第4節 ― 守りたい場所が、多すぎる
ホウジュ区の地図が、赤い点で埋まっていく。
最初は、駅前広場にひとつ。
次に、旧北口商店街にひとつ。
それから、宝珠南高校の裏門付近にふたつ。
コブラカレーの裏通り、アイン科学研究所へ向かう住宅街の坂道、駅前駐輪場、工事中の歩道橋。
赤い点は、数分おきに増えていった。
メグのスマホ画面に表示された地図は、まるで発疹みたいだった。
「……何これ」
ミユは走りながら、息を切らして言った。
プリティミューの姿になっている。白とピンクの装甲はすでに何ヶ所も擦れ、ミュー・ハンマーの柄を握る右手には細かな震えがあった。
駅前広場では、リザードトルーパーが自動販売機を殴りつけていた。
破壊そのものが目的ではない。
そういう壊し方だった。
商品を全部ぶちまけるわけでも、通行人を執拗に追うわけでもない。ただ、監視カメラの方を一度見上げ、わざと目立つように腕の刃を振り上げ、自動販売機の側面に深い傷を刻む。
それから、逃げようとした会社員に向かって一歩踏み出す。
「やめろっての!」
プリティミューは横から飛び込み、ミュー・ハンマーを振り抜いた。
鈍い音がして、リザードトルーパーの胴体がくの字に折れる。緑黒い装甲が砕け、床に叩きつけられた怪人兵の背中から、黒いタグのようなものが飛び出した。
タグは空中で一瞬だけ光り、どこかへ向かって細い信号を飛ばす。
「また出た!」
《戦闘データ送信を確認》
通信越しに、アインの声が即座に返ってきた。
《送信先は分散されている。位置を特定しにくいようにしているね》
「感心してる場合じゃない!」
《感心はしていない。構造としては興味深いと言っているだけだ》
「それを感心って言うんだよ!」
言い返した直後、メグの声が別回線から割り込んだ。
《先輩、旧北口商店街に二体です。片方は糸、もう片方は音波反応があります》
「今行く!」
《ですが、宝珠南高校付近にも反応が――》
「そっちも行く!」
《先輩、身体は一つです》
「知ってる!」
ミユは走った。
駅前広場のタイルを蹴り、横断歩道を越え、旧北口商店街へ向かう。冬の夕方、商店街のシャッターは半分ほど閉まっていたが、買い物帰りの人や塾帰りの生徒がまだ残っている。
その中で、二体のリザードトルーパーが暴れていた。
一体は、腕から蜘蛛糸のような白い糸を吐き出して、店先ののぼりを絡め取っている。
もう一体は、喉の奥から低い振動音を出し、ガラス戸を震わせていた。
「うわ、よりによって混ぜ方が嫌!」
プリティミューは糸の個体へ突っ込み、ハンマーの一撃で腕を叩き折る。だが、その瞬間、音波個体が横から振動波を放った。
鼓膜ではなく、胸の奥を直接揺らされるような感覚。
「っ、気持ち悪……!」
足がもつれた。踏ん張ろうとした膝が一瞬抜ける。
そこへ、糸の個体が残った腕を伸ばしてくる。
《ミユさん、左です》
ワトソンの声。
プリティミューは反射的に身をひねり、糸を避ける。ミュー・ハンマーを床に突き立て、その反動で身体を持ち上げるように回転した。
「もう、まとめて寝て!」
二体の頭部へ、ハンマーの側面を叩き込む。
リザードトルーパーたちは同時に崩れ、同時にタグを放った。
また、黒い信号が飛んでいく。
プリティミューはそれを見上げて、歯を食いしばった。
「倒したのに、倒した感じがしない」
《倒した個体の意味が、敵側では“次の個体の素材”に変換されている》
アインが言う。
「だから、その言い方が嫌なんだってば」
《僕も嫌だよ》
意外な返答に、ミユは一瞬だけ黙った。
「……アイン?」
《合理的だ。だから気持ち悪い》
通信の向こうで、アインの声はいつも通り淡々としていた。けれど、その平坦さの奥に、わずかな硬さがある。
《怪人を一体ずつ設計し、現場で運用し、敗北から改良点を取る。方法としては間違っていない》
「間違ってないの?」
《設計思想としてはね。でも、生命反応を持つ個体を、最初から破損前提で流すのは別問題だ》
「科学者っぽい言い方なのに、ちゃんと怒ってる?」
《怒りというより、不快だ》
「それ、かなり怒ってる時のアインじゃん」
《分析を続ける》
「逃げた!」
ミユが言い終える前に、メグの声がまた飛んできた。
《先輩、高校付近の反応が増えました。三体です》
「三体!?」
《ただし、校内には入っていません。裏門付近で監視カメラと街灯を破壊しています》
「なんでそんな地味に嫌なことするの!」
《市民混乱反応の収集が目的だと思われます》
ワトソンが補足する。
《通報件数、避難速度、目撃動画数、プリティミュー到着までの時間。すべてがデータ化されています》
ミユは走り出しながら、吐き捨てるように言った。
「街を丸ごと実験室にするな」
だが、その言葉は誰に届くわけでもない。
旧北口商店街のアーケードを抜けたところで、足が重くなった。
変身している間、身体能力は上がっている。けれど、疲労が消えるわけではない。ここ数日の寝不足。第十話の廃病院で刻まれた恐怖。ゲッコウリーパーのカウントダウンが、まだ頭のどこかに残っている。
走るたび、腕の奥がきしんだ。
ミュー・ハンマーが重い。
いつも重いが、今日は特に重い。
「……ちょっと、きつい」
思わず漏れた声を、ワトソンは聞き逃さなかった。
《ミユさん、筋疲労と精神疲労が蓄積しています。心拍上昇、反応速度も通常戦闘時より低下しています》
「猫型AIに言われると、現実味がすごい」
《現実です》
「そこはぼかして」
《ぼかすと危険です》
メグの声も、少しだけ焦っていた。
《先輩、一度戻りましょう》
「戻ったら、その間に増える」
《でも、先輩が倒れたら終わりです》
その言葉は、真正面から来た。
ミユは走る足を少しだけ緩めた。肩で息をする。肺が熱い。喉の奥が乾いている。
赤い点は、まだ地図に残っている。
駅前広場。旧北口商店街。高校付近。研究所周辺。コブラカレー裏通り。
守りたい場所が、多すぎる。
母のいる家。
メグのいる学校。
アインの研究所。
ワトソンの通信が届く場所。
コブラカレー。
いつの間にか、自分の中で「守らなきゃ」と思う場所が増えていた。
それは、少し前までのミユなら考えなかったことだ。
高額バイトで、変な天才に巻き込まれて、ピコピコハンマーで怪人を叩く。
最初は、それだけだったはずなのに。
「……無理」
ミユは小さく言った。
それから、もう一度、少し大きく言った。
「無理! 物理的に無理!」
《バイト君、全部に行くな》
アインの声が返ってくる。
「じゃあどこ行けばいいの!」
《優先順位をつける》
「それ、言われるの一番嫌なやつ!」
《嫌でも必要だ》
「わかってるけど!」
わかっている。
全員を同時に助けられないこと。
全部の場所へ行けないこと。
走り続ければ、いつか足が止まること。
わかっているから、腹が立つ。
そこへ、メグが言った。
《先輩、少し待ってください。リザードトルーパーの出現地点を、時刻順に並べ直します》
通信の向こうで、キーボードを叩く音がした。
メグは怪人事件ログに寄せられた目撃情報、SNS投稿、動画の位置情報、防犯カメラの破壊時刻を重ねているらしい。
《駅前広場、旧北口商店街、高校裏門、研究所周辺……無作為ではありません》
「どういうこと?」
《先輩の移動経路に合わせて、次の地点が少しずつずらされています》
ワトソンが続ける。
《群れの移動パターンを解析しました。敵はミユさんを消耗させながら、特定方向へ誘導しています》
「どこに?」
短い沈黙。
メグの声が、少し低くなった。
《ホウジュ区地下物流ターミナル跡です》
「また地下!」
《はい》
「ジョーカーは地下が好きすぎ!」
《統計的にも、地下施設利用率が高いです》
「ワトソン、そこ統計取らなくていい!」
悪態をつく余裕はあった。
だが、足はもう重い。
ミユは路地の壁に手をつき、呼吸を整えようとした。変身中なのに、額の奥が熱い。目の端が少しちかちかする。
そこへ、スマホに通知が入った。
変身中でも、通信端末と同期しているため、メグやアインからの情報は装甲内の表示に出る。だが、今回は見慣れない差出人だった。
《腹が減ってるなら来い》
差出人は、コブラカレー。
ミユは数秒、画面を見つめた。
「……このタイミングでカレー!?」
メグが真面目に言う。
《補給は必要です》
「メグちゃんまで!」
《いま地下物流ターミナル跡へ直行しても、先輩の疲労状態では危険です。コブラカレーは誘導経路上から大きく外れていません。五分以内の補給なら、戦術的にも許容範囲です》
「メグちゃん、今すごい真面目な顔でカレー休憩を正当化してない?」
《しています》
「正直!」
ワトソンが静かに続けた。
《エネルギー補給、情報整理、作戦再構築。合理的です》
アインも言う。
《同意する。バイト君、食べてから行け》
「アインまで!?」
《空腹のヒーローは判断が鈍る》
「誰の経験則?」
《君のデータ》
「反論できないやつ!」
数分後。
コブラカレーのカウンター席に、プリティミューではなく制服姿のミユが座っていた。
変身は一時解除している。店の奥の物置でこっそり解除し、帽子を深くかぶって席に戻った。メグは隣で端末を広げている。ワトソンは人間アバターのまま、少し離れた席で周囲を見張っていた。
店内には、いつものスパイスの匂いが満ちている。
外では量産怪人が出ている。
地下ではおそらくジョーカーの工場が動いている。
なのに、目の前には湯気を立てる大盛りカレーがある。
現実感が、変な方向にずれた。
コブラはカウンター越しに皿を置き、短く言った。
「食え」
「今、戦闘中なんだけど」
「だから食え」
「理屈が強引!」
「腹が減ってるやつは、足元を見る前に転ぶ」
コブラはそれだけ言って、鍋の方へ戻ろうとした。
ミユはスプーンを持ったまま、少しだけ黙る。
カレーの匂いを嗅いだ途端、自分がどれだけ空腹だったのかを思い出した。胃がきゅっと鳴る。戦闘中に鳴ってほしくない音だった。
「……食べるけど」
「最初からそうしろ」
「腹立つ」
ひと口食べる。
辛い。
熱い。
身体の奥が、ようやく自分のものに戻ってくる感じがした。
ミユは無言で二口目を食べた。三口目。四口目。
メグが、少し安心したように息を吐く。
「先輩、食べている時は本当に生きている感じがしますね」
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
「最近そのパターン多くない?」
コブラは鍋をかき混ぜながら、低く言った。
「数で来る敵に、一人で全部走るやつは負ける」
ミユのスプーンが止まった。
「……」
「兵隊を相手にする時は、親玉を叩け」
「量産工場?」
「ああ」
コブラは振り返らない。
だが、その声はいつもの「カレー屋の一般論」にしては、あまりにも具体的だった。
「一体ずつ相手にしてたら、向こうの思う壺だ。量産型ってのは、壊れることまで計算に入れて出てくる。倒してもいい。むしろ倒されることで完成に近づく」
メグが顔を上げる。
「それは、モルスの計画と一致します」
ミユはコブラを見た。
「おじさん、本当に何者?」
「カレー屋だ」
「今回ばかりは無理ある」
「カレー屋はな、仕込みを見れば鍋の味がわかる」
「もう隠す気ある?」
コブラはわずかに笑ったように見えた。
だが、すぐにその表情は消える。
「嬢ちゃん」
「何」
「量産型は、数が怖いんじゃねえ」
コブラは、鍋の火を少し弱めた。
「数で来るやつは、こっちに選ばせる。駅前を守るか、学校を守るか。仲間を助けるか、知らねえ誰かを助けるか。走らせて、迷わせて、疲れさせる」
「……」
「だが、そういう敵ほど、後ろで糸を引いてる場所がある。そこを見つけたら、迷うな」
ミユはゆっくりスプーンを置いた。
「親玉を叩く」
「そうだ」
「でも、その間に街の方で被害が出たら?」
「全部は守れねえ」
即答だった。
ミユは息を呑む。
コブラは続けた。
「だから、守る場所を増やすんだ。一人で走るんじゃねえ。目のあるやつに見させろ。頭の回るやつに考えさせろ。腹が減ったやつには飯を食わせろ」
「最後だけカレー屋の理屈じゃん」
「大事だ」
メグが端末を操作する。
「先輩、地下物流ターミナル跡の地図を出します」
画面に古い施設図が表示された。
ホウジュ区の地下に広がる、かつての物流拠点。地上の商業施設や駅裏の搬入口とつながり、現在は閉鎖されている。だが、図面の一部には不自然な空白があった。
「ここ、旧ジョーカー関連施設の可能性があります」
「旧?」
「はい。今は使われていないはずの施設です。少なくとも、公的な記録では封鎖済みになっています」
その瞬間、コブラの手が止まった。
鍋をかき混ぜる音が、途切れる。
「……まだ残ってたのか」
ミユは聞き逃さなかった。
「おじさん?」
コブラは、少しだけ沈黙した。
そして、いつもより低い声で言った。
「行くなら気をつけろ」
「何に?」
「量産ラインの奥には、だいたい作ったやつより嫌なものがいる」
ミユは、手元のカレーを見る。
まだ半分残っている。
食べている場合ではない。
でも、食べなければ動けない。
そういう現実的なことが、今は少しだけありがたかった。
ミユは残りをかき込むように食べた。
「ごちそうさま」
「早食いは身体に悪い」
「今それ言う?」
「言う」
メグが端末を畳む。
「先輩、準備できました」
ワトソンが立ち上がる。
《地下物流ターミナル跡までの最短経路を表示します》
アインの声が通信に入る。
《バイト君、無理に全部守ろうとするな。君が止めるべきは、今出ている個体ではなく、出し続けている仕組みだ》
ミユは店の扉へ向かいながら、深く息を吸った。
「わかってる」
扉を開けると、冬の夜の空気が流れ込んだ。
遠くで、また警報音が鳴っている。
赤い点は、まだ地図から消えていない。
でも、行き先は決まった。
ミユはμブレスレットに触れる。
「一人で全部は守れない」
小さく呟く。
「だから、元を叩く」
コブラは背中越しに言った。
「嬢ちゃん」
「何」
「帰ってきたら、今度は普通盛りにしといてやる」
「そこはサービスで大盛りじゃないの!?」
「食いすぎは動きが鈍る」
「現実的!」
ミユは少しだけ笑った。
そして、店を飛び出した。
向かう先は、ホウジュ区地下物流ターミナル跡。
量産型怪人たちが生まれている場所。
守りたい場所が多すぎるなら、そのすべてを狙っている根っこを叩くしかない。
ミユの足取りは、まだ重い。
けれど、さっきよりは少しだけ、前へ進む力が戻っていた。




