第1節 ― 同じ顔の怪人たち
朝倉ミユは、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
目を覚ました、というより、眠りから弾き出された。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、布団の端を白く照らしている。いつもなら「あと五分」と布団を抱え込む時間だった。けれど今日は、目を開けた瞬間に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
数字が減っていく感覚が、まだ残っていた。
《00:03:12》
あの白い表示。
腕に浮かんだ三日月の紋様。
病院跡の冷たい空気。
月光に照らされた廊下。
ベッドに横たわる人たちの、動かない顔。
ミユは反射的に自分の手首を見た。
何もない。
白い三日月も、カウントダウンも、死神の鎌に撫でられたような冷たい感触も消えている。
消えている、はずだった。
「……最悪」
声に出すと、喉が少し乾いていた。
ミユは布団の中で丸くなる。身体は重い。筋肉痛は、もういつものことになりつつある。いつものことになっている時点でかなり嫌だった。
肩が痛い。
腰も痛い。
腕も重い。
なぜか足の裏まで痛い。
普通の女子高生の朝ではない。
普通の女子高生は、昨日の夜に廃病院で死神怪人と戦っていない。普通の女子高生は、月光を遮断するために病院の遮光シャッターを叩き落としたりしない。普通の女子高生は、変身してピコピコハンマーっぽい武器で死神の鎌を砕いたりしない。
そこまで考えて、ミユは枕に顔を押しつけた。
「普通って、どこで売ってるの……」
寝室の扉が軽くノックされた。
「ミユ、起きてる?」
母の声だった。
その声を聞いただけで、ミユの胸の奥が少し詰まる。
第八話の事件では、母は子どもの姿に戻された。
第七話の事件では、母は偽物に巻き込まれた。
第十話では、眠っている母の腕にまで、死神の三日月が浮かびかけた。
いつからだろう。
母の「おはよう」を聞いて、安心するより先に、無事かどうかを確認するようになったのは。
「起きてるー」
ミユは布団の中から返事をした。
扉が開き、かなえが顔を覗かせる。エプロン姿で、髪は後ろでひとつにまとめている。いつもの朝の母だった。
いつもの朝の母。
そのことに、ミユは少しだけ救われる。
「ほんとに起きてる顔じゃないわね」
「起きてる。意識はある」
「それは起きてるって言うのかしら」
「ギリギリ」
かなえは苦笑して、部屋の中へ入ってきた。ベッドの横にしゃがみ、ミユの額に手を当てる。
熱を測るような手つきだった。
ミユは一瞬、身体を固くした。
「熱はなさそうね」
「熱はない。筋肉痛はある」
「また?」
「またって言わないで。私もまたって思ってる」
かなえは小さく息をつく。
怒っているのではない。
呆れているのでもない。
心配している。
そのことが、ミユにはわかった。
だから余計に、何も言えなかった。
「ミユ」
「うん」
「危ないことをしているなら、ちゃんと帰ってきなさいって言ったわよね」
「……言った」
「昨日は帰ってきた」
「うん」
「だから、今日はごはんを食べなさい」
「そこ?」
「そこよ」
かなえは立ち上がり、カーテンを開けた。朝の光が部屋いっぱいに入ってくる。
ミユは眩しさに目を細めた。
光は、月光ではない。
死神の白ではない。
ただの朝の光だった。
「目玉焼き、焦げる前に来なさい」
「焦げかけてるんだ」
「少しね」
「それ、かなり危険な状況じゃん」
「だから早く」
かなえが部屋を出ていく。
ミユはゆっくり上体を起こした。身体中が悲鳴を上げる。
「いたたたた……」
ベッドの上で伸びをしようとして、肩がつった。
「もうやだ。ヒーロー活動、整体代も経費で落ちないかな」
枕元のスマホが震えた。
ミユは反射的に身構える。
死亡予告ではない。
月光の通知ではない。
送信者はメグだった。
《先輩、おはようございます》
《昨日の件、怪人事件ログに追記しました》
《あと、少し気になる情報があります》
《登校前に見てもらえますか?》
いつものメグの文章だった。
丁寧で、冷静で、少しだけ急いでいる。
それだけで、ミユは嫌な予感がした。
「気になる情報って言葉、怪人事件においてはだいたい気になりすぎるやつなんだよな……」
ミユはスマホを開く。
メグから送られてきたリンクをタップすると、いくつかの短い動画が表示された。
一つ目。
早朝のホウジュ区東側、工業跡地近くの路地。
まだ薄暗い空の下、ゴミ置き場の横を、黒っぽい何かが走り抜ける。
映像は手ブレが激しい。
撮影者が息を呑む声が入っている。
《今の何?》
《人?》
《いや、でかくない?》
二つ目。
駅裏の搬入口。
白い配送トラックの横を、鱗のような装甲を持つ影が三体、同じ歩幅で通り過ぎる。
三つ目。
防犯カメラらしい固定映像。
深夜の駐車場。
同じ姿をした怪人が、同じ角度で首を回し、同じタイミングで画面の外へ消えていく。
ミユは、スマホを持ったまま固まった。
「……同じ?」
もう一度、動画を見直す。
鱗。
爬虫類めいた頭部。
細い尻尾。
前傾した姿勢。
腕の長さ。
肩の装甲。
歩幅。
首を傾げる角度。
どれも、ほとんど同じだった。
これまでの怪人は、一体ずつ違っていた。
蜘蛛男は、妙な几帳面さがあった。
蝙蝠伯爵は、気取りすぎなくらい優雅だった。
レイディスコーピオンは、笑顔と言葉に毒があった。
サラセニア・ルージュは、甘い夢で人を飲み込んだ。
マンティスシザーは、言葉を切った。
カメ・レオンは、顔と声を盗んだ。
ミラクルハニーは、甘く子どもに戻そうとした。
グレイヴコンドルは、敗北した怪人の残骸を拾った。
ゲッコウリーパーは、死を数字にした。
嫌な相手ばかりだった。
倒すべき相手ばかりだった。
それでも、それぞれに顔があった。
声があった。
言い方があった。
妙なこだわりがあった。
なのに、画面の中の怪人たちは違った。
同じだった。
ただ同じ顔で、同じ動きをして、同じように夜の街を歩いている。
それが、ミユには気持ち悪かった。
「量産……ってやつ?」
自分で言って、ぞっとした。
量産怪人。
言葉だけなら、特撮っぽい。
どこか笑えそうな響きすらある。
でも実際に画面の中で、同じ顔の怪人が何体も同じ動きをしているのを見ると、笑えなかった。
個性がない。
迷いもない。
失敗した時に文句を言いそうな気配もない。
倒されたら、次が出てきそうだった。
ミユはスマホを握りしめる。
「朝から見るもんじゃない……」
再び通知。
《メグ:アインさんにも共有済みです》
《メグ:ワトソンさんが映像を解析中です》
《メグ:登校中、なるべく一人にならないでください》
ミユは一瞬、返信に迷った。
いつもなら「了解」とか「怖いこと言わないで」と返すところだ。
けれど、指が止まる。
メグは昨日、死亡予定時刻を告げられた。
腕に三日月の紋様を刻まれた。
それでも、記録すると言った。
今もまた、冷静に情報を送ってくる。
強い、と思う。
でも、その強さを当たり前にしてはいけない気もした。
ミユは少し考えてから、返信した。
《ミユ:メグちゃんも一人にならないで》
《ミユ:あと、怖かったら怖いって言っていいから》
《ミユ:私も普通に怖い》
送信してから、少し恥ずかしくなった。
すると、すぐに既読がつく。
《メグ:はい》
《メグ:怖いです》
《メグ:でも、記録します》
ミユはスマホを見つめたまま、小さく笑った。
「そういうところだよ、メグちゃん」
怖いのに、やる。
震えながら、記録する。
ミユが文句を言いながら変身するのと、少し似ているのかもしれない。
似ていると言ったら、メグは喜ぶだろうか。
アインなら、そこをデータ化するだろう。
ワトソンなら、静かに肯定するかもしれない。
かなえなら、きっと言う。
ごはんを食べなさい、と。
「……ごはん食べよ」
ミユはスマホを持って立ち上がった。
足が少しふらつく。
身体はまだ重い。
でも、部屋の外から味噌汁の匂いがした。
焦げかけた目玉焼きの匂いもした。
それは、廃病院の消毒液の匂いでも、月光の冷たさでも、怪人細胞の臭いでもなかった。
日常の匂いだった。
だからミユは、少しだけ息を吸った。
その時だった。
スマホが、また震えた。
今度はメグではない。
アイン科学研究所からの緊急通知。
《怪人反応検知》
《ホウジュ区東側・旧工業搬入口》
《同一波形、複数》
《出動要請》
ミユは、食卓へ向かいかけた足を止めた。
「……え」
続けて、ワトソンの音声通信が入る。
《ミユさん。朝食中でしたら申し訳ありません》
「まだ食べてない!」
《では、なおさら申し訳ありません》
「何その謝罪!」
《怪人反応が三体、いえ、五体に増えました。すべて同型です》
ミユは階段の途中で固まる。
台所から、かなえの声がした。
「ミユ? どうしたの?」
ミユは返事に詰まった。
目玉焼き。
味噌汁。
朝の光。
母の声。
それら全部を置いて、また走らなければならないのか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな苛立ちが灯った。
敵は待ってくれない。
怪人は、朝食の時間を知らない。
ジョーカーは、目玉焼きが焦げることを考えない。
「……ほんと、ブラックバイト」
ミユはスマホを握り直した。
「ママ!」
「なに?」
「目玉焼き、残しといて!」
「学校は?」
「ちょっと、朝の用事!」
「また?」
「またって言わないで! 私もまたって思ってる!」
かなえが台所から顔を出す。
ミユの顔を見て、何かを言いかけた。
けれど、言わなかった。
ただ、少し眉を寄せてから、静かに言った。
「帰ってきてから食べなさい」
ミユは、一瞬だけ母を見た。
問い詰められないことが、ありがたい。
でも、同時に苦しい。
「……うん」
小さく頷いて、玄関へ向かう。
靴を履く手が少し震えていた。
昨日の死神のせいか。
今日の同じ顔の怪人のせいか。
それとも、母に何も言えない自分のせいか。
わからない。
でも、行くしかなかった。
外へ出ると、朝の空気は冷たかった。
通学路には、まだいつもの人々が歩いている。自転車に乗った中学生。犬の散歩をする老人。急ぎ足の会社員。コンビニの前で肉まんを食べる男子高校生。
その普通の街のどこかに、同じ顔の怪人が何体もいる。
ミユは走り出した。
耳元で、アインの声が入る。
《バイト君、映像を見たか》
「見た」
《今回の怪人反応は、個体差が極端に少ない。過去怪人のデータ片と、爬虫類型の基礎フレームを組み合わせた量産型と見ていい》
「日本語で」
《同じ設計図で作った怪人が、複数いる》
「最初からそう言って!」
《言ったつもりだ》
「言ってない!」
走りながら、ミユは息を整える。
曲がり角の先に、旧工業搬入口のフェンスが見えてきた。
その前に、何かが立っている。
一体。
二体。
三体。
さらに奥に、二体。
動画で見たのと同じだった。
鱗の装甲。
爬虫類めいた顔。
薄く開いた口。
感情の読めない黄色い目。
五体の怪人が、同じ角度でミユを見た。
同じタイミングで首を傾ける。
ぞわりと、背中に寒気が走った。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
「ほんとに同じ顔……」
五体の怪人は、同じ声で言った。
「対象確認」
「μシステム適合者」
「朝倉ミユ」
「戦闘反応採取開始」
その声は、まるで録音を重ねたようだった。
ずれていない。
揺れていない。
怒りも笑いもない。
ミユは一歩下がる。
怖い。
死神とは違う怖さだった。
残骸影とも違う。
相手が自分を見ているのに、誰にも見られていないような怖さ。
生きている相手ではなく、作業工程に囲まれているような感覚。
ミユは歯を食いしばった。
「朝から団体客は、ちょっと迷惑なんだけど」
五体が同時に動いた。
速い。
ミユは横へ飛び退く。
爪がアスファルトを削った。火花が散る。
その爪の動きに、ミユは見覚えがあった。
レイディスコーピオンの尾針のような鋭さ。
カメ・レオンの舌のような伸び。
蜘蛛男の糸のような粘着ワイヤーが、怪人の腕から飛び出す。
「ちょっ、混ぜてる!?」
《過去怪人の能力片が組み込まれている》
アインの声が、いつもより低い。
《モルスだ》
ミユは、走りながら顔をしかめた。
「白衣の最悪野郎……!」
フェンスの向こう、搬入口の奥に、影が立っていた。
五体の量産型怪人より大きい。
背が高く、重い。
深い緑と黒の装甲。
肩に棘のような突起。
胸部には、赤橙色に光るコア。
厚い腕。
太い尾。
指先には、熱を帯びた爪。
量産型たちが兵隊なら、そいつは指揮官だった。
怪人はゆっくりと前に出る。
黄色い眼が、ミユを捉えた。
「量産型戦闘試験、第一段階」
低い声だった。
五体の声とは違う。
そこには意志があった。
「対象、科学少女プリティミュー候補。実戦投入に適合」
ミユはμブレスレットを握る。
「候補じゃないし、朝ごはん前なんだけど」
怪人は答えない。
ただ、右手を上げた。
五体の量産型が、一斉に構える。
ミユは息を吸った。
怖い。
気持ち悪い。
腹が立つ。
朝ごはんもまだ食べていない。
でも、このまま逃げたら、こいつらは街へ出る。
同じ顔で。
同じ動きで。
誰かをただの対象として見る。
それは、嫌だった。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
白とピンクの光が、朝の工業跡地に弾けた。
制服の袖が光にほどけ、科学装備型のスーツが身体を包む。
半透明のバイザーが目元に展開し、発光マフラーが短く揺れる。
手の中に、ミュー・ハンマーが現れる。
科学少女プリティミューが、五体の同じ顔の怪人の前に立った。
「まとめて相手してあげる」
プリティミューはハンマーを構えた。
「ただし、朝食代は請求するからね!」
大きな緑の怪人が、初めてわずかに笑った。
「記録。対象、戦闘前発話に余剰反応あり」
「余剰って言うな!」
次の瞬間、五体の量産型怪人が、同時に地面を蹴った。




