第1節 ― 悪夢は、同じ顔で帰ってくる
地下量産ラインを止めてから、三日が経った。
ホウジュ区は、何事もなかったような顔で朝を迎えていた。
駅前のビジョンには、いつものように新商品の広告が流れている。コンビニの前では会社員が缶コーヒーを片手にスマホを見て、通学路では高校生たちが眠そうな顔で信号待ちをしている。自転車のベル、バスのブレーキ音、どこかの店先から聞こえる開店準備の音。
街は、普通に動いていた。
けれど、その普通の下に、薄いひびが入っていることを、ミユはもう知っていた。
「……ねむい」
宝珠南高校の教室で、朝倉ミユは机に頬をつけたまま、低くうめいた。
一時間目が始まる前の教室は、いつも通り騒がしい。昨日見た動画の話。小テストの範囲がどうのという悲鳴。購買の新作パンが甘すぎるという文句。そういう、どうでもいいけれど、どうでもいいからこそ大事な会話が飛び交っている。
ミユはその中に半分だけ意識を沈めながら、右腕を軽く動かした。
まだ、重い。
筋肉痛というより、体の奥に鉄の砂が詰まっているような疲れだった。リザードジェネラルとの戦闘。量産ライン。動かないまま沈黙した未完成の怪人たち。転送されてしまったデータ。
思い出すたびに、胸の中がざらついた。
「先輩」
横から、控えめな声がした。
振り向くと、佐々木メグがノートパソコンを抱えて立っていた。朝からすでに目が覚めきっている顔だった。いや、正確には、目は覚めているが、眠っていない顔だった。
「メグちゃん」
「おはようございます」
「おはよう。……寝た?」
「仮眠は取りました」
「それは寝たって言わないやつ」
「先輩こそ、顔がかなり死んでいます」
「第十話で死にかけた人間に向かってその表現やめて」
「すみません。生存反応が薄いです」
「もっと嫌!」
ミユが顔を上げると、メグは真面目な顔で画面を開いた。
そこには、怪人事件ログの管理画面が表示されていた。ホウジュ区の地図の上に、赤い点がいくつも浮かんでいる。駅前、旧北口商店街、河川敷近くの倉庫街、廃劇場跡地、蜜蜂の館があった通りの裏手。
見覚えのある場所ばかりだった。
ミユは、眠気が少しだけ引くのを感じた。
「……何これ」
「昨日の深夜から今朝にかけて、怪人らしきものの目撃情報が増えています」
「また量産トカゲ?」
「いえ」
メグの指が、画面の一点を拡大した。
ぼやけた防犯カメラ映像。
暗い路地。逃げる人影。街灯に照らされる、細く長い腕。背中から伸びる脚のような影。そして、壁に張りつく白い糸。
ミユは息を止めた。
「……蜘蛛?」
「はい」
画面の別のウィンドウが開く。
そこには、別の現場写真があった。夜の公園。ベンチの上に残された黒い布切れ。近くの街灯にぶら下がる、裂けたチラシ。その片隅に、赤黒い毒針のような傷跡。
さらに別の映像。
廃劇場跡地の外壁。誰もいないはずの舞台側から、かすかに聞こえる古いオルゴールの音。
ミユの喉が、ひゅっと鳴った。
「……ちょっと待って」
「待ちたいです」
「メグちゃんが待ちたいって言う時、だいたい待てないやつじゃん」
「はい」
メグは、画面をさらに切り替えた。
「蜘蛛男に似た個体。蝙蝠伯爵に似た反応。レイディスコーピオンの毒針反応。サラセニア・ルージュの植物性怪人細胞。マンティスシザーの裁断反応。カメ・レオンの偽装皮膜残滓。ミラクルハニーの蜜成分。ゲッコウリーパーの月光反応」
読み上げる声が、少しずつ固くなっていく。
「それぞれが、別の場所で確認されています」
ミユは、机の端をつかんだ。
教室のざわめきが遠くなる。
倒したはずだった。
怖かった怪人も、腹が立った怪人も、意味がわからなかった怪人も、嫌な形で利用された怪人も。全部、ちゃんと戦って、ちゃんと倒したはずだった。
なのに。
「……復活、ってこと?」
自分で言った言葉に、背筋が冷えた。
メグはすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
ミユは無理やり笑おうとして、失敗した。
「いやいやいや。復活って何。そういうの、第十二話くらいでやるやつじゃん」
「先輩」
「今、第十二話だった」
「何の話ですか」
「こっちの話!」
メグは画面の端を指で押さえた。
「ただし、完全な復活かどうかは不明です。第九話で残骸データが回収され、第十一話で量産ラインにも過去怪人の能力片が使用されていました。今回の反応は、その延長線上にある可能性が高いです」
「つまり、ドクター・モルスの仕業」
「はい」
ミユの口の中に、嫌な味が広がった。
白衣。黒い手袋。人をデータと呼ぶ声。死を数字にし、怪人を症例と呼び、壊れたものを価値だと言う男。
「ほんと、あの白衣の最悪野郎……」
その時、教室の後ろで誰かが言った。
「なあ、これ見た?」
スマホを囲んでいた男子生徒たちの声だった。
「昨日の夜、駅裏にまた怪人出たって」
「え、また?」
「でもこれ、前に見たやつじゃね?」
「蜘蛛っぽいやつ?」
「そうそう。プリティミューの最初の相手って言われてるやつ」
ミユの肩がぴくりと動いた。
メグも同時に視線を向けた。
教室の中では、怪人事件はすでに噂の一部になっている。怖がりながらも、どこか動画コンテンツのように語られる。あれは何話目の怪人だ、今度のやつは強かった、プリティミューはまた出るのか。
誰かにとっては、それはただの話題だった。
けれどミユにとっては違う。
蜘蛛男。
高額バイト。
廃施設。
逃げたかった足。
動かなかった体。
初めて、科学少女プリティミューになった夜。
その全部が、まだ体のどこかに残っている。
メグが静かに言った。
「先輩、放課後を待つ余裕はないかもしれません」
「……だよね」
ミユは椅子から立ち上がった。
その瞬間、チャイムが鳴った。
一時間目の予鈴だった。
ミユは黒板を見た。入ってきた教師の顔を見た。教科書を開くクラスメイトたちを見た。
普通の朝。
普通の学校。
普通の自分。
その全部が、薄い膜一枚で怪人事件の上に乗っている。
「メグちゃん」
「はい」
「保健室」
「仮病ですか」
「違う。戦略的体調不良」
「同じです」
「言い方って大事なんだよ!」
教師が出席簿を開く前に、ミユは鞄をつかんだ。
廊下へ出ると、メグがすぐ後ろについてきた。二人分の足音が、朝の校舎に響く。窓の外は明るい。青すぎる空が、妙に現実味を失わせていた。
階段の踊り場まで来たところで、ミユのスマホが震えた。
画面には、アインからの通信。
ミユはイヤホンを片耳に押し込んだ。
「アイン、見た?」
《見ている》
相変わらず、声は淡々としていた。けれど、いつもの余裕よりも、少しだけ硬い。
《バイト君。今回の反応は、残骸影ではない》
「それ、嫌な言い方」
《嫌な結論だからね》
ワトソンの声が続いた。
《残骸影よりも生体反応密度が高いです。量産型よりも個体構造が安定しています》
「日本語で」
《偽物ですが、かなり本物に近いです》
「最悪!」
ミユは階段を駆け下りながら叫んだ。
メグが横から補足する。
「最初の反応地点は、旧南倉庫街です。蜘蛛男と最初に接触した廃施設の近くです」
足が、一瞬だけ止まりかけた。
旧南倉庫街。
あの夜、ミユはそこで初めて怪人を見た。初めて本気で逃げた。初めて、自分が普通の高校生ではいられなくなる音を聞いた。
「……わざとだよね」
「はい」
メグははっきり言った。
「モルスは、先輩の記憶反応も観測するつもりだと思います」
ミユは笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「人のトラウマを測定項目にするな」
旧南倉庫街は、昼間でも薄暗かった。
古い倉庫の壁には、使われなくなった会社名の看板が錆びたまま残っている。割れた窓にはベニヤ板が打ちつけられ、敷地の隅には雑草が伸びていた。近くの道路を車が通るたび、鉄板がかすかに震える。
あの夜と違って、空は明るい。
それなのに、倉庫の奥だけは夜が残っているように見えた。
ミユとメグは、立入禁止のロープの前で足を止めた。
「ここ、前より嫌な感じする」
「怪人反応があります」
メグは端末を構えた。
ワトソンの人間アバターが、少し遅れて二人の横に現れた。青年の姿ではあるが、表情はいつもより険しい。彼の瞳に、解析画面の光が薄く走っている。
「敷地内に人間の生体反応が三つ。すべて拘束されています」
「人質?」
「はい。意識はありますが、動けません」
ミユは唇を噛んだ。
「蜘蛛糸か」
「おそらく」
倉庫の奥から、きい、と金属の軋む音がした。
風ではない。
何かが、ゆっくりと動いている音。
ミユはμブレスレットに手を添えた。
「メグちゃん、ワトソン、下がって」
「先輩」
「大丈夫。……たぶん」
「たぶんを大丈夫に含めないでください」
「言ってる場合じゃない!」
次の瞬間、倉庫の暗がりから白い糸が飛んだ。
ミユは横へ跳んだ。糸はさっきまで彼女のいた場所を通り過ぎ、背後のフェンスに絡みついた。金属が嫌な音を立ててへこむ。
強い。
前に戦った時より、糸が速い。
「うわ、改良されてる!」
《バイト君、変身を》
「わかってる!」
ミユは倉庫の影へ一歩踏み込み、右腕を掲げた。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
白とピンクの光が、錆びた倉庫街を照らした。
制服の輪郭が光にほどけ、装甲が組み上がる。胸元に科学少女のエンブレムが輝き、ミュー・ハンマーが手の中に重さを持って現れる。
プリティミューは地面に着地した。
「科学少女プリティミュー、出勤!」
その声に応えるように、倉庫の奥で何かが笑った。
かすれた、聞き覚えのある声。
「高額……バイト……」
ミユの呼吸が止まりかけた。
暗がりから、それは現れた。
蜘蛛男。
少なくとも、見た目はそうだった。
長い腕。節くれだった脚。背中から伸びる蜘蛛の脚のような突起。白い糸を吐く口元。異様に細い胴体。初めて見た時に、ミユの全身を凍らせたシルエットが、そこにあった。
だが、同じではない。
装甲の継ぎ目には黒い縫合線のようなものが走っている。胸には、小さな金属プレートが埋め込まれていた。
《R-01/蜘蛛男再構成体》
ミユは、その文字を見た瞬間、腹の底が冷たくなるのを感じた。
「再構成体……」
蜘蛛男は首を傾けた。
その動きは、妙にぎこちない。人形を糸で吊っているような、不自然な間がある。
「応募者……確認……朝倉ミユ……」
「やめろ」
ミユの声は、自分で思ったより低かった。
「その声で、それ言うな」
蜘蛛男は答えない。
代わりに、背中の脚を広げた。
倉庫の天井から、三人の一般人が糸で吊るされているのが見えた。作業着の男性、買い物袋を持った女性、宅配業者らしい若い男。全員、口元を糸でふさがれ、恐怖に目を見開いている。
ミユの中で、迷いが消えた。
「メグちゃん、三人の位置記録!」
「はい!」
「ワトソン、糸の強度!」
《解析中。以前の蜘蛛男より二十三パーセント強化されています》
「二十三パーセントって地味に嫌!」
蜘蛛男再構成体が地面を蹴った。
速い。
プリティミューはハンマーを構えたが、蜘蛛男は真正面から来なかった。左へ跳び、壁を蹴り、天井へ張りつき、そこから糸を三方向へ吐く。
前の蜘蛛男なら、力任せに捕まえに来た。
だが、今の蜘蛛男は違う。
プリティミューの逃げる先を知っている。
「っ!」
足首に糸が絡んだ。
プリティミューは体勢を崩し、膝をつく。そこへ天井から蜘蛛男が落ちてくる。振り下ろされた腕を、ミュー・ハンマーの柄で受け止める。
金属がぶつかる音が響いた。
「重っ……!」
《バイト君、注意しろ。その個体は初戦時のデータだけでなく、以降のキミの回避パターンも参照している》
「つまり?」
《今のキミを知っている蜘蛛男だ》
「最悪の同窓会!」
プリティミューは力任せに蜘蛛男を押し返した。
蜘蛛男は床を転がらず、四肢を使って壁へ逃げた。関節が不自然に折れ曲がる。その姿に、ミユの胸がざらりとした。
違う。
これは、蜘蛛男じゃない。
前の蜘蛛男が好きだったわけじゃない。怖かったし、迷惑だったし、許せないこともした。けれど、あいつにはあいつの動きがあった。気配があった。嫌な生々しさがあった。
目の前のこれは、そこから必要な部分だけを取り出して、縫い直したものだった。
怖い記憶だけを、もう一度動かしている。
「……本当に、趣味悪い」
プリティミューはハンマーを握り直した。
「人の最初のトラウマで遊ぶな!」
蜘蛛男再構成体が糸を吐く。
プリティミューは今度は避けなかった。ハンマーを回転させ、糸を絡め取る。白い糸がピンクの光に焼かれて、ばちばちと火花を散らした。
「メグちゃん、人質の真下に何かある?」
「古いマットレスがあります。でも薄いです」
「ないよりマシ!」
《落下速度を補正します》
ワトソンの声と同時に、プリティミューの視界に三つの軌道予測が浮かんだ。
天井から吊られた人質。切るべき糸。落下地点。
ミユは息を吸った。
怖い。
ここは、始まりの場所に似ている。
でも、あの時と違う。
今は、ひとりじゃない。
「ミュー・スイングカット!」
ミュー・ハンマーの先端が弧を描き、三本の糸をまとめて叩き切った。
人質たちが落ちる。
同時に、プリティミューは床を蹴った。ひとり目を受け止め、二人目を肩で支え、三人目はワトソンの投射した補助フィールドが落下を遅らせる。
「重い! 人命が重い!」
「言い方!」
メグが叫びながら駆け寄り、人質の拘束糸を切る。ワトソンもすぐに安全確認へ入った。
蜘蛛男再構成体が、その隙を狙って跳んだ。
プリティミューの背中へ、黒い爪が迫る。
「先輩!」
メグの声。
ミユは振り返らない。
代わりに、右足を踏み込み、体を半回転させた。
「来ると思った!」
ミュー・ハンマーが、蜘蛛男の胴体を横から捉える。
鈍い衝撃音。
蜘蛛男再構成体の体が倉庫の柱に叩きつけられた。黒い縫合線が裂け、内部から赤黒い光が漏れる。
「プリティ・スパイダーリターン・インパクト!」
「技名、今つけましたね!」
「雰囲気!」
もう一撃。
ミュー・ハンマーが胸の金属プレートを砕いた。
《R-01》の文字が割れ、蜘蛛男再構成体の体が白い糸と黒い粒子にほどけていく。
最後に、蜘蛛男は口を開いた。
「高額……バイト……継続……」
ミユは、息を切らしたまま言った。
「残業代つけてから出直せ」
蜘蛛男再構成体は、完全に崩れた。
倉庫街に、急に静けさが戻る。
助けられた三人は、震えながらも意識があった。メグが救急への連絡を入れ、ワトソンが応急処置を行っている。
ミユは変身を解かず、崩れた怪人の跡を見つめた。
糸の残骸。
黒い粒子。
砕けた金属プレート。
そこには、倒したという手応えがあった。
でも、終わったという感覚はなかった。
「……メグちゃん」
「はい」
「これ、たぶん一体目だよね」
メグの端末が、ちょうどその時、激しく鳴った。
画面上に、次々と赤い点が灯る。
廃劇場跡地。
旧北口商店街。
蜜蜂の館跡。
ロイヤルムーン記念病院跡。
さらに、宝珠南高校近く。
メグの顔から血の気が引いた。
「先輩」
「言わなくてもわかる」
それでも、メグは言った。
「同時多発です」
ミユは、ハンマーを握る手に力を込めた。
ワトソンの声が、静かに割り込む。
《蝙蝠伯爵型反応、確認》
《レイディスコーピオン型反応、確認》
《サラセニア・ルージュ型反応、確認》
《マンティスシザー型反応、確認》
アインの通信が入った。
《バイト君》
「何」
《これは復活ではない》
「……じゃあ何」
一拍、間があった。
《復元だ。モルスは、過去の怪人を戦場に戻している》
ミユは空を見上げた。
昼間の空は、腹が立つほど青かった。
「……ほんと、最悪」
その時、倉庫の壁に残っていた蜘蛛糸が、ひとりでに動き出した。
糸は壁面に文字を描く。
黒く、細い文字。
《再戦開始》
ミユはそれを見て、ゆっくりと息を吐いた。
逃げたい。
怖い。
また戦うのかと思うと、体の奥が震える。
でも、さっき助けた人たちは、まだ泣いていた。メグは端末を握って、次の被害地点を見ていた。ワトソンは黙ってこちらを見ていた。アインは通信の向こうで、答えを待っている。
ミユはハンマーを肩に担いだ。
「上等」
声は震えていた。
けれど、足は止まらなかった。
「何回戻ってきても、何回でも止める」
そしてプリティミューは、次の赤い点へ向かって走り出した。




