第5節 ― 今だけは、私がやる
足が、動かなかった。
非常階段の一段目。
錆びた鉄の上に、プリティミューの白いブーツが置かれている。そこから先へ進めば、中央制御室へ行ける。巣核がある。メグと男の子を縛っている糸を止められるかもしれない。
分かっている。
分かっているのに、足が上がらない。
周囲のスマホ画面が、勝手に光っていた。
野次馬が落とした端末。
地面に転がったメグのスマホ。
割れた窓の奥で生き返った古い監視モニター。
非常階段の壁に貼りついた、誰のものか分からない古い小型カメラ。
そこに、ミユの日常へつながる断片が浮かんでいる。
学校名。
通学路。
母からの未読メッセージ。
位置情報。
制服の色。
誰かのコメント。
『正体誰?』
『制服見たことある』
『ホウジュ区の高校生?』
『母親から通知来てる?』
『本名バレそう』
『逃げた?』
『ピンクの子、止まった』
文字が流れる。
知らない誰かの指先が、知らない場所で、ミユの今を見ている。
画面の向こう側にいる人たちには、匂いは届かない。
糸の生臭さも、錆びた鉄の冷たさも、喉の奥に張りつく恐怖も、届かない。
ただ、映像だけが流れる。
コメントだけが増える。
プリティミューという名前だけが、知らない場所へ運ばれていく。
その名前の奥に、朝倉ミユがいることを、いつか誰かが見つけるかもしれない。
そう思った瞬間、ミユの胸はぎゅっと縮んだ。
「……嫌だ」
小さな声だった。
ヒーローの声ではない。
戦う者の声でもない。
ただの高校生の声だった。
昨日まで、怪人なんて画面の向こうのものだった。都市伝説とか、古い特撮とか、メグが目を輝かせて語るものだった。
今日の朝だって、ミユはただ求人サイトを見ていただけだ。
時給二五〇〇円。
未経験可。
制服貸与。
高校生可。
多少の危険あり。
その文字に引っかかって、でも時給に負けて、母に心配をかけたくなくて、少しでも家の役に立ちたくて、応募した。
ただ、それだけだった。
正義の味方になりたかったわけじゃない。
人前で変身ワードを叫びたかったわけじゃない。
ピンクと白の戦闘服を着て、怪人の前に立ちたかったわけじゃない。
ミユは、手の中のミュー・ハンマーを見た。
可愛い見た目。
間の抜けた音。
でも、確かに糸を弾く力がある武器。
それを握っている自分の手は、震えていた。
蜘蛛男の声が、施設中のスピーカーと端末から響いた。
「止まったな」
赤い監視ランプが、ひとつずつ瞬く。
「当然だ。お前はただの小娘だ」
その言葉は、糸より鋭くミユへ刺さった。
ただの小娘。
そうだ。
その通りだ。
ミユはただの高校生だ。
戦闘経験なんてない。
怪人の倒し方なんて知らない。
人を助ける訓練も受けていない。
ヒーローになる覚悟もない。
怖いものは怖い。
嫌なものは嫌だ。
母に知られたくない。
学校で噂になりたくない。
ネットに晒されたくない。
帰りたい。
今すぐ変身を解いて、家に帰りたい。
母に怒られて、もう怪しいバイトなんか応募しないと約束して、温かい味噌汁を飲んで、布団に潜り込みたい。
蜘蛛男は、静かに笑った。
「逃げればよい。お前はただの小娘だ」
非常階段の上から、白い糸がゆっくり降りてくる。
それは攻撃ではなかった。
まるで、道を示すように。
あるいは、逃げ道を教えるように。
「そこから飛び降り、巣の外へ走れ。変身を解き、家へ帰れ。母親に泣きつけ。学校へ戻れ。お前の日常は、まだ完全には切れていない」
ミユの喉が鳴った。
蜘蛛男の声は、気持ち悪いほど優しかった。
「その代わり」
糸が、ぎしりと鳴る。
「この二匹は置いていけ」
フェンスの方で、メグの体が引かれた。
「っ……!」
短い悲鳴。
ミユは振り向いた。
メグが、白い糸に縛られたまま膝をついていた。肩から胴に巻きついた糸が強く締まり、眼鏡がずれている。顔は青ざめ、唇が震えていた。
それでも、メグはミユを見ていた。
泣きそうな目で。
でも、どこかで必死に笑おうとしている目で。
「プリティ、ミュー……」
声がかすれていた。
その隣では、フェンスの内側の男の子がさらに管理棟の暗がりへ引きずられている。足首から膝、腰のあたりまで、白い糸が絡んでいた。
「やだ……お母さん……!」
男の子が泣いた。
その声で、ミユの胸が凍った。
お母さん。
たったそれだけの言葉が、痛かった。
男の子にも帰る場所がある。
メグにも帰る場所がある。
自分だけではない。
ミユだけが、家へ帰りたいわけではない。
みんな、帰りたい。
みんな、怖い。
なのに蜘蛛男は、それを糸で引いて笑っている。
「メグ……!」
ミユは一歩踏み出しかけた。
アインの声が、すぐに飛ぶ。
《待て。正面から戻れば、蜘蛛男は二人をさらに引く》
「じゃあ、どうすればいいの!」
《巣核だ。中央制御室の巣核を破壊すれば、拘束糸の制御が乱れる》
「分かってる!」
《なら進め》
「分かってるって言ってるでしょ!」
怒鳴った声が、少し震えた。
分かっている。
でも、怖いのだ。
進めば、さらに見られる。
さらに晒される。
さらに追い詰められる。
この階段の先に何があるのか分からない。
蜘蛛男がどんな罠を張っているのかも分からない。
μシステムが本当に自分を守ってくれるのかも分からない。
アインが言う成功率なんて、信用できるようで信用できない。
だって、ミユは自分のことを一番よく知っている。
怖いと足が止まる。
焦ると左右を間違える。
ジャンプすれば壁にぶつかる。
ハンマーを振れば空振りする。
それが朝倉ミユだ。
正義の味方なんかじゃない。
そう思った瞬間、口から言葉が出ていた。
「私は……正義の味方なんかじゃない」
声は小さかった。
けれど、施設の中で妙にはっきり響いた。
メグが目を見開く。
男の子が泣きながら顔を上げる。
蜘蛛男の複眼が、細くなった。
ミユは、非常階段の手すりを握った。錆びた鉄の上に白い糸が絡んでいる。触れた瞬間、μ装甲の指先が淡く光り、糸の干渉を弾いた。
「戦い方なんて知らないし、ヒーローになりたいなんて思ったことないし、変身ワードも名乗りも恥ずかしいし、正直、今すぐ帰りたい」
喉が震える。
でも、言葉は止まらなかった。
「お母さんに怒られるのも怖い。学校で噂になるのも怖い。知らない人に勝手に見られるのも、本当に嫌だ」
ミュー・ハンマーを握る手に、力が入る。
「でも」
ミユは、メグを見た。
糸に縛られて、痛そうに息をしている後輩。
昼休みに、目を輝かせて都市伝説を語っていた眼鏡の後輩。
危ないから行くなと約束したのに、来てしまって、でも今はミユを信じようとしている子。
次に、男の子を見た。
自分よりずっと小さな子。
怖くて、泣いて、帰りたいと願っている子。
ミユは、息を吸った。
「目の前で誰かが泣いてるのに、見なかったことにはできない」
その瞬間、左手首のμブレスレットが強く光った。
青白い光の中に、濃いピンクの粒子が混ざる。
装甲の胸元のμマークが、鼓動のように脈打った。
《出力上昇》
ワトソンの声が響く。
《感情波形、安定方向へ変化》
アインの声が重なる。
《……適合率、上昇》
その声は、少しだけ違っていた。
今までのような興奮ではない。
新しい実験データを見つけた研究者の声でもない。
ほんのわずかに、戸惑っていた。
《九十九・三から、九十九・六……いや、瞬間値九十九・八。筋出力補助、神経同期、装甲応答、すべて上昇している。なぜだ。外部負荷は増えているのに、拒絶反応が減っている》
アインが、早口で数値を読み上げる。
《恐怖反応は継続。心拍も高い。なのに、同期が安定している。これは――》
「違うにゃ、アイン」
ワトソンの声が割り込んだ。
アインが止まる。
《……今、にゃと言ったかい》
「言いました」
《なぜ》
「必要な気がしました」
《必要性が不明だ》
「それより、違います」
《何が》
ワトソンの声は、いつもより少し柔らかかった。
「今のは、数値ではありません」
短い沈黙があった。
ミユには、通信の向こうでアインが本当に黙り込んだのが分かった。
ワトソンは続ける。
「適合率が上がったから、ミユさんが立ったのではありません。ミユさんが、自分で立つと決めたから、μシステムが応えたのです」
《システムは意思に応答するよう設計されている》
「はい。けれど、意思は数値そのものではありません」
《……》
「あなたは今、出力を見ています。でも、見るべきなのは、その理由です」
アインは答えなかった。
ミユは通信の向こうの二人のやり取りを、半分しか聞いていなかった。
数値。
適合率。
出力。
理由。
難しいことは分からない。
でも、左手首から伝わる熱だけは分かった。
μシステムが、自分を引っ張っているのではない。
今は、自分の気持ちに、装甲がついてきている。
そんな感覚だった。
蜘蛛男が、低く唸った。
「きれいごとを言うな」
施設全体の糸が震える。
「見なかったことにできない? それだけで戦うか。愚かな。人間はみな、都合の悪いものを見なかったことにして生きている。見れば傷つく。見れば縛られる。だから目を逸らす」
赤い複眼が、ミユを射抜く。
「お前も同じだ。ただの小娘だ。泣く子を見て、一時の感情で動いているだけだ」
「そうかもね」
ミユは、静かに言った。
自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。
「一時の感情かもしれない。明日になったら、やっぱり怖かったって泣くかもしれない。ヒーローなんて無理って思うかもしれない」
非常階段の二段目へ足を上げる。
白い糸が、足首へ絡もうとした。
ミユはミュー・ハンマーを軽く振った。
ぽこん。
いつもの間抜けな音。
けれど衝撃は鋭く、糸を弾いた。
「でも、今は違う」
ミユは三段目へ進んだ。
「やらされてるんじゃない」
四段目。
「アインに命令されたからでもない」
五段目。
「時給二五〇〇円だからでもない」
そこで一瞬、顔が引きつった。
「……いや、時給はちょっと大事だけど」
《重要な労働条件だ》
「今そこ拾わないで!」
ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。
でも、その緩みが、ミユの足を前へ出させた。
蜘蛛男の糸が階段の上から一斉に降ってくる。
ミユは逃げなかった。
ハンマーを両手で握り、正面へ振り上げる。
「今は、私がやるって決めたの!」
ミュー・ハンマーが光った。
ぽこん、という軽い音は鳴らなかった。
代わりに、深い低音が階段を揺らした。
衝撃波が、前方へ扇状に広がる。
降ってきた糸がまとめて弾けた。白い繊維が光の粒になって散り、非常階段の上に一瞬だけ道が開く。
メグが叫んだ。
「プリティミュー!」
その声には、もうただの憧れだけではなかった。
泣きながら、それでも信じる声だった。
男の子も、しゃくり上げながら顔を上げた。
「お姉ちゃん……!」
ミユは振り返らなかった。
振り返ったら、また怖くなるかもしれない。
だから前を向いたまま、答えた。
「すぐ戻る!」
その声は、少し震えていた。
けれど、非常階段の上へまっすぐ届いた。
アインが、通信の向こうで低く言った。
《進路確保。中央制御室まで二十七メートル》
少し間を置いて、続ける。
《……プリティミュー》
ミユは目を瞬かせた。
アインが、初めてその名前で呼んだ。
バイト君ではなく。
適合者でもなく。
プリティミュー。
《巣核を破壊しろ》
ミユはミュー・ハンマーを構え直した。
「了解!」
短く答え、階段を駆け上がる。
背後で蜘蛛男が吠えた。
白い糸が追ってくる。
赤いカメラが首を回す。
スマホの画面が、まだミユを映している。
それでも、さっきまでとは違った。
見られていることが怖くなくなったわけではない。
正体がバレる不安が消えたわけでもない。
日常を失う恐怖が、なくなったわけでもない。
怖いままだ。
震えたままだ。
でも、足は動いた。
今だけは。
この瞬間だけは。
朝倉ミユは、逃げないと決めた。




