第4節 ― 思い出の場所が、戦場になる
ホウジュ区駅前広場は、夕方の光と人の声で満ちていた。
改札から吐き出される学生。買い物袋を提げた主婦。イヤホンをつけた会社員。駅前ビジョンの下で待ち合わせをする若者たち。
ついこのあいだまで、そこはミユにとって、ただの駅前だった。
学校帰りにメグと通った場所。
プリティミューの動画が流れて、知らない誰かに笑われた場所。
レイディスコーピオンの毒が、言葉の形をして街にばらまかれた場所。
終わったはずの場所だった。
けれど、駅前ビジョンが突然、ざらついた赤い光に染まった。
ノイズが走る。
映像が乱れる。
そして、画面いっぱいに、かつて流された悪意ある投稿が映し出された。
《プリティミュー、調子乗ってる》
《正義の味方って言うなら顔出せば?》
《あの子、けっこう口悪いよね》
《怪人より怖いかも》
古いコメント。
もう消えたはずの言葉。
見ないようにしていた記憶。
それが、腐った水底から泡のように、もう一度浮かび上がってくる。
ミユの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……また、それ」
広場の中央、噴水跡の前に、赤黒い影が立っていた。
細い脚。
鋭い尾。
女王のように高く掲げられた毒針。
レイディスコーピオン。
いや、違う。
姿は似ていた。
赤と黒の毒々しい装甲も、蠍の尾も、挑発的な立ち姿も、たしかに似ている。
けれど、違う。
本物のレイディスコーピオンは、もっと嫌な笑い方をした。
腹が立つくらい言葉が鋭かった。
相手の弱いところを見つける目を持っていた。
目の前のそれには、目がなかった。
あるのは、記録された悪意を再生するための、赤い光だけだった。
「刺す」
「悪意」
「言葉」
「プリティミュー」
単語が、ばらばらに落ちる。
ミユは奥歯を噛んだ。
「あいつは嫌なやつだったけど」
ミュー・ハンマーを握る手に力が入る。
「こんな雑な喋り方じゃなかった!」
レイディスコーピオン復元体が尾を振った。
空気が裂ける。
毒針から赤い粒子が飛び、駅前ビジョンに映るコメントが増殖する。
《また暴れるの?》
《駅前で戦うなよ》
《迷惑》
《ヒーローなら全部守れよ》
「うるさい!」
ミユは走った。
白とピンクの装甲が夕暮れの駅前を横切る。
噴水跡を蹴り、低く跳ぶ。
振り下ろしたハンマーが、レイディスコーピオン復元体の尾を弾いた。
金属音。
赤い火花。
毒の粒子が霧のように散る。
通行人の悲鳴が上がった。
「みんな、広場から離れて! 駅の中じゃなくて、横断歩道の向こう! メグちゃん、誘導!」
《もう始めています!》
イヤーカフ越しに、メグの声が返る。
《怪人事件ログに避難経路を出しました。駅員さんにも匿名で通知済みです。ただ、別地点からも反応があります》
「別地点?」
《旧美容サロン跡、サラセニア・ルージュ反応。宝珠南高校付近、マンティスシザー反応。朝倉家周辺、ミラクルハニー反応》
「は?」
ミユの声が裏返った。
その隙を、レイディスコーピオン復元体は逃さなかった。
尾がしなり、ハンマーを握る腕を狙う。
「プリティ」
「弱点」
「切り取り」
「母」
「言葉のつなぎ方が下手すぎる!」
ミユは横へ転がった。
地面に肩を打ち、息が詰まる。
痛い。
けれど、止まっている暇はない。
駅前ビジョンの端に、別の映像が割り込む。
薄暗い美容サロン跡。
赤紫の花。
揺れる蔓。
サラセニア・ルージュ復元体が、甘い香気を撒いている。
画面が切り替わる。
宝珠南高校の校門。
校内放送用のスピーカーから、ぶつ切りの音声が流れる。
《危険人物は――朝倉――プリティ――隠して――》
マンティスシザー復元体。
さらに、別の通知。
朝倉家付近。
蜂蜜色の光。
《ミラクルハニー反応、確認》
ワトソンの声が、いつもより硬かった。
《かなえさんの自宅周辺に、ハニーワーカー型の反応があります。私が向かいます》
「ワトソン、ママお願い!」
《承知しました》
ミユは立ち上がった。
駅前。
学校。
家。
旧サロン跡。
全部、知っている場所だった。
ただの背景ではない。
自分が傷ついた場所。
誰かを助けた場所。
怖かった場所。
少しだけ強くなった場所。
それが今、戦場に戻されている。
「無理! 普通に無理! 手が足りない!」
《全部に行くな》
アインの声が割り込んだ。
《相手はキミを分散させるつもりだ。反応地点のすべてに走れば、消耗するだけだ》
「じゃあどうすればいいの!」
《支援を使え》
「使ってる!」
《もっと使え。キミひとりで抱えるな》
ミユは一瞬、黙った。
その言葉が、胸の変なところに刺さる。
ひとりで抱えるな。
言われていることは正しい。
けれど、駅前で毒を撒く復元体を前にしている今、学校にも、家にも、あの甘い香気の場所にも行けない自分が、ひどく役立たずに思えた。
その間にも、レイディスコーピオン復元体は尾を振る。
「悪意」
「拡散」
「観測」
「プリティミュー」
「だから、単語帳みたいに喋るな!」
ミユはハンマーを振り抜いた。
赤い尾が砕ける。
復元体の身体が大きく揺らぐ。
本物ではない。
だから、動きは単調だ。
だから、倒せる。
倒せるのに、気持ちが悪い。
まるで、かつて戦った相手の皮だけを着せられた人形を叩いているようだった。
《先輩、駅前広場の避難は進んでいます。今なら撃破できます》
「了解!」
ミユは地面を蹴った。
復元体が毒針を掲げる。
駅前ビジョンに、再び赤いコメントが走る。
《プリティミューは迷惑》
《ヒーローごっこ》
《全部守れないならやめろ》
ミユは、その画面を見なかった。
「全部は守れないかもしれないけど」
ハンマーが光る。
「今ここで、毒を撒いてるあんたは止める!」
叩きつけた一撃が、レイディスコーピオン復元体の胸部を砕いた。
赤い粒子が散る。
駅前ビジョンの悪意ある文字が、ノイズとともに消えていく。
広場に、ほんの少しだけ静けさが戻った。
だが、ミユが息を吐くより早く、次の通知が鳴った。
《朝倉家周辺、ミラクルハニー復元体と接触しました》
「ワトソン!?」
《かなえさんは無事です。ですが、敵は若返り蜜の散布準備をしています》
さらにメグ。
《宝珠南高校付近、マンティスシザー復元体が校内放送に干渉中。アインさんが通信妨害を入れていますが、長くは持ちません》
さらに別の反応。
《旧美容サロン跡、サラセニア・ルージュ反応拡大。周辺住民が香気を吸っています》
ミユは、駅前広場の真ん中で立ち尽くした。
どこへ行く。
どこを捨てる。
誰を先に助ける。
そんな選択肢ばかりが、視界の中に並んでいく。
その時、スマホが震えた。
画面には、短いメッセージ。
《店に来い。三分でいい》
差出人は、コブラカレー。
ミユは思わず叫んだ。
「この状況でカレー!?」
《先輩》
メグの声が返る。
《でも、コブラさんがそう言う時は、大体重要です》
「それがもう嫌!」
ミユは駅前広場を一度だけ振り返った。
避難は進んでいる。
レイディスコーピオン復元体は沈黙している。
次に走るなら、今しかない。
「三分だけだからね!」
プリティミューは、ホウジュ区の路地へ走った。
*
コブラカレーは、いつもと違っていた。
店頭の照明は落とされている。
入口には「準備中」の札。
スパイスの香りはするのに、客の声がない。
シャッターは半分だけ下りていた。
ミユとメグが裏口から入ると、コブラは厨房に立っていた。
白い湯気の向こうで、鍋をかき混ぜている。
その背中は、いつものカレー屋のおじさんに見えた。
けれど、店内の空気は違った。
まるで、戦場に行く前の作戦室みたいだった。
「来たか」
「来たけど! 三分で何!?」
「座れ」
「いや、今そういう場合じゃ――」
「座れ。立ったままじゃ、頭が走りすぎる」
コブラの声は低かった。
ふざけていなかった。
ミユは反射的に言い返そうとして、やめた。
メグも黙って椅子に座る。
コブラは、二人の前に小さな器を置いた。
カレーではない。
スパイスの効いた、熱いスープだった。
「飲め」
「だから、今――」
「手が震えてるぞ」
ミユは、自分の手を見た。
ミュー・ハンマーを握っていた指が、かすかに震えている。
力を入れすぎて、関節が白くなっていた。
「……別に」
「別にで戦えるなら、怪人なんざ最初から出てこねえ」
コブラは、鍋の火を少し弱めた。
「復活怪人が出たな」
ミユは顔を上げた。
「おじさん、知ってたの?」
「昔、似たようなことをやろうとした馬鹿がいた」
「ジョーカーで?」
「カレー屋の昔話だ」
「もうそれ通じないって!」
ミユの声が大きくなる。
けれど、コブラは笑わなかった。
それだけで、ミユの胸の奥が冷えた。
コブラは、ゆっくりと言った。
「あれは本物じゃねえ」
「わかってる」
「わかってるだけじゃ足りねえ」
ミユは言葉を詰まらせた。
コブラは、厨房から出てきた。
照明の影が、彼の顔に深い線を作る。
「姿が似てる。声が似てる。昔の言葉を言う。昔の技を使う。だから、お前は迷う」
「……」
「でもな、本物じゃねえ相手に、本物みたいな返事を求めると、こっちが削れる」
メグが、小さく息を呑んだ。
ミユは器の中のスープを見つめた。
蝙蝠伯爵復元体。
レイディスコーピオン復元体。
言葉だけ、声だけ、技だけ。
中身のない、復元された何か。
それでも、見れば思い出してしまう。
怖かったこと。
腹が立ったこと。
助けられなかったかもしれない瞬間。
ぎりぎりで勝った時の、体の痛み。
モルスは、それをわかっていて、街に戻している。
「本物だったやつらは、もう倒された」
コブラは言った。
「終わったんだ」
その言葉は、冷たくはなかった。
むしろ、妙に重かった。
「なら、今出てきてるのは、終わりを踏みにじってるやつだ」
コブラの目が、鋭くなる。
「だから、ちゃんと終わらせろ」
ミユは、スープの器を両手で包んだ。
熱い。
指先が、少しだけ戻ってくる。
「……わかった」
その時だった。
店の外で、羽音がした。
鳥の羽音ではない。
乾いた紙を何十枚もまとめて裂くような、嫌な音。
コブラの目が、すっと細くなった。
シャッターの隙間から、黒い羽根が一枚、店内へ滑り込んでくる。
それは床に落ちる前に、ふわりと浮いた。
そして、影のように形を変える。
「死骸は、再び飛ぶ」
「墓場は、閉じない」
店の外。
半分下りたシャッターの向こうに、黒い翼が広がっていた。
グレイヴコンドル復元体。
本物より輪郭が薄い。
黒羽根の艶もない。
声も、どこか録音をつなぎ合わせたように途切れている。
けれど、その姿は確かに、ミユが一度終わらせたはずの墓荒らしだった。
コブラが低く言った。
「店の前で墓場の話をするな」
ミユは椅子から立ち上がる。
「コブラさん、下がって」
「店を壊すなよ」
「怪人に言って!」
ミユはμブレスレットを掲げた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
白とピンクの光が、薄暗い店内を一気に照らす。
鍋の湯気が光を受けて、きらきらと揺れた。
科学少女プリティミューが、裏口から外へ飛び出す。
グレイヴコンドル復元体は、店の前の電線にとまるように浮いていた。
翼を開く。
黒羽根が降る。
羽根が地面に刺さるたび、過去怪人の反応が薄く浮かび上がった。
蜘蛛糸。
赤い毒。
甘い香気。
切り裂かれた映像片。
蜜の粒子。
白い月光。
「また全部盛り!?」
《本物ほどの回収機能はありません》
アインが通信で言った。
《だが、周辺の復元体反応を呼び寄せる中継点になっている。放置すると厄介だ》
「放置しない!」
プリティミューはハンマーを振った。
黒羽根が砕ける。
だが、砕けた羽根から別の羽根が生まれる。
空気が重い。
復元体そのものは、強くない。
それでも、何度も何度も、終わったはずの反応が周囲に染み出してくる。
プリティミューは一歩踏み込もうとして、足を止めた。
店の窓。
その向こうに、コブラがいた。
コブラは鍋の前に立ち、換気扇のスイッチを入れた。
厨房の奥から、強いスパイスの煙が噴き上がる。
換気ダクトを逆流した煙が、店の前へ一気に流れ出した。
「うわっ、辛っ!」
プリティミューが思わず目を細める。
黒羽根が、その煙の中で軌道を乱した。
スパイスの粒子が羽根にまとわりつき、浮遊の制御を狂わせている。
「またカレー支援!?」
コブラの声が店内から飛ぶ。
「使えるもんは使え!」
「便利すぎるでしょ、カレー!」
メグが端末を操作しながら叫ぶ。
「先輩、今なら羽根の中継反応が落ちています!」
「了解!」
プリティミューは走った。
黒羽根の雨をくぐる。
スパイスの煙で視界がにじむ。
鼻がつんとする。
けれど、足は止まらない。
「墓場は閉じない」
「死骸は飛ぶ」
「再び」
「再び」
「閉じろ!」
プリティミューは跳んだ。
「もう終わったやつらを、何度も引っ張り出すな!」
ミュー・ハンマーが、グレイヴコンドル復元体の胸を叩く。
黒い装甲が割れた。
翼が崩れる。
復元体の輪郭が、砂のようにほどけていく。
最後に残ったのは、一枚の黒羽根だった。
それは地面に落ちず、くるくると回りながら、ある方角を指し示した。
メグがすぐに地図を開く。
「先輩、この羽根、地下を指しています」
「また地下!?」
「第11話の地下物流ターミナル跡より、さらに奥です」
「地下に地下を重ねないでほしい!」
メグの顔色が変わった。
「旧ジョーカー実験区画……現在は存在しないことになっています」
コブラが、厨房の中で低く呟いた。
「リザレクション・ステージ……まだ残ってやがったのか」
ミユは振り返る。
「おじさん、今の何?」
コブラは少しだけ黙った。
鍋の火が、静かに音を立てる。
やがて、彼は言った。
「行けばわかる」
「そういうのが一番怖いんだけど!」
黒羽根は、まだ地面の上で震えていた。
まるで、ホウジュ区の地下深くに眠っている何かが、こちらを呼んでいるみたいに。
プリティミューは、ハンマーを握り直した。
「……行くしかないんでしょ」
コブラは答えない。
ただ、いつものように鍋をかき混ぜるだけだった。




