第1節 ― 最終観測実験、開始
翌日の教室は、いつも通りだった。
少なくとも、見た目だけは。
窓の外には冬の薄い日差しが差していて、校庭では体育の授業を受ける生徒たちの声が聞こえている。黒板には数学の公式が並び、教室の前では教師がチョークを手に、淡々と説明を続けていた。
白い粉が落ちる音。
ページをめくる音。
誰かがシャープペンを落として、慌てて拾う音。
それら全部が、ひどく普通だった。
普通すぎて、朝倉ミユは逆に落ち着かなかった。
「……」
ノートの上で、シャープペンの先が止まっている。
本来なら、そこには授業の板書が写されているはずだった。
けれど実際には、半分だけ写した公式の横に、妙な落書きが増えていた。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
レイディスコーピオン。
サラセニア・ルージュ。
マンティスシザー。
カメ・レオン。
ミラクルハニー。
グレイヴコンドル。
ゲッコウリーパー。
リザードジェネラル。
復活怪人軍団。
そして、その下に小さく書かれた言葉。
――私、育てられてるみたいじゃん。
昨日、自分で口にした言葉だった。
軽口のつもりだった。
いつものように、嫌な予感をごまかすための、雑な冗談のつもりだった。
でも、言葉は軽くなかった。
口から出た瞬間から、ずっと胸の奥に引っかかっている。
ジョーカーが怪人を出す。
プリティミューが戦う。
怖がって、怒って、文句を言って、転びそうになりながら、それでも立つ。
そうやって、少しずつ戦えるようになってきた。
守りたいものも増えた。
メグを守りたい。
ママを守りたい。
アインやワトソンの無茶な研究所も、なんだかんだで壊されたくない。
コブラカレーも、あの店のカレーも、守りたい。
その全部が、ジョーカーの事件で生まれたものだとしたら。
自分は、何なのだろう。
ヒーローになったのか。
ヒーローにされたのか。
それとも、ただ、怪人事件に都合よく反応する生き物に変えられているだけなのか。
「朝倉」
「はいっ!」
ミユは反射的に立ち上がった。
椅子が床をこすって、大きな音を立てる。
教室中の視線が、一斉にこちらへ向いた。
教師が少し眉を上げる。
「……そこ、答えられるか?」
「えっ、そこ」
ミユは黒板を見る。
数字。
文字。
記号。
全部、今この瞬間、異世界の暗号に見えた。
「えっと……」
ミユはノートを見る。
そこには、数学ではなく怪人名が並んでいる。
隣の席から、小さく紙が滑ってきた。
メグの字だった。
《三番です》
「三番です!」
「……選択問題ではない」
「ですよね!」
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
教師はため息をつきつつも、それ以上追及しなかった。
「座っていい。昨日から顔色が悪いぞ。寝不足か」
「はい。いえ。寝てます。たぶん」
「たぶんで答えるな」
「すみません……」
ミユは椅子に沈み込むように座った。
机に頬杖をつくと、身体の節々がじんわり痛む。
昨日のリザレクション・ステージでの戦闘の疲れが、まだ抜けていない。
復活怪人軍団。
本物ではないとわかっていた。
わかっていても、見た目が同じで、声が似ていて、技だけが残っていて、それが全部、自分に向かってきた。
殴ったのは過去ではない。
今、勝手に動かされているものを止めただけだ。
そう言った。
そう思った。
でも、身体は正直だった。
終わったはずの敵を、もう一度倒すのは、きつかった。
昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、ミユは机に突っ伏した。
「先輩」
すぐ隣から、佐々木メグの声がした。
「寝てください」
「寝てるよ」
「目を開けたまま寝てました」
「それはもう特殊技能じゃん」
「特殊技能ではなく、危険信号です」
「メグちゃん、昼休みに正論で殴らないで」
ミユは顔だけを横へ向ける。
メグは弁当箱を机に置きながら、心配そうにこちらを見ていた。目元に少しだけ疲れがある。昨日の事件で、メグも相当無理をしたはずだった。
それでも、彼女は端末を手放していない。
怪人事件ログの管理画面が、昼休みの教室の机の上に、当たり前のように開かれている。
「メグちゃんこそ、ちゃんと寝た?」
「四時間は寝ました」
「少なっ」
「先輩よりは多いです」
「比較対象が低すぎる!」
ミユは起き上がり、購買で買ったパンの袋を開ける。
袋の端をうまく破れず、ぐしゃっと潰した。
「……なんか、手に力入んない」
「筋疲労ですね」
「メグちゃんが保健室の先生みたいになってる」
「昨日の戦闘ログを見る限り、先輩の疲労はかなり蓄積しています。今日は本当に休んだ方がいいです」
「今日は怪人出ないといいなあ」
言った瞬間、自分でも嫌な予感がした。
ミユとメグは、同時に黙る。
沈黙が、昼休みの騒がしさの中で妙に重く落ちた。
数秒後。
ミユのμブレスレットが、小さく震えた。
「……」
「……先輩」
「今のなし。フラグ立ててない。私は何も言ってない」
ブレスレットの震えは止まらない。
ミユは机の下でそっと手首を見る。
普段はただのアクセサリーのように見えるそれが、内側から白く点滅していた。
直後、耳元にアインの通信が入る。
《バイト君》
「昼休み中にその呼び方やめて。今、現実社会」
《今日は怪人反応がない》
ミユは一瞬、肩の力を抜いた。
「じゃあ休みでいい?」
《怪人反応はないが、μシステムに外部アクセスがある》
「休みじゃない言い方!」
メグが表情を変える。
「外部アクセス?」
《そうだ。ジョーカー側からではあるが、通常の怪人反応とは違う。μシステムそのものに干渉している》
「つまり?」
《君の変身システムが、誰かにのぞかれている》
「個人情報保護法に引っかかれ!」
《相手が法律を守る組織なら苦労はしない》
「それはそうだけど!」
ミユの視界に、突然、半透明の文字が浮かんだ。
教室の景色の上に、白い文字が重なる。
《最終観測実験》
《プリティミュー適性臨界測定》
《被験体:朝倉ミユ》
《観測開始》
ミユの手から、パンが落ちた。
袋ごと机に転がり、かさりと音を立てる。
「……被験体って出たんだけど」
《最悪だね》
「冷静に最悪って言わないで!」
ミユは思わず立ち上がりかけた。
その瞬間、教室中のスマホが一斉に鳴った。
通知音。
動画の自動再生音。
誰かの驚く声。
「え、何これ」
「プリティミュー?」
「うわ、駅前ビジョンも同じの流れてるって」
「これ、前の怪人事件の映像じゃない?」
教室の空気が一瞬で変わった。
昼休みのざわめきが、不安のざわめきに変わる。
生徒たちがスマホを覗き込み、何人かが窓際へ駆け寄った。
ミユも、メグの端末を見る。
画面には、プリティミューの戦闘映像が流れていた。
蜘蛛男との初戦。
廃劇場での蝙蝠伯爵戦。
駅前でのレイディスコーピオン。
偽装された体育館。
ロイヤル・ナーサリー。
ロイヤルムーン記念病院跡。
地下量産ライン。
リザレクション・ステージ。
映像は、どれも実際の戦闘だった。
ミユにはわかる。
自分が転びかけた瞬間。
泣きそうになった瞬間。
ハンマーを握り直した瞬間。
助けたいと思って飛び込んだ瞬間。
全部、本当にあったことだ。
けれど、編集が違った。
映像の合間に、冷たい文字が挟まれる。
《プリティミュー成長記録》
《恐怖反応から戦闘適応へ》
《救助行動の拡張》
《敵性刺激による正義感形成》
《ジョーカー怪人作戦によるヒーロー適性誘導》
ミユの喉が、乾く。
「なに、これ……」
画面の中で、プリティミューが怪人を倒す。
次の映像で、別の怪人に苦戦する。
その次で、前よりうまく戦う。
さらに次で、市民を助ける。
映像だけ見れば、確かにそう見える。
怪人が出るたびに、プリティミューは強くなった。
怪人事件があるたびに、プリティミューはヒーローらしくなった。
その切り取り方が、あまりにも嫌だった。
「プリティミューって、ジョーカーが作ったの?」
教室のどこかで、誰かが言った。
「え、じゃあ怪人とグルってこと?」
「でも、助けてくれてたじゃん」
「それも演出とか?」
「いや、さすがにそれはないでしょ」
「でも映像、マジっぽくない?」
ミユの指先が冷たくなった。
違う。
違う、と言いたかった。
でも、声が出ない。
嘘だけなら怒れた。
全部捏造なら、ふざけるなと叫べた。
でも、そこに映っている自分は、本当に自分だった。
怖がって、怒って、戦って、変わっていった自分だった。
メグが端末を握りしめる。
「悪質です」
いつもより低い声だった。
「映像そのものは本物に近い。でも、文脈が変えられています」
「マンティスシザーの時みたいなやつ?」
「はい。ただし、今回はもっと大規模です。街全体に向けて流されています」
窓の外から、校庭の生徒たちの声が聞こえた。
遠くの駅前ビジョンにも、同じ映像が映っているのが見える。
白とピンクのヒーロー。
その横に並ぶ、冷たい文字。
《ジョーカーがいなければ、プリティミューは存在しなかった》
ミユは唇を噛んだ。
「……勝手に」
画面が暗転する。
次に映ったのは、黒い仮面のようなマークだった。
ジョーカー。
その中央に、首領Xの影が浮かぶ。
《プリティミュー》
声は、街中のスピーカーからも、スマホからも、教室の端末からも、同時に聞こえた。
《君は、我々の観測によって成長した》
ミユの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
《恐怖を与えた》
《怒りを与えた》
《守る対象を与えた》
《選択を与えた》
《そして君は、そのたびに変化した》
教室が静まり返っていた。
誰も笑っていない。
誰も冗談を言わない。
首領Xの声だけが、妙に落ち着いて響いている。
《では、最後に問おう》
《君は、本当に自分の意思でヒーローになったのか》
ミユは、画面の中の影を睨んだ。
怒りより先に、怖さが来た。
その問いは、昨日からずっと自分の中にあったものだった。
私、育てられてるみたいじゃん。
誰かに言われる前に、自分で気づいてしまっていた。
だからこそ、刺さった。
ミユは机の縁を握る。
指先に力が入らない。
それでも、言葉だけは絞り出した。
「……勝手に」
声は小さかった。
けれど、メグには聞こえた。
ミユは画面を睨み続ける。
「勝手に、人の人生を番組みたいに編集すんな」
その瞬間、ホウジュ区全域に、低い振動が走った。
校舎の窓ガラスが震える。
遠くで、誰かの悲鳴が上がった。
空が暗くなる。
雲ではなかった。
黒い半透明の膜のようなものが、ホウジュ区の上空に広がっていく。
駅前から、商店街へ。
学校の上へ。
住宅街へ。
アイン科学研究所の方向まで。
巨大なドーム状の観測フィールドが、街を包み込んでいく。
ミユの耳元で、アインの声が鋭くなる。
《バイト君、街全体が実験場になった》
「街を丸ごと実験室にするなって、何回言えばわかるの!」
ミユは廊下へ飛び出した。
メグも端末を抱えて続く。
「先輩、駅前に高エネルギー反応!」
「怪人?」
「違います。怪人反応じゃありません。でも、ジョーカー反応です!」
「その分類、増やさないでほしい!」
階段を駆け下りる途中で、ミユのスマホが震えた。
かなえからだった。
《駅前の映像、見たわ》
《学校にいるの?》
《無理しないで》
その短い文章を見た瞬間、ミユは胸の奥が少しだけ痛くなった。
無理しないで。
それが一番難しい。
ミユは返信しようとして、指を止めた。
今、何を書けばいいかわからない。
大丈夫。
嘘になる。
危ないことはしてない。
もっと嘘になる。
すぐ帰る。
約束できない。
ミユは、画面を閉じた。
「あとで……ちゃんと返す」
自分に言い聞かせるように呟く。
校門を出ると、街の空気はもう変わっていた。
人々が空を見上げている。
駅前の方角から、避難を呼びかける音声が聞こえる。
だが、その声は警察でも消防でもなかった。
落ち着いた、聞き覚えのある声。
プリティミューの声に似ていた。
「え……?」
ミユは走りながら、駅前ビジョンを見た。
そこに映っていたのは、白と黒のプリティミューだった。
白とピンクではない。
白。
黒。
赤。
冷たい配色の装甲。
目元は仮面のように滑らかで、表情がない。
胸には、赤く光るジョーカーの観測コア。
手には、ミュー・ハンマーに似た武器。
けれど、それはハンマーというより、刃のついた処刑器具のように見えた。
駅前広場で倒れた看板を持ち上げ、下敷きになりかけていた市民を救い出す。
転ばない。
迷わない。
無駄がない。
子どもを抱えて安全圏へ運び、高齢者を誘導し、パニックになった人へ正確な声をかける。
「こちらへ避難してください」
「落ち着いてください」
「あなたの安全を確認しました」
その動きは、完璧だった。
完璧すぎて、気持ち悪かった。
近くの人々がざわめく。
「あれ、プリティミュー?」
「でも色が違う」
「なんか、いつもよりちゃんとしてない?」
「本物って、もっと騒がしくなかった?」
「でも助けてくれてるし……」
ミユは、立ち止まった。
息が荒い。
まだ変身もしていないのに、胸が苦しい。
メグが隣で端末を構える。
「先輩、あれは……」
答えは、通信より先に来た。
街中のスピーカーから、ドクター・モルスの楽しげな声が響く。
《ご覧ください、プリティミュー》
白黒のプリティミューが、ゆっくりと顔を上げる。
画面越しではなく、駅前広場の向こうから。
まっすぐに、ミユを見た。
《完成されたプリティミューです》
ミユは、手首のμブレスレットを握りしめた。
指先が震えている。
怖いのか。
怒っているのか。
それとも、自分よりずっとヒーローらしいものを見せつけられて、傷ついているのか。
自分でもわからなかった。
ただ、ひとつだけわかることがあった。
あれを、このまま街に立たせておくわけにはいかない。
ミユは小さく息を吸う。
駅前広場に、白黒のヒーローが立っている。
街全体が、ジョーカーの観測フィールドに包まれている。
市民の視線が、画面が、空が、自分を見ている。
ミユは、吐き捨てるように言った。
「……完璧な私とか」
μブレスレットが光る。
「気持ち悪すぎるでしょ」
そして、朝倉ミユは駅前へ走り出した。




