第3節 ― ジョーカー帝都支部、完成しないヒーロー
ジョーカー帝都支部の作戦司令室は、いつになく静かだった。
静かすぎるほどだった。
壁一面に並んだモニターには、ホウジュ区駅前広場の映像がいくつも映し出されている。黒い観測フィールドに覆われた街。避難する市民。倒れた標識。割れた駅前ビジョン。そして、その中央で向かい合う二人のプリティミュー。
一人は、白とピンクの装甲をまとった本物。
もう一人は、白と黒と赤に塗り分けられた、冷たい完成品。
最終観測体《X-MU》。
その姿が画面の中でミュー・ハンマーに似た黒い武器を振るうたび、別のモニターに数値が走った。
《反応速度比較》
《救助判断精度》
《心理負荷指数》
《自己否定反応》
《μシステム外部同期率》
赤い数値が、まるで心電図のように跳ねる。
その前に立つドクター・モルスは、息をするのも惜しいというように画面を見つめていた。
白衣の裾は乱れていない。黒い手袋の指先も、いつも通り清潔で、無駄な動きがない。だが、その瞳だけは違っていた。実験が成功に近づいている時の、抑えきれない熱がある。
「素晴らしい」
モルスは小さく呟いた。
「自己否定反応、適性喪失恐怖、役割剥奪への怒り。第十三段階にふさわしい負荷です」
画面の中で、プリティミューがX-MUの一撃を受け止めた。
だが、受け止めきれない。
白とピンクの装甲が火花を散らし、プリティミューの身体が駅前広場のタイルへ叩きつけられる。
モルスの口元が、かすかに上がった。
「いい。実にいい。自分よりも完成度の高い自分を前にした時、人間はまず怒り、次に疑い、最後に折れる」
「楽しそうだな、モルス」
低い声が室内を切った。
ゲル大佐だった。
彼は巨大モニターの少し後ろ、軍服めいた黒い制服の胸元に腕を組んで立っていた。顔には、いつもの不機嫌がある。だが今日は、それだけではなかった。
苛立ち。
警戒。
そして、薄い嫌悪。
その全部が、眉間の皺に集まっている。
「これはプリティミューを倒す作戦ではないな」
モルスは振り向かずに答えた。
「もちろん倒しますよ。必要であれば」
「必要であれば、だと?」
「はい」
モルスはようやく、ゆっくりとゲル大佐へ顔を向けた。
「今回の主目的は、彼女の自己定義です」
ゲル大佐の眉がさらに寄る。
「自己定義」
戦闘員42号が、資料を抱えたまま小さく首を傾げた。
「自己定義って、怪人作戦の用語なんですか」
「私に聞くな」
ゲル大佐は吐き捨てるように言った。
「最近の作戦は、作戦名から胃に悪い」
「はい。自分も、作戦資料を読んでいる途中で少し胃が重くなりました」
「貴様は資料を読んだだけだろう」
「大佐は毎回責任者ですから、もっと重いですね」
「慰めるな。余計に腹が立つ」
42号は慌てて口を閉じた。
モルスはそのやり取りを、ほとんど気にしていない。
彼にとって、この司令室にいる人間たちは、画面の中のプリティミューほど重要ではなかった。ゲル大佐でさえ、せいぜい「現場指揮官の反応サンプル」くらいの価値しかないように見える。
ゲル大佐はそれがわかっていた。
だからこそ、苛立ちが増す。
「モルス」
「はい」
「貴様は、あれを何と見ている」
ゲル大佐はモニターを顎で示した。
画面の中では、X-MUが避難し遅れた老人を抱えて安全圏へ移動させていた。動作は完璧だった。迷いがなく、無駄がなく、優しさの形式だけが整っている。
老人は助かった。
だが、助けたX-MUの顔は動かない。
笑わない。
息も乱れない。
モルスは、穏やかに答えた。
「完成形です」
「プリティミューのか」
「プリティミューという現象の、です」
「……現象」
「ええ。朝倉ミユという個体は、あくまで原型です。偶然適合し、偶然巻き込まれ、偶然戦い続けた。しかし、偶然から得られたデータを再構成すれば、より安定した運用が可能になる」
ゲル大佐の声が低くなった。
「人間を、運用と言うな」
「怪人も人間も、運用効率という観点では大きく変わりません」
「変わる」
即答だった。
モルスは、少しだけ目を細めた。
「大佐は、怪人を部下として扱いますからね」
「貴様は、素材として扱う」
「症例です」
「同じだ」
「違います。素材は使い切れば終わりですが、症例は記録として残ります」
「より悪いわ」
42号が小さく頷きかけて、ゲル大佐に睨まれ、姿勢を正した。
その時、司令室の照明が一段暗くなった。
空気が冷える。
巨大モニターの一つが、戦闘映像から黒い画面へ切り替わった。
赤いジョーカーの紋章。
そして、仮面のような影。
首領Xだった。
室内の全員が、反射的に姿勢を正す。
「ゲル大佐」
「はっ」
「観測を続けろ」
「承知しております」
ゲル大佐は一拍置いてから、言葉を続けた。
「ですが、確認させていただきたいことがあります」
42号が目だけで「今ですか」と訴える。
ゲル大佐は無視した。
首領Xは静かに言う。
「何だ」
「プリティミューを完成させる、というのはどういう意味でしょうか」
司令室の空気が、さらに重くなった。
モルスは興味深そうにゲル大佐を見る。
首領Xはすぐには答えなかった。
モニターの黒が、深くなる。
やがて、音声だけが落ちてきた。
「彼女は、怪人事件によって変化した」
「はい」
「最初の朝倉ミユは、逃げるだけだった。自分が助かることを優先し、状況に振り回され、怒鳴り、泣き、文句を言った」
モニターの端に、第1話の映像が浮かぶ。
廃施設で蜘蛛男から逃げ回るミユ。
転びかけ、叫び、半泣きになりながら、アインに文句を言っている姿。
「だが、彼女は変わった」
映像が切り替わる。
蝙蝠伯爵からメグを守るプリティミュー。
レイディスコーピオンの言葉に傷つきながらも立つプリティミュー。
ミラクルハニーに子どもであることを認めながら、母を助けに走るプリティミュー。
ゲッコウリーパーの死相を前に、「今、生きてる」と叫んだプリティミュー。
「彼女は、我々の怪人によって磨かれた」
ゲル大佐は、奥歯を噛んだ。
「それは、敵を育てているのではありませんか」
「そうとも言える」
首領Xは否定しなかった。
その肯定が、かえって不気味だった。
ゲル大佐の声が、わずかに荒くなる。
「首領X」
「何だ」
「ジョーカーは、何を作ろうとしているのですか」
一瞬、通信が沈黙した。
モルスの目が、わずかに輝く。
42号は完全に息を止めていた。
司令室のモニター群だけが、無言でプリティミューとX-MUの戦いを映し続けている。
やがて、首領Xが答えた。
「怪人とヒーローが、再び必要とされる世界だ」
ゲル大佐は、言葉を失った。
その言葉は、勝利宣言ではなかった。
世界征服でも、都市破壊でも、組織拡大でもない。
もっと根の深いものだった。
怪人がいて、ヒーローがいる。
人々が恐怖し、誰かが立ち上がり、戦いが必要とされる。
そういう構造そのものを、首領Xは求めている。
「……そのために、プリティミューを?」
「彼女は証明になる」
首領Xは言った。
「怪人が人を変える。恐怖が役割を生む。戦いが名前を作る。プリティミューは、その実例だ」
モルスが楽しげに続けた。
「つまり、プリティミューは実験対象であり、成果物でもある」
ゲル大佐は鋭く振り向いた。
「貴様……」
「大佐、怒る必要はありません。彼女はまだ壊しません」
「まだ、だと?」
「完成品は、壊すより観察した方が価値があります」
モルスの声は、心底から穏やかだった。
だからこそ、ゲル大佐の表情が険しくなる。
「モルス。貴様は、本当に人の神経を逆撫でする天才だな」
「ありがとうございます」
「褒めていない!」
モルスはまた画面へ向き直った。
そこでは、プリティミューがX-MUに押されている。
X-MUは、プリティミューのハンマーを紙一重で避け、黒い武器の柄で脇腹を打った。
プリティミューが苦しげに膝をつく。
だが、その背後で逃げ遅れた子どもが転びそうになった瞬間、彼女は自分の姿勢を崩してまで手を伸ばした。
子どもを庇う。
そのせいで、X-MUの追撃をまともに受ける。
モニターに警告が走る。
《防御遅延》
《救助優先による被弾》
《非効率行動》
モルスは楽しげにその数値を見た。
「これです」
「何がだ」
「非効率。矛盾。感情による判断の乱れ。完成体には不要なものですが、朝倉ミユには強く残っている」
モルスは黒い手袋の指で、プリティミューの映像をなぞった。
「彼女は完成しない」
「ならば失敗作か」
「いいえ」
モルスは微笑んだ。
「完成しないことを選ぶなら、それはさらに興味深い」
ゲル大佐は、机の上の胃薬へ手を伸ばした。
瓶を取る。
軽い。
振る。
音がしない。
空だった。
ゲル大佐のこめかみに、青筋が浮かぶ。
「42号」
「はい」
「胃薬を買ってこい」
「通常サイズで?」
「業務用を箱で持ってこい!」
「了解しました!」
42号は資料を抱えたまま走り出しかけたが、途中で振り返った。
「大佐、メーカー指定はありますか」
「何でもいい!」
「了解です!」
今度こそ42号が飛び出していく。
自動扉が閉まると同時に、モルスが別の端末へ指を滑らせた。
「さて」
彼の声は、また実験室の温度に戻っていた。
「プリティミュー本人への負荷は十分。次は、彼女の支えを切りましょう」
ゲル大佐が振り返る。
「何をする気だ」
「戦闘単体では、自己定義は完全には崩れません。彼女は、周囲との関係によって自分を保っている」
モニターが切り替わる。
ホウジュ区の地図が映し出された。
赤い点が、次々と表示される。
《佐々木メグ》
《アイン科学研究所》
《WATSON》
《朝倉かなえ》
《コブラカレー》
ゲル大佐の表情が変わった。
「モルス」
「はい」
「支援者を巻き込むな」
「すでに巻き込まれています」
「そういう意味ではない」
モルスは平然と答えた。
「メグさんの記録。アイン君のμシステム制御。ワトソンの防壁。朝倉かなえの心理的帰還点。コブラカレー店主の不明な介入履歴。どれも、プリティミューの自己定義を支える要素です」
「だから切る、か」
「はい」
モルスは楽しそうに笑った。
「支えを失った時、彼女がなお自分で立つのか。それとも、完成体へ役割を譲るのか。見なければわかりません」
ゲル大佐は一歩踏み出した。
「やりすぎるな」
モルスは振り向いた。
その顔には、やはり薄い笑みがある。
「大佐」
「何だ」
「やりすぎなければ、限界は測れません」
ゲル大佐の拳が震えた。
だが、首領Xの通信はまだ切れていない。
黒い画面の向こうから、静かな声が落ちる。
「続行せよ」
ゲル大佐は、押し殺した声で答えた。
「……承知しました」
モルスは端末へ最終命令を入力した。
《X-MU追加指令》
《支援者遮断プロトコル開始》
《対象:記録者/開発者/補助AI/家族/不明介入者》
モニターの中で、X-MUの胸部観測コアが赤く光った。
駅前広場のプリティミューは、その変化にまだ気づいていない。
モルスは、愛おしげに画面を見上げた。
「さあ、プリティミュー」
「君は、誰に支えられて自分でいられるのか」
黒い観測フィールドが、ホウジュ区の空でさらに濃くなっていった。




