第6節 ― プリティ・インパクト
非常階段を駆け上がるたび、錆びた鉄板が悲鳴のように鳴った。
ぎしり。
ぎしり。
ぎしり。
その音に重なるように、背後から白い糸が追ってくる。
プリティミューは振り返らなかった。
振り返ったら、怖くなる。
怖くなれば、足が止まる。
足が止まれば、メグも、男の子も助けられない。
だから前だけを見た。
管理棟二階。
北側の中央制御室。
そこに巣核がある。
《残り十九メートル》
アインの声が、μブレスレットから響く。
《正面廊下に糸密度上昇。左側の窓枠から侵入した方が早い》
「窓から!?」
《ガラスは割れている》
「そういう問題じゃない!」
《跳躍補助を使え》
「さっき壁にぶつかったの忘れてない!?」
《忘れていない。今回は角度補正を入れる》
「最初から入れて!」
プリティミューは非常階段の踊り場を蹴った。
体が軽く浮く。
今度は、さっきほど無茶な跳び方ではなかった。足元のブーツが光を噴き、腰のアーマーがわずかに開く。体が斜め前へ滑るように進み、割れた窓枠へ向かっていく。
「わ、わ、わ……!」
《頭を下げて》
「はい!」
半ば悲鳴のように返事をして、プリティミューは窓枠をくぐった。
砕けたガラスの縁が装甲をかすめる。白いアーマーに小さな火花が散った。痛くはない。けれど、心臓には悪い。
着地した場所は、管理棟二階の廊下だった。
暗い。
外の夕焼けが届かない。
非常灯の赤い光と、糸に絡まった古いモニターの青白い明滅だけが、廊下を照らしている。
床には水の跡が残っていた。閉鎖されてからずっと放置された配管から漏れたのかもしれない。そこに白い糸が張りつき、まるで廊下全体が蜘蛛の腹の中になったようだった。
壁の監視カメラが、ぎぎ、と動く。
一つ。
二つ。
三つ。
すべての赤いランプが、プリティミューを追った。
「見すぎ!」
プリティミューはミュー・ハンマーを振る。
ぽこん。
衝撃波が走り、近くの監視カメラがひとつ弾け飛んだ。
だが、すぐに奥のカメラが代わりに動き出す。
《個別のカメラを壊しても意味は薄い》
「分かってるけど腹立つの!」
《感情による攻撃対象選択は非効率だ》
「今の私は効率で動いてない!」
廊下の奥で、白い糸が集まっていた。
扉がある。
古びた金属扉。
上部には、剥がれかけたプレート。
『中央制御室』
その文字の上に、白い糸が何重にも巻きついている。扉の隙間から、赤黒い光が漏れていた。
心臓の鼓動みたいに、どくん、どくん、と光が脈打つ。
プリティミューは息を呑んだ。
「……あれ?」
《中央制御室内部に高密度怪人反応。巣核だ》
ワトソンの声が低くなる。
《周囲の糸は防衛反応を示しています。接近時、拘束攻撃が来ます》
「分かりやすく言うと?」
《すごく危ないです》
「ありがとう、すごく分かりやすい!」
扉の前の糸が、突然ほどけた。
いや、ほどけたのではない。
動いた。
白い糸が蛇のように床を這い、壁を伝い、天井から垂れ下がる。数えきれないほどの細い糸が、一斉にプリティミューへ向かってきた。
「うわあああ、無理無理無理!」
《無理ではない。ハンマーを前方へ構えろ》
「構えた!」
《出力を集中》
「どうやって!」
《気合いだ》
「科学は!?」
《最終的には気合いだ》
「いちばん言っちゃだめなやつ!」
プリティミューはミュー・ハンマーを両手で握りしめた。
怖い。
糸が来る。
目の前いっぱいに、白い線が迫ってくる。
でも、今度は下がらなかった。
メグが待っている。
男の子が待っている。
自分でやると決めたばかりだ。
「このっ!」
ハンマーを横に振る。
ぽこん、という音とともに衝撃波が広がった。正面の糸が何本も弾ける。しかし、左右から別の糸が回り込む。
プリティミューは踏み込んだ。
もう一度振る。
ぽこん。
糸が裂ける。
さらに一歩。
床の糸がブーツに絡もうとする。
《足元》
「分かってる!」
ハンマーを床へ叩きつける。
ぽこん。
衝撃が床を走り、白い糸が散る。
軽い音。
でも、今はその音が少しだけ頼もしく聞こえた。
間抜けでもいい。
可愛すぎてもいい。
この音で、前に進めるなら。
プリティミューは、糸の波を押し返しながら扉の前までたどり着いた。
中央制御室の扉は、内側から膨らんでいた。
いや、扉そのものが変形しているのではない。向こう側から、糸の塊が押しているのだ。金属扉の隙間から白い繊維がはみ出し、赤黒い光が漏れている。
「アイン、これ開けるの?」
《壊せ》
「やっぱり!」
《扉ごと巣核の外殻を叩け。ミュー・ハンマーの衝撃波なら突破できる》
プリティミューはハンマーを構えた。
その瞬間、視界の端に半透明の文字が表示された。
必殺技名。
プリティ・インパクト
プリティミューは一瞬、止まった。
「……名前は後で直す!」
《登録済みだ》
「直す!」
《検討する》
「絶対直す!」
彼女は叫びながら、ハンマーを振りかぶった。
ミュー・ハンマーのヘッド部分が回転する。内部で小さな光の粒が集まり、青白いリングを作った。リングは何重にも重なり、ピンクのμマークが中央に浮かぶ。
見た目はピコピコハンマー。
けれど、今、その内側で圧縮されている力は、玩具のものではなかった。
高密度衝撃波。
音波制御。
運動エネルギー増幅。
μシステムによる感情出力同期。
そんな説明を、今のミユはほとんど理解していない。
ただ、分かったことがひとつある。
これを叩き込めば、道が開く。
「プリティ――」
言いかけて、顔が赤くなる。
「いや、やっぱり恥ずかしい!」
《技名発声による出力補正が入る》
「なんでそういう仕様にするの!」
《ヒーローだからだ》
「科学!」
扉の向こうで、巣核が脈打った。
糸が、背後から迫ってくる。
もう迷っている時間はなかった。
プリティミューは歯を食いしばり、半ばやけくそで叫んだ。
「プリティ・インパクト!」
ハンマーが扉に叩きつけられた。
音は、ぽこんではなかった。
空気が震えた。
廊下全体が、一瞬、透明な波に包まれる。扉の金属板が内側へへこみ、巻きついていた糸が白い光を散らして裂けた。衝撃波が扉を貫き、その奥へ走る。
次の瞬間、中央制御室の扉が吹き飛んだ。
プリティミューは勢いのまま室内へ突っ込む。
そこにあったのは、巨大な糸玉だった。
天井から床まで届くほどの白い球体。
糸が何層にも巻き重なり、その内側に古い制御盤やモニター、監視機器、通信端末が取り込まれている。中心部には、赤黒い脈動があった。
まるで、機械でできた心臓。
巣核。
その表面には、無数の画面が埋まっていた。
メグを映す画面。
男の子を映す画面。
逃げ惑う野次馬を映す画面。
SNSの投稿が流れる画面。
そして、プリティミュー自身を映す画面。
全部が、蜘蛛男の目だった。
「……気持ち悪い!」
プリティミューは叫んだ。
巣核の表面から、一斉に糸が伸びる。
遅い。
さっきまでより、そう感じた。
実際に遅いのか、ミユの感覚が鋭くなっているのかは分からない。けれど、見えた。どの糸が自分の足を狙い、どの糸が腕を狙い、どの糸がハンマーを絡め取ろうとしているのか。
《正面、一点集中》
アインの声。
「分かってる!」
プリティミューは踏み込んだ。
床の糸が足を絡める。
ブーツが光って弾く。
右から糸が来る。
肩をひねって避ける。
左から細い糸がハンマーを狙う。
手首を返して弾く。
中央。
赤黒い脈動。
そこへ向かって、ミュー・ハンマーを振り下ろした。
「これで――!」
衝撃が、巣核の中心へ沈み込んだ。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間。
音が爆ぜた。
中央制御室の空気が、円形に歪む。巣核の表面を走る白い糸が、内側から膨らみ、破裂する。制御盤に絡んでいた配線が焼き切れ、古いモニターが一斉に黒く落ちた。
赤い監視ランプが、次々と消える。
廊下のカメラが落ちる。
外壁のカメラが首を垂れる。
地面に落ちていたスマホの画面が暗くなる。
野次馬たちの端末から勝手な配信が途切れる。
メグのスマホも、ぱたりと沈黙した。
外で、メグを縛っていた糸が緩んだ。
「……あっ」
メグの体から白い糸がほどける。
肩、腕、胴。締めつけていた糸が力を失い、地面へ落ちていく。
男の子の足に絡んでいた糸も、ぶつり、ぶつりと切れた。
「うわっ!」
男の子はその場に尻もちをつき、泣きながら自分の足を抱えた。
フェンスの外で、メグが膝をつく。
「解けた……」
その声が、プリティミューには直接聞こえなかった。
でも、ブレスレット越しにワトソンが告げる。
《拘束糸、解除を確認。メグさんと男の子の拘束が解けました》
プリティミューは、息を吐いた。
「よかった……」
その瞬間、背後から殺気が来た。
《後方》
アインの声が鋭くなる。
プリティミューは振り返った。
中央制御室の入口に、蜘蛛男がいた。
先ほどまでの余裕はなかった。背中の糸袋はしぼみ、複眼のいくつかが暗くなっている。体を支えていた糸も切れかけ、壁に爪を立てるようにして立っていた。
けれど、まだ動いている。
赤い複眼が、怒りでぎらついていた。
「我が巣を……」
声が割れている。
スマホや監視カメラを通した不気味な多重音ではない。今は、蜘蛛男自身の喉から絞り出すような声だった。
「我が目を、我が糸を……!」
蜘蛛男が飛びかかる。
弱体化しているとはいえ、速い。
プリティミューはミュー・ハンマーを握り直した。
怖い。
でも、さっきとは違う。
メグの糸は解けた。
男の子も自由になった。
もう、人質に取られていない。
なら。
「これで――」
プリティミューは一歩踏み込んだ。
蜘蛛男の爪が迫る。
白い残り糸が腕に絡もうとする。
ミュー・ハンマーのヘッドが光る。
「初勤務終了!」
ハンマーが、蜘蛛男の胴に叩き込まれた。
今度の音は、ぽこんとどんの中間だった。
可愛くて、重い。
間抜けで、確かに強い。
衝撃波が蜘蛛男の体内へ走る。
蜘蛛男の赤い複眼が、一斉に見開かれた。
「見えて……いた、はず……」
「もう見なくていい!」
プリティミューは叫んだ。
蜘蛛男の体が、後方へ吹き飛ぶ。
中央制御室の壊れた制御盤へ叩きつけられ、白い糸がばらばらにほどけた。黒い外骨格に亀裂が入り、赤黒い光が漏れる。
蜘蛛男は、最後に何かを掴もうとするように指を伸ばした。
けれど、掴む糸はもう残っていなかった。
体が崩れる。
黒い糸片が散り、赤黒い細胞片のようなものが床へ落ちる。
その中に、小さなデータチップのような破片が混ざっていた。
薄く光っている。
蜘蛛男の残骸は、完全には消えなかった。
プリティミューは、肩で息をしながらそれを見下ろした。
「……倒した、の?」
《主反応消失》
ワトソンの声。
《蜘蛛男、戦闘不能です》
アインの声が、少し遅れて続いた。
《巣核破壊を確認。周辺通信干渉、停止。スマートフォン端末の乗っ取り解除。監視設備、沈黙》
その報告を聞いた瞬間、プリティミューの膝から力が抜けた。
「よ……よかった……」
そのまま床に座り込みそうになる。
《座るな》
「なんで!」
《中央制御室の床は汚染されている可能性がある》
「そういう現実的なこと今言う!?」
《重要だ》
「もうやだ、このバイト!」
言いながら、プリティミューはなんとか立っていた。
壊れた巣核から、白い糸の残骸がゆっくり崩れていく。
モニターは沈黙し、赤いランプは消え、制御室はただの廃墟へ戻りつつあった。
ただ、床の隅。
黒い糸片と赤黒い細胞片の間で、小さなデータチップのような破片が、一度だけ弱く光った。
プリティミューは気づかなかった。
通信の向こうで、アインが一瞬だけ黙った。
《……残留反応あり》
「え?」
《いや。今は救助確認を優先する》
「言い方が不穏!」
《後で回収する》
「後でって何!? また何かあるの!?」
《仕事が増えた》
「増やさないで!」
遠くから、メグの声が聞こえた。
「プリティミュー!」
プリティミューは、はっと顔を上げた。
中央制御室の壊れた窓の向こう。夕焼けの下で、メグが立っている。糸はもう解けていた。男の子も、泣きながらも自分の足で立っている。周囲の野次馬たちは混乱しながらも、スマホの画面が戻ったことに気づき始めていた。
プリティミューは、窓へ向かってふらふらと歩いた。
そして、メグと男の子が無事なのを見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。
怖かった。
本当に怖かった。
でも、助かった。
助けられた。
ミュー・ハンマーを握る手が、遅れて震え始める。
プリティミューは、それを隠すようにハンマーを胸元へ抱えた。
「……初勤務でこれって、絶対おかしい」
《同意するにゃ》
「今にゃって言った?」
《言っていません》
「言ったよね!?」
《記録にありません》
「消した!?」
ワトソンのしれっとした声に、プリティミューは泣き笑いのような顔になった。
中央制御室の奥で、蜘蛛男の残骸が静かに煙を上げている。
旧水質管理センターを覆っていた白い糸は、夕方の風の中で少しずつ力を失い、ただの汚れた繊維のように垂れ下がっていった。
ホウジュ区の空に、遅い夕焼けが戻ってくる。
プリティミューの初戦闘は、どうにか終わった。




