつけられた非常通報装置。
古いモニター。
それらが、白い糸に絡まれながら、次々と起動していく。
画面が光る。
レンズがこちらを向く。
赤い点が、闇の中に浮かぶ。
全部が目だった。
蜘蛛男の複眼だけではない。
施設そのものが、プリティミューを見ている。
「気持ち悪い……!」
《後方より戦闘員三名》
「前も後ろも忙しい!」
黒い戦闘員たちが、糸に引かれるように裏手へ回り込んできた。
「イーッ!」
「そっちに回れ!」
「ピンクを中央制御室へ行かせるな!」
「四十二番、前に出ろ!」
「さっき吹っ飛ばされたばっかりなんですけど!?」
聞き覚えのある声が混ざっていた。
プリティミューは振り返り、思わず叫ぶ。
「また来たの、四十二番!」
「仕事なので!」
「労災って言ってたじゃん!」
「申請はあとでします!」
「真面目!」
42番は腰を押さえながらも、警棒を構えた。明らかに他の戦闘員より慎重で、プリティミューのハンマーの射程に入らないように距離を取っている。
他の戦闘員二人が先に飛びかかってきた。
《足元の糸を叩け》
「また、ぽこんって鳴るやつ!」
《効果はある》
「音の問題!」
プリティミューは地面へハンマーを振り下ろした。
ぽこん。
軽すぎる音と同時に、衝撃波が円形に広がる。足元に張られていた糸が弾け、糸に動きを補助されていた戦闘員たちがバランスを崩した。
「イーッ!?」
「またこれ!」
「音の割に威力が!」
戦闘員たちは転がった。
しかし、プリティミューも反動を制御しきれず、前へつんのめる。
「わっ、わっ、止まって!」
《姿勢制御補助》
ブーツが光り、体を立て直す。
が、その勢いで彼女は非常階段の手すりに肩からぶつかった。
「だから雑!」
《転倒はしていない》
「ぶつかってる!」
非常階段は、建物の裏手に錆びついたまま残っていた。
鉄製の階段。
剥げた塗装。
手すりに絡みつく白い糸。
二階へ続くはずの段差の途中には、まるで蜘蛛の巣のような薄い膜がかかっている。
その奥、二階北側。
中央制御室。
メグの言っていた場所。
プリティミューは息を飲んだ。
「ここを上がればいいの?」
《そうだ。ただし糸密度は上昇中》
「簡単に言うと?」
《危ない》
「だよね!」
階段に足をかけた瞬間、μブレスレットが震えた。
視界の端に、半透明の表示が浮かぶ。
警告。
通信干渉。
外部視線検知。
映像拡散中。
「映像拡散中?」
プリティミューが言った直後、足元に落ちていた誰かのスマホが勝手に起動した。
画面には、SNSの投稿が流れていた。
『ホウジュ区にピンクのヒーロー出た』
『変身した?』
『なにこれ特撮?』
『プリティミューって聞こえた』
『名前ださ……いやかわいい?』
『ライブ中!』
『旧水質管理センター、まだ配信切れない』
『これ本物? CG?』
『ピンクの子、走り方素人っぽい』
『でも逃げてないのすごくない?』
「拡散しないで! 初出勤なの!」
プリティミューは思わずスマホに向かって叫んだ。
すると、別の端末から自分の声が遅れて再生された。
『拡散しないで! 初出勤なの!』
「いやあああ! 自分の声!」
《音声も拾われている》
「分かってる!」
《声紋処理はμシステム側で一部補正している。変身中の声から素性を特定される可能性は低い》
「一部って言った!」
《完全ではない》
「今いちばん聞きたくない正直!」
プリティミューは階段を駆け上がろうとした。
しかし、足が止まった。
階段の踊り場に、メグのスマホ画面と同じ通知が浮かんでいた。そこにはSNSの投稿ではなく、別の情報が映っていた。
学校名。
星のマークがついた校章の画像。
通学路の地図。
制服姿の生徒たちのぼやけた写真。
そして、朝倉ミユのスマホに届いていた母からの未読メッセージ。
『終わったら連絡。遅くなるなら必ず言うこと』
ミユの息が止まった。
画面の中で、通知がさらに重なる。
『ホウジュ区立――』
『朝倉――』
『現在地――旧水質管理センター』
『連絡先――』
「やめて……」
声が、小さくなった。
さっきまで叫べていたのに、急に喉が縮んだ。
プリティミューではなく、朝倉ミユの心臓が跳ねた。
母のメッセージ。
学校。
自分の名前につながる断片。
普通の日常に戻るための道。
それが、白い糸に引きずり出されて、画面の上に並べられている。
「やめてよ……それは、関係ないでしょ……」
管理棟の奥から、蜘蛛男の声が響いた。
近くではない。
けれど、あちこちのスマホとスピーカーと監視装置を通して、すぐ耳元にいるように聞こえた。
「お前の場所は見えている」
赤い監視ランプが、階段の上で瞬く。
「お前の顔も、声も、逃げ道も、全部見える」
非常階段の手すりに絡んだ糸が、ゆっくり震えた。
「人間は、糸に絡まっている方が安心するのだ」
「……は?」
プリティミューは、かすれた声で聞き返した。
蜘蛛男は笑った。
「名前。学校。家。母親。友人。履歴。位置。声。好み。恐怖。逃げ道。人間は、自分を縛る糸を自分で差し出す」
スマホ画面が次々に光る。
そこには、位置情報アプリの地図。
SNSのプロフィール。
検索履歴の断片。
通知欄。
撮影中のライブ映像。
誰かのコメント。
『この子どこの学校?』
『制服見たことある』
『プリティミュー正体誰?』
『声かわいい』
『ホウジュ区の子?』
『母親から通知きてない?』
『本名バレる?』
「やめて!」
プリティミューは叫んだ。
ミュー・ハンマーを振り下ろし、足元のスマホを壊そうとした。
《待て》
アインの声が止めた。
「なんで!」
《壊しても映像は止まらない。蜘蛛男は周囲の複数端末と施設設備を中継している》
「じゃあどうすればいいの!」
《だから巣核だ》
その答えは正しい。
たぶん正しい。
でも、足が動かない。
正体がバレるかもしれない。
その恐怖は、蜘蛛男の糸より冷たかった。
母に知られる。
学校で噂になる。
メグに、ミユだと気づかれる。
クラスで動画を見られる。
知らない人たちに、自分の姿や声や情報を勝手に切り取られる。
今日まであった普通の日常が、ネットの向こう側へ引きずり出される。
それは、怪人に殴られることとは別の怖さだった。
殴られた痛みなら、たぶん治る。
でも、一度広がったものは消えない。
コメント欄の文字が、また流れる。
『ピンクの子、止まった』
『怖がってる?』
『やっぱ撮影じゃない?』
『本物なら助けに行けよ』
『正体誰?』
『制服特定班まだ?』
プリティミューの指先が震えた。
「……嫌だ」
小さく、漏れた。
怖い。
蜘蛛男が怖い。
糸が怖い。
でも、それ以上に、見られているのが怖い。
プリティミューという名前で見られるのではなく、朝倉ミユとして見つけられるのが怖い。
アインの声が、少しだけ低くなる。
《バイト君》
「……なに」
《現在、μシステムが外部映像に対して顔認識阻害処理を行っている。変身前の情報との照合も、こちらで妨害している》
「でも、完全じゃないんでしょ」
《完全ではない》
「ほら」
《だが、今すぐ素性が確定する可能性は低い》
「低いってだけで、ゼロじゃない!」
《ゼロではない》
「なんでそういうとこだけ正直なの!」
ワトソンの声が、静かに入った。
《ミユさん。恐怖は妥当です》
その言い方が、アインとは違った。
慰めるでもなく、急かすでもなく、ただ認める声。
《あなたは今、肉体的な危険と、社会的な危険の両方に晒されています。怖いと感じるのは当然です》
「……猫型端末に当然って言われても」
《私は猫ではありません》
「そこ、今も言うんだ」
《重要です》
ほんの少しだけ、喉の詰まりが緩んだ。
けれど足はまだ動かない。
階段の上では、白い糸が待っている。
階段の下では、戦闘員たちが態勢を立て直している。
フェンスの向こうでは、メグと男の子が捕まっている。
そして街のどこかでは、知らない誰かがこの映像を見ている。
面白がって。
怖がって。
疑って。
笑って。
特定しようとして。
蜘蛛男の声が、静かに続いた。
「進めば見える。止まれば見える。逃げても見える。お前はもう、巣の中だ」
非常階段の上から、白い糸が一本、すっと降りてきた。
触手のように揺れ、プリティミューの目の前で止まる。
「さあ、選べ。巣の奥へ進むか。日常へ帰るか」
蜘蛛男の口元が見えた気がした。
「もっとも、帰る場所も、すでに我が糸の先だがな」
ミユの頭の中に、朝の食卓が浮かんだ。
母の味噌汁。
冷蔵庫のカレンダー。
星のシール。
「終わったら連絡」と届いたメッセージ。
帰る場所。
それを守りたいから、ここにいるのに。
その帰る場所を人質に取られたような気がして、ミユは息ができなくなった。
ミュー・ハンマーを握る手が下がる。
非常階段の一段目で、プリティミューの足が止まった。
背後から、メグの声がかすかに届く。
「プリティミュー……?」
その声に振り返りたい。
でも、振り返れなかった。
見られている。
どこからも。
誰からも。
赤いランプが、瞬く。
スマホの画面が、光る。
白い糸が、静かに揺れる。
プリティミューは、動けなかった。




