第2節 ― 復活怪人は、本人じゃない
廃劇場跡は、昼間に見ると、夜よりもずっとみすぼらしかった。
以前、蝙蝠伯爵と戦った時は、夜の闇と照明の残骸と、怪人の芝居がかった気配のせいで、そこはまだ“劇場”だった。
朽ちた舞台にも、破れた緞帳にも、埃をかぶった客席にも、どこか悪夢の舞台装置めいた迫力があった。
けれど、昼の光は容赦がない。
割れた窓から差し込む白っぽい陽射しは、汚れた床をただ汚れた床として照らし、客席のシートに積もった埃を、ただの埃として浮かび上がらせていた。
壁には、古い公演ポスターが半分だけ残っている。
顔の部分だけ破れた役者。
色褪せた文字。
雨漏りの跡。
錆びた照明器具。
天井からは、壊れたスポットライトが一本、首を吊るように垂れ下がっていた。
「……昼に来ると、逆に怖いね」
ミユは、入口の割れたガラスを避けながらつぶやいた。
制服の上に羽織った薄手のパーカーのポケットに、手を突っ込んでいる。いつでもμブレスレットに触れられるようにしているのを、メグは気づいていた。
「夜の方が演出でごまかされていましたね」
メグはスマホを構え、劇場内をゆっくり撮影している。
その横では、人間アバターのワトソンが、無表情に床の粉塵を採取していた。黒い髪の少年の姿でしゃがみこみ、小さな分析キットを広げる様子は、場所が場所なら理科の自由研究に見えなくもない。
「ここ、前より荒れてませんか?」
メグが言った。
「前に暴れた人に心当たりがありすぎて、何も言えない」
「先輩と蝙蝠伯爵ですね」
「伯爵もハンマーで殴られる前提の劇場選んだのが悪い」
《責任分配としては、バイト君側にもかなりあると思う》
通信越しに、アインの声が入った。
ミユは耳元の通信端末に向かって顔をしかめる。
「責任の話するなら、最初に私を高額バイトで釣った科学者にもかなりあるからね?」
《そこは雇用契約の解釈次第だ》
「絶対あとで労基に相談する」
《怪人退治の労基は管轄が難しいね》
「そこ真面目に返すな!」
軽口を叩いていても、ミユの足取りは重かった。
廃劇場に入った瞬間から、嫌な感覚が胸の奥に居座っている。
前回ここへ来た時の記憶が、床板の軋みと一緒に戻ってくる。
暗い客席。
オルゴールの音。
舞台の上で笑う蝙蝠伯爵。
観客席に吸い込まれそうになったメグ。
自分の足が震えていたこと。
倒した。
確かに倒した。
なのに、この場所にはまだ、何かが残っている。
「反応、あります」
ワトソンが顔を上げた。
「怪人反応ですか?」
メグが問うと、ワトソンはうなずいた。
「はい。第2話時点で検出された蝙蝠伯爵由来の音波残響と、現在検出されている反応が一致します。ただし、完全一致ではありません」
「日本語で」
ミユが言う。
ワトソンは少しだけ間を置いてから答えた。
「蝙蝠伯爵っぽいものがいます。でも、本人ではありません」
その瞬間。
劇場の奥で、音が鳴った。
きぃ、と。
古いぜんまいを巻くような音。
続いて、かすかな旋律。
オルゴールの音だった。
メグの顔色が変わる。
「……この音」
「あー、やだ。覚えてる」
ミユは肩をすくめたが、その声は少しだけ固い。
劇場の床に、薄い影が落ちた。
客席の向こう。
埃に沈んだ舞台の上。
そこに、黒いマントの影が立っていた。
白い顔。
長い指。
コウモリめいたマント。
舞台に立つ姿だけなら、確かに蝙蝠伯爵だった。
けれど。
「……違う」
ミユの口から、先に言葉が落ちた。
メグが横を向く。
「先輩?」
「あいつ、違う」
舞台の上の影は、ゆっくりと顔を上げた。
白い仮面めいた顔の奥に、赤い光がともる。
「眠りを……」
かすれた声。
「舞台へ……」
録音した声を、無理につなぎ合わせたような発音。
「観客を……」
ミユは眉をひそめた。
本物の蝙蝠伯爵は、腹立たしい怪人だった。
人を眠らせ、劇場に閉じ込め、優雅ぶって、こちらを見下していた。言葉のいちいちが芝居がかっていて、こっちは命がけなのに、向こうは自分の美学を語っていた。
嫌な相手だった。
怖かった。
できれば二度と会いたくなかった。
でも、目の前にいるこれは違う。
本物にあった嫌味も、自意識も、奇妙な誇りも、舞台を支配するような気配もない。
ただ、形だけが似ている。
声だけが似ている。
能力だけが、そこに残されている。
「……なんか、腹立つ」
ミユが低く言った。
《バイト君、注意して》
アインの声が緊張を帯びる。
《それは復元体だ。蝙蝠伯爵本人ではない。残骸データ、戦闘記録、外部ログを組み合わせて再構成した劣化コピーだと思われる》
「劣化コピーって言い方も嫌だけど、実物見るともっと嫌だね」
舞台の上の蝙蝠伯爵復元体が、両腕を広げた。
マントの内側から、黒い音符のような粒子が舞う。
オルゴールの音が、劇場全体に染み出した。
メグの肩が小さく跳ねる。
「メグちゃん、後ろ!」
ミユが叫ぶ。
音波が、目に見えない刃のように客席を走った。
メグの膝が崩れかける。
「っ……眠気、が……」
「やっぱりその技か!」
ミユはメグの前に飛び出し、μブレスレットを掲げた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
白とピンクの光が、廃劇場の埃を吹き飛ばす。
薄汚れた客席に、科学光の粒子が反射した。
制服姿の少女は、一瞬でフリルと装甲をまとった科学少女へ変わる。
プリティミューが、ミュー・ハンマーを肩に担いで舞台を睨みつけた。
「悪いけど、再演チケット買った覚えないから!」
蝙蝠伯爵復元体は答えない。
ただ、両手を振り下ろした。
オルゴール音波が、今度は真正面から襲ってくる。
プリティミューはハンマーを横に構えた。
「ミュー・ハンマー、音波迎撃!」
《そのまま叩けばいい》
アインが言う。
「言い方雑!」
プリティミューは叫びながらハンマーを振った。
空気が鳴る。
ハンマーの打撃音と、オルゴールの旋律がぶつかり、劇場内に不協和音が広がった。
客席の埃が舞い上がり、破れた舞台幕が震える。
蝙蝠伯爵復元体の姿が揺らいだ。
「眠りを……観客を……」
「それしか言えないの?」
プリティミューは床を蹴って舞台へ上がる。
蝙蝠伯爵復元体が、マントを広げて後退した。
動きは似ている。
距離の取り方。
客席を利用する角度。
舞台袖へ滑るような避け方。
しかし、すべてが少し遅い。
何より、そこに意志がない。
「本物だったら、今ごろ絶対なんかムカつく台詞言ってたでしょ」
プリティミューは、追いながら言った。
「『この舞台に立つ資格がどうのこうの』とか、『観客の眠りがどうのこうの』とか!」
蝙蝠伯爵復元体は、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。
「眠りを……」
「それ、本人に失礼だよ!」
ハンマーが復元体の肩をかすめる。
黒い粒子が散った。
プリティミューの胸に、妙な感覚が残る。
自分は今、何に怒っているのだろう。
蝙蝠伯爵は敵だった。
倒した相手だった。
なのに、その偽物が雑に動かされていることに、どうしてこんなに嫌な気分になるのか。
「先輩!」
客席側からメグの声が飛んだ。
プリティミューは振り返る。
メグは、眠気に耐えながら床に片膝をつき、スマホを操作していた。画面には、複数の解析ウィンドウが開いている。
「復元体の構成データ、少し取れました!」
「ナイス! でも無理しないで!」
「無理はしています!」
「正直なの、今は助かるけど怖い!」
メグは画面を凝視した。
指先が止まる。
顔から、すっと血の気が引いた。
「……先輩」
その声で、プリティミューも異変に気づいた。
「何?」
「この復元体……私の怪人事件ログも参照しています」
「え?」
一瞬、戦闘の音が遠ざかったように感じた。
メグは震える手で、画面をこちらへ向けた。
ワトソンがその映像を通信に乗せる。
プリティミューの視界の端に、データ表示が浮かび上がった。
《参照元:公開記録ログ》
《記述引用:蝙蝠伯爵は、劇場空間を利用し、音波と視線誘導で対象を追い詰める》
《行動補正:舞台袖、客席、照明落下地点を利用》
メグの声が震えた。
「私が……書いたから」
「メグちゃん」
「私が記録したから、再現精度が上がっています」
「違う」
ミユは即答した。
自分でも驚くくらい、強い声だった。
蝙蝠伯爵復元体が、舞台の上から再び音波を放つ。
プリティミューは、それをハンマーで叩き落としながら言った。
「悪いのはメグちゃんじゃない」
「でも、私のログが――」
「メグちゃんは、みんなに危険を知らせるために書いたんでしょ!」
音波が砕ける。
黒い粒子が雨のように降る。
「記録した人が悪いんじゃない!」
プリティミューは一歩踏み込んだ。
「悪用したやつが悪い!」
蝙蝠伯爵復元体が、マントを広げる。
舞台の奥から、古い照明器具がきしんだ。ワイヤーが切れかけている。前回と同じ、上から落とす攻撃。
メグのログに書かれていた通りの舞台利用。
プリティミューは歯を食いしばった。
「人の記録を――」
落ちる照明の下へ、彼女は飛び込む。
「墓荒らしの説明書にするな!」
ハンマーを真上へ振り上げた。
落下する照明器具を叩き割り、その勢いのまま、ハンマーを舞台床へ叩きつける。
衝撃波が舞台全体に走った。
古びた床板が軋み、蝙蝠伯爵復元体の足元に亀裂が入る。
復元体は逃げようとした。
しかし、足元から噴き上がる科学光が、その影を絡め取る。
《バイト君、今だ》
アインの声。
「言われなくても!」
プリティミューは跳んだ。
「プリティ・サウンドブレイク・インパクト!」
ミュー・ハンマーが、蝙蝠伯爵復元体の胸部を捉えた。
白とピンクの光が、黒いマントを貫く。
オルゴールの音が、一瞬だけ大きく鳴った。
それは悲鳴のようにも、壊れた舞台装置の最後の音のようにも聞こえた。
「眠り……を……」
復元体の声が途切れる。
黒いマントがほどける。
白い顔が、ガラスのようにひび割れる。
そして、蝙蝠伯爵復元体は、黒い粒子になって舞台の上へ崩れ落ちた。
劇場に静けさが戻った。
今度こそ、舞台はただの廃墟になった。
プリティミューは、ハンマーを下ろした。
「……最悪」
小さく言う。
「本物じゃないのに、倒した感じだけ残るの、最悪」
メグは、客席側でスマホを握りしめていた。
眠気は抜けてきたようだったが、顔は青い。
「私の記録が……」
「メグちゃん」
プリティミューは舞台から降り、メグの前にしゃがんだ。
「メグちゃんの記録がなかったら、今まで助からなかった人もいる」
「でも、使われました」
「うん」
ミユは否定しなかった。
その方が、メグにはたぶん届くと思った。
「使われた。でも、それは使ったやつが悪い」
「……」
「包丁で料理もできるし、悪いこともできる、みたいな話でしょ。たぶん」
《たとえとしては大雑把だが、方向性は正しい》
ワトソンが補足する。
「猫型AI、今いいところだから厳密性を持ち込まないで」
《失礼しました》
メグは、少しだけ笑いそうな顔をして、それでも笑えなかった。
「記録するの、怖くなりますね」
「うん」
ミユは言った。
「怖いよね」
メグが顔を上げる。
ミユは、復元体が崩れた舞台を見た。
「私も、倒すの怖くなる時あるもん。倒したあとまで、こんな風に使われるならさ」
声が少しだけ低くなる。
「でも、怖いからやめたら、向こうの思うつぼじゃん」
メグは、スマホを握り直した。
「……はい」
その時だった。
劇場のスクリーンが、勝手に明滅した。
古い布のスクリーンに、ざらついた映像が映る。
白衣。
黒い手袋。
薄い笑み。
ドクター・モルスだった。
《よい反応です、プリティミュー》
ミユの表情が、瞬時に険しくなる。
「出たな、白衣の最悪野郎」
《その呼称、定着してしまいましたね。興味深い》
「興味持つな!」
モルスは、こちらの怒りなど意に介さず、静かに微笑んでいた。
《メグさんの記録は非常に有用でした》
メグが息を呑む。
プリティミューは、一歩前に出た。
「メグちゃんに言うな」
《公開された善意ほど、使いやすい素材はありません。危険を知らせるための記録。被害を防ぐための注意喚起。人々を守るための情報》
モルスは、ゆっくりと指を組む。
《それらはすべて、再現精度を高めるための参考資料になります》
「ふざけんな」
ミユの声は低かった。
「誰かを助けるために書いたものを、怪人もどき作る材料にするな」
《材料ではありません。学習資源です》
「同じだよ!」
プリティミューはハンマーを構えたが、スクリーン越しの相手には届かない。
モルスは、楽しげに目を細める。
《怒り。保護反応。記録者への防衛意識。やはり、君の反応は美しい》
「こっちは全然うれしくない!」
《では、次の観測へ進みましょう》
スクリーンの映像が切り替わる。
駅前広場のライブカメラ。
そこに、赤い光が走った。
高いヒール音。
しなやかな尾。
赤黒い装甲。
レイディスコーピオン復元体が、冬の駅前広場を横切っていた。
本物にあった、あの刺すような笑みはない。
だが、尾針だけが毒々しく光っている。
《次は、言葉の毒を再現しましょう》
メグの端末が、立て続けに震えた。
一件ではない。
二件。
三件。
四件。
警告音が重なり、画面に怪人反応が並んでいく。
メグの顔が引きつった。
「先輩……複数です」
「複数?」
ミユが覗き込む。
表示されていたのは、悪夢のような一覧だった。
《駅前広場:レイディスコーピオン反応》
《旧美容サロン跡:サラセニア・ルージュ反応》
《宝珠南高校付近:マンティスシザー反応》
《朝倉家周辺:ミラクルハニー反応》
ミユの息が止まった。
「朝倉家……?」
胸の奥が冷たくなる。
母の顔が浮かんだ。
かなえが、何も知らずに家にいる姿。
前回も、前々回も、ジョーカーは平気で母を狙った。
今度も。
「一体ずつじゃないの?」
ミユは、声を絞り出すように言った。
《第十二段階の実験だ》
アインの声が、いつもより少しだけ固い。
《向こうも畳みかけてきたね》
「段階とか言うな! メタっぽくて腹立つ!」
《事実だよ。今回は、単体怪人戦ではない。復元体の同時投入だ》
ワトソンが続ける。
《ミユさん、優先順位が必要です》
「またそれ……!」
ミユはハンマーを握りしめた。
嫌な言葉だった。
優先順位。
全部助けたいのに、順番をつけなければならない。
どこかを選べば、どこかが後回しになる。
けれど、迷っている時間もない。
メグは、自分の頬を軽く叩いた。
「先輩」
ミユが振り向く。
メグの顔はまだ青かった。
けれど、目は揺れていなかった。
「私は、ログを続けます」
「メグちゃん」
「悪用されても、記録します。悪用されたことも、記録します」
ミユは、一瞬だけ黙った。
そして、少し笑った。
「強いなあ、メグちゃん」
「怖いです」
メグは即答した。
「でも、怖いからやめたら、向こうの思うつぼです」
それは、さっきミユが言った言葉だった。
ミユは、息を吸った。
廃劇場の埃っぽい空気が、肺に入る。
怖い。
嫌だ。
腹が立つ。
でも、まだ終わっていない。
「アイン、ワトソン。全部の反応、追って」
《了解》
《経路算出を開始します》
「メグちゃんは、安全な位置から情報支援」
「安全な位置があれば、そうします」
「そこはあるって言って!」
ミユは、舞台の出口へ向かって走り出した。
背後で、スクリーンのモルスが微笑む。
《さあ、プリティミュー》
映像の中で、白衣の男が黒い手袋の指を鳴らした。
《君の過去が、君の現在を襲う》
廃劇場の外から、駅前の方角で悲鳴が上がった。
プリティミューは、扉を蹴り開ける。
冬の白い昼光が、彼女の前に広がった。
「過去だろうが復元だろうが――」
ミュー・ハンマーを握る手に、力が入る。
「今、人を襲ってるなら止める!」
彼女は走った。
複数の怪人反応が、ホウジュ区の地図の上で赤く点滅していた。




