第4節 ― 契約解除コード
音が、ずれた。
駅前広場の真ん中で、プリティミューは一瞬、自分が立っている場所を見失いかけた。
さっきまで聞こえていたメグの声が、ぷつり、ぷつりと途切れる。
《先輩、右――いえ、違……左から――》
ノイズが混じる。
白い砂嵐のようなものが視界の端に走り、μブレスレットの表示が乱れた。心拍数、出力値、外部同期率、戦闘補助ログ。それらの数字が赤く点滅し、まるで誰かに上から書き換えられているように、意味を失っていく。
ワトソンの補助表示も、いつもの整った文字列ではなくなっていた。
《ミユさん、現在の――警告――偽装データ――音声認証不能――》
「ワトソン!?」
答えは返ってこない。
その代わりに、耳元で、ひどく近い声がした。
《ミユさん、逃げてください》
ワトソンの声だった。
けれど、違う。
声質は同じだ。冷静で、丁寧で、少しだけ人間味に欠けるあの声。なのに、その奥にあるはずの温度がない。機械が、録音された音を、音として流しているだけのような平坦さだった。
次に、アインの声が聞こえた。
《バイト君、実験終了だ》
「……アイン?」
《これ以上の戦闘継続は不要だ。君はもう用済みだ》
「言い方!」
反射的に突っ込んだあとで、ミユは歯を食いしばった。
違う。
アインなら、もっと腹立つ言い方をする。もっと余計な補足をつける。もっとこちらを苛立たせるような、でも妙に逃げ道を残すような言い方をする。
これは、アインの声をしているだけだ。
背後で、メグの声が割り込んだ。
《先輩では無理です》
「……っ」
胸の奥が、ぞわりと冷えた。
そんなわけがない。
メグが、そんな言い方をするはずがない。
わかっている。
わかっているのに、声が似ているだけで、心のどこかが引っかかる。
《先輩では無理です》
《先輩は、いつも無茶をします》
《先輩が倒れたら、全部終わりです》
《だから、もう――》
「やめろ」
プリティミューは頭を押さえた。
ヘルメットの内側で、音が反響する。駅前広場にいるはずなのに、まるで狭い箱の中へ閉じ込められたようだった。
人々のざわめき。黒い観測フィールドの低い振動。遠くで鳴り続ける避難警報。X-MUの足音。仲間たちの声を模した偽物。
全部が重なって、どれが本物なのかわからなくなる。
《帰ってきなさい》
かなえの声が聞こえた。
その瞬間、ミユの足が止まった。
「ママ……?」
《帰ってきなさい》
《もう、そんなことやめなさい》
《あなたには無理よ》
《普通の子に戻りなさい》
「……違う」
プリティミューは、ゆっくり顔を上げた。
「ママは、そんな言い方しない」
真正面に、X-MUがいた。
白と黒の装甲。赤い観測コア。感情のない仮面のような目。ミュー・ハンマーに似た黒い武器を、まっすぐこちらへ向けている。
その背後では、壊れた看板の下敷きになりかけた女性を、さっきX-MUが安全な場所へ運んでいた。避難誘導用の柵は整然と並べ直され、転んだ子どもはすでに保護者の元へ返されている。
完璧だった。
腹が立つほど、完璧だった。
X-MUは、冷たい声で言った。
「支援音声への依存率、上昇」
「外部関係性による戦闘継続補正、検出」
「補正要素を遮断します」
「人の仲間を、補正要素って呼ぶな!」
プリティミューはハンマーを振り上げた。
だが、踏み込む直前、足元に黒い糸が走った。
蜘蛛男の拘束糸。
それを飛び越えようとした瞬間、耳の奥で蝙蝠伯爵の音波が鳴る。頭が揺れ、視界がぶれた。
次の瞬間、X-MUの黒い武器が横から来た。
「っ!」
プリティミューは咄嗟にハンマーで受けた。
金属音が広場に響く。
腕が痺れる。
重い。
自分と同じ動きをする相手に、過去の怪人たちの能力が最適なタイミングで重ねられている。
こちらの嫌なところを、全部知っている。
仲間を庇う癖も。
怒ると踏み込みが大きくなる癖も。
声に反応して足が止まる癖も。
X-MUは、そのすべてを無駄なく突いてくる。
「朝倉ミユ」
「戦闘継続は非合理です」
「あなたの代替機能は、すでに確立されています」
「代替って……!」
プリティミューは押し返そうとした。
だが、装甲の一部がまた白黒に染まりかけた。
腕の外装が、いつもの柔らかな白とピンクではなく、冷たい白と黒に浸食される。
μブレスレットが激しく赤く点滅した。
《警告:外部同期率、六十八パーセント》
《変身権限、上位観測プロトコルへ移行中》
「勝手に移行すんな!」
ミユは叫んだが、装甲の反応が鈍い。
自分の体なのに、自分の体ではないみたいだった。
ハンマーを握る手が、一瞬遅れる。
その隙を、X-MUは逃さなかった。
黒い武器の柄がプリティミューの腹部を打つ。
「がっ……!」
息が詰まった。
プリティミューは後ろへ吹き飛ばされ、駅前のタイルに転がった。砕けた街灯の破片が肩に当たり、白い火花が散る。
起き上がろうとする。
だが、また声が聞こえた。
《先輩、もう無理です》
《バイト君、そこで寝ていたまえ》
《ミユさん、抵抗は推奨されません》
《帰ってきなさい》
「……うるさい」
小さく呟く。
けれど、声は止まらない。
《逃げてください》
《譲渡してください》
《戦闘終了》
《不要です》
《不要です》
《不要です》
「うるさいって言ってんでしょ!」
プリティミューはハンマーを床に叩きつけた。
衝撃で、足元の黒い糸が切れる。
しかし、X-MUはもう目の前にいた。
「感情的反応」
「非効率」
「予測済み」
黒い武器が振り下ろされる。
プリティミューは受け止めた。
膝が沈む。
駅前広場の巨大ビジョンには、白黒のプリティミューと、本物のプリティミューが組み合う姿が大きく映し出されていた。避難している人々が、それを見てざわついている。
「あれ、どっちが本物?」
「ピンクの方じゃないの?」
「でも、黒い方の方が落ち着いてる」
「本物、負けてるの?」
聞きたくない言葉が、耳に入る。
聞こえてしまう。
ミユは奥歯を噛んだ。
負けている。
そう見えるだろう。
実際、押されている。
完璧な偽物に。
自分より自分の動きを知っている相手に。
自分よりヒーローらしく見える相手に。
アイン科学研究所では、警告音が鳴り続けていた。
壁一面のモニターに、駅前広場の映像、μシステムの同期率、X-MUの干渉波形、観測フィールドの構成図が並んでいる。
アインは端末に向かい、いつもの余裕を消した顔でキーを叩いていた。
「同期率、まだ上がるか……」
《アイン様、μシステムの上位観測権限が侵入しています》
ワトソンの声にも、わずかな乱れがあった。
《現在のままでは、ミユさんの変身権限がX-MUへ移行します》
《防壁を張っていますが、観測プロトコルの優先度が高すぎます》
「わかってる」
アインは、奥のモニターに視線を走らせた。
そこには、封印された古いファイルが開かれている。
《μ-SYSTEM/契約解除コード》
《使用条件:適合者本人の生命・人格維持を優先する場合》
《副作用:変身権限完全解除/再適合不可の可能性》
アインの指が、一瞬止まった。
ワトソンが言う。
《アイン様》
「切る」
《切れば、ミユさんは変身解除されます》
「その方がいい」
《X-MUは、現在のプリティミュー権限を奪おうとしています。解除すれば、X-MU側に優先権が移る可能性もあります》
「それでも、彼女をシステムごと取られるよりはましだ」
ワトソンは沈黙した。
アインは画面の中のミユを見た。
駅前広場の瓦礫の中で、彼女は必死に立とうとしている。文句を言いながら、怖がりながら、何度も押し返されながら、それでも立とうとしている。
最初は、ただの適合者だった。
高額バイトに釣られて、研究所へ来た高校生。
偶然、μシステムに適合した。
偶然、怪人に襲われた。
偶然、戦う羽目になった。
そう思っていた。
でも、それだけで済ませてきたのは、自分の都合だったのかもしれない。
「僕が始めた」
アインは、小さく言った。
《アイン様?》
「僕が、彼女を巻き込んだ」
声は静かだった。
けれど、そこには今までのアインにはなかった硬さがあった。
「危険性は説明した。報酬も提示した。契約書も作った。形式上は問題ない」
アインは自嘲するように笑った。
「でも、形式で済む話じゃなかった」
ワトソンは何も言わない。
アインは続けた。
「なら、降ろす権利も用意しておくべきだった」
「彼女が、自分でやめられる出口を」
アインは、通信回線を切り替えた。
X-MUの干渉で、通常回線はノイズだらけだ。ワトソンが補助防壁を張り、アインがわずかに開いた隙間へ、声をねじ込む。
《ミユ》
駅前広場で、プリティミューは動きを止めた。
X-MUの攻撃をハンマーで受けたまま、目を見開く。
「……今、名前で呼んだ?」
《契約解除コードを送る》
「は?」
《μシステムとの強制契約を切る。君はもう戦わなくていい》
「アイン?」
X-MUの武器が押し込まれる。
プリティミューは歯を食いしばり、膝をつきそうになるのを堪えた。
《これはバイトではない》
《危険手当で済む範囲を超えた》
「最初から超えてたけどね!」
《そうだ》
アインの声は、いつもの皮肉を含んでいなかった。
《だから、ここで終わりにしていい》
ミユは言葉を失った。
終わりにしていい。
その言葉は、思っていたより深く胸に落ちた。
高額バイトに釣られた日から、ずっと文句を言ってきた。
こんなの聞いてない。
時給に見合わない。
危険手当を出せ。
職場環境が終わっている。
普通の高校生に戻りたい。
その全部が、今、目の前に差し出されている。
やめていい。
降りていい。
もう戦わなくていい。
誰かが代わってくれる。
白黒の、完璧なプリティミューがいる。
その選択は、甘かった。
ミラクルハニーの蜜よりも、ずっと静かで、ずっと深く、心の奥に染み込んでくる甘さだった。
もう、走らなくていい。
もう、怖がらなくていい。
もう、倒れそうな腕でハンマーを持たなくていい。
X-MUが、静かに言う。
「朝倉ミユ」
「戦闘継続は非合理です」
「変身を解除し、役割を譲渡してください」
プリティミューは、息を吐いた。
ヘルメットの内側で、呼吸音が大きく響く。
「……役割ってさ」
声が震えていた。
「そんな簡単に、渡せるものなのかな」
アインが言う。
《ミユ》
《これは命令じゃない》
少しだけ間があった。
《君が選べ》
その言葉で、ミユは目を閉じた。
うるさかった偽物の声が、遠のく。
黒い観測フィールドの音も。
市民のざわめきも。
X-MUの冷たい声も。
全部が遠くなった。
その時、制服のポケットに入れたスマホが震えた。
変身中でも、μシステム越しに通知が視界の隅へ表示される。
送信者は、朝倉かなえ。
《今日は遅くなるの?》
続けて、もう一通。
《何をしているのか、今は聞かない》
そして、三通目。
《でも、帰ってきなさい》
ミユは、思わず笑った。
こんな時に。
こんな、世界が終わるみたいな観測フィールドの中で。
母のメッセージは、夕飯と門限の延長線上みたいな顔をして届く。
「……ママ、ほんと現実的」
その現実感が、胸の奥にあった何かを、静かにつなぎ止めた。
ヒーローかどうか。
完成しているかどうか。
ジョーカーに作られたのかどうか。
そんな大きすぎる問いの前に、自分はまず、朝倉ミユだった。
学校に行く。
寝不足で怒られる。
お腹が空く。
家に帰る。
ごはんを食べる。
母に「ただいま」と言う。
その全部があるから、ここに立っている。
ミユは、ゆっくり目を開けた。
「アイン」
《何だい》
「解除して」
アインは息を呑んだようだった。
でも、何も言わず、キーを押した。
《契約解除コード、送信》
μブレスレットが、短く白く光った。
次の瞬間、プリティミューの装甲がほどけていく。
白とピンクの光が、腕から、脚から、胸元から、花びらのように剥がれて消える。
ハンマーが光になって散る。
ヘルメットが消える。
駅前広場の瓦礫の中に、制服姿の朝倉ミユが立っていた。
冬の風が、直接頬に当たる。
膝が少し震えた。
変身していない体は、思ったより寒い。思ったより軽い。思ったより、頼りない。
周囲の人々がざわめく。
「あれ……」
「プリティミューが」
「女の子……?」
メグの声が、ノイズ混じりに届いた。
《先輩……?》
今度は本物だと、なぜかわかった。
ミユは小さく息を吐いた。
真正面で、X-MUがこちらを見下ろしている。
「プリティミュー権限、移行確認」
「原型個体、戦闘権限を喪失」
「これより、完成体が役割を継承します」
X-MUの胸部コアが赤く光る。
黒い観測フィールドが、白黒の装甲を照らした。
たしかに、今のミユには装甲がない。
ハンマーもない。
変身も解けた。
ただの高校生だ。
それでも。
ミユは俯いた。
足元に、μブレスレットの淡い光が残っている。
契約は切れた。
強制は終わった。
バイトとしての出勤も、実験協力者としての役割も、ここで一度終わった。
だからこそ。
ミユは、もう一度ブレスレットを握った。
「違う」
アインが通信で息を呑む。
《ミユ?》
ミユは顔を上げた。
目の前には、完璧なプリティミューを名乗る白黒の偽物。
後ろには、避難する人々。
遠くには、心配しているメグ。
研究所で、きっと画面を見つめているアインとワトソン。
家には、帰ってきなさいと言う母がいる。
そして、自分がいる。
怖い。
しんどい。
逃げたい。
でも。
「やめるかどうかを選べるなら」
ミユは、はっきり言った。
「続けるかどうかも、私が選ぶ」
X-MUが一歩踏み出す。
「権限移行完了済み」
「朝倉ミユに戦闘継続資格はありません」
「資格?」
ミユは笑った。
声は震えていた。
でも、笑えた。
「知らないよ、そんなの」
μブレスレットが、柔らかく光り始める。
赤い警告ではない。
黒い観測の光でもない。
いつもの白とピンク。
少しだけ不安定で、少しだけ温かい、ミユの光。
アインの声が、かすかに震えた。
《ミユ、待て。再適合できる保証は――》
「保証とか、今さらでしょ」
ミユは息を吸った。
駅前広場に、黒い風が吹く。
瓦礫が転がる。
白黒の完成体が、無言で構える。
ミユは叫んだ。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
光が走った。
今度の変身は、何かに引っ張られるような感覚ではなかった。
システムに呑まれるのでもない。
誰かに押しつけられるのでもない。
体の奥から、自分で手を伸ばして、光をつかむような感覚だった。
白い装甲が腕を包む。
ピンクのラインが胸元に走る。
ブーツが地面を踏みしめる。
ヘルメットが形を成し、視界に補助表示が戻る。
けれど、それはさっきまでの冷たい数字の列ではなかった。
心拍は高い。
筋疲労は限界近い。
心理負荷は危険域。
それでも、表示の端に、一行だけ新しい文字が浮かぶ。
《再適合確認》
《選択者:朝倉ミユ》
アインが、研究所で呟いた。
《再適合……いや、違う》
ワトソンが静かに続ける。
《ミユさんが、システムを選び直しました》
アインは、画面の中の彼女を見つめていた。
さっきまで奪われかけていた白とピンクの光が、今は黒い観測フィールドを押し返している。
駅前広場の瓦礫の中に、科学少女プリティミューが立っていた。
完璧ではない。
装甲には傷がある。
息も上がっている。
ハンマーを握る腕も、少し震えている。
でも、その光は、さっきよりずっと強く見えた。
プリティミューはハンマーを肩に担ぎ、X-MUを見据えた。
「お待たせ」
白黒の完成体は、無言で武器を構える。
プリティミューは、にっと笑った。
「ここからは、時給じゃなくて私の意思!」
その声が、黒い観測フィールドの中で、まっすぐ響いた。




