第7節 ― 死を怖がっても、生きている
ゲッコウリーパーの身体が、白い月光の粒子になって崩れていく。
割れた窓から差し込んでいた月明かりは、遮光シャッターに遮られ、廊下の奥にはもう銀色の帯を落としていない。さっきまで病院跡を満たしていた冷たい光は消え、代わりに非常灯の赤い明滅だけが、ひび割れた床と剥がれかけた壁をゆっくり照らしていた。
床の上には、砕けた三日月鎌の破片が残っている。
白銀の欠片は、まるでまだ月を覚えているみたいに、かすかに光っていた。
プリティミューは、ミュー・ハンマーを握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
息がうまく吸えない。
装甲の内側で、心臓がうるさく鳴っている。
腕に刻まれていた三日月の紋様は薄れていた。視界の端にちらついていた数字も、もう消えている。
けれど、消えたからといって、なかったことにはならなかった。
《00:03:12》。
あの数字は、まだまぶたの裏に焼きついている。
「……生きてる?」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
戦闘中なら、もっと大きな声で文句を言えた。怪人に向かって、モルスに向かって、世界そのものに向かって、怒鳴ることができた。
でも、戦いが終わった瞬間、怖さだけが遅れて追いついてきた。
死ぬかもしれなかった。
その事実が、胸の奥にずしりと落ちてきた。
「先輩!」
処置室の方から、メグが駆けてくる。
顔色はまだ悪い。額には汗が浮かんでいて、眼鏡の奥の目も少し赤い。それでも、メグは片手で端末を抱え、もう片方の手で自分の首筋に指を当てていた。
「メグちゃん、走っちゃだめでしょ!」
「先輩も人のこと言えません!」
「私は今、ヒーロー装甲だから!」
「その理屈、たぶん医療的には通りません!」
いつもの声だった。
それだけで、ミユの胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ溶けた。
メグはプリティミューの前まで来ると、端末を床に置き、自分の脈を測った。
「……生きています」
「よかった」
「先輩も」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
メグは真顔で、プリティミューの手首を取った。
白とピンクの装甲越しでは脈など測れるはずがない。それでも、メグは必死だった。数字ではなく、自分の指で、そこに命があることを確かめようとしていた。
その手が震えていることに、ミユは気づいた。
「メグちゃん」
「はい」
「怖かった?」
「怖かったです」
即答だった。
メグは唇をきゅっと結んで、続けた。
「死亡予定時刻って表示された時、頭の中が真っ白になりました。でも、スクリーンショットを撮らないとって思って、手が勝手に動いて」
「そこは本当にメグちゃんだよね」
「褒めていますか?」
「半分褒めて、半分怒ってる」
「では、半分受け取ります」
「全部受け取りなさいよ」
そう言いながら、ミユは笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
代わりに、喉の奥が熱くなった。
「……メグちゃんが、数字になってるの、嫌だった」
口にした途端、声が揺れた。
「腕にさ、残り時間みたいなの出てて。患者さんたちにも出てて。私にも出てて。ママにも出そうになってて」
ミユは拳を握った。
「なんか、すっごく嫌だった。人が、ただのカウントダウンにされるの」
メグは黙って聞いていた。
非常灯の赤い光が、二人の影を床に落としている。
その影は、さっきまでゲッコウリーパーに切られていたものと同じはずなのに、今はちゃんと足元につながっていた。
「先輩」
「うん」
「記録も、少し似ています」
メグは、床に置いた端末に目を落とした。
「時刻。場所。被害者数。生体反応。残り時間。そういう数字を集めないと、次に何をすればいいかわかりません。でも……」
メグは、自分の腕を見た。
三日月の紋様は、もうほとんど消えている。
「でも、数字だけ見ていたら、私も間違えると思いました」
「メグちゃんが?」
「はい。私はたぶん、全員を助けるために、誰を先に助けるべきか考えます。考えないといけません。でも、考えている間にも、その人は怖がっている。寒いとか、帰りたいとか、誰かに名前を呼んでほしいとか、そういうのがあるんです」
メグは、ゆっくり顔を上げた。
「記録は、人を数字にするためじゃありません」
その声は小さかったけれど、はっきりしていた。
「誰がまだ生きているかを、見失わないためにあるんだと思います」
ミユは何も言えなかった。
言い返す言葉も、茶化す言葉も、すぐには出てこない。
ただ、メグの言葉が胸に落ちて、痛いくらい温かかった。
通信に、ワトソンの声が入った。
《ミユさん、メグさん。仮死状態だった方々の生体反応が、順次正常範囲に戻っています》
処置室の奥で、かすかな呻き声がした。
白いベッドに寝かされていた会社員が、ゆっくりまぶたを開ける。別のベッドでは、若い女性が毛布を握りしめたまま、小さく震えていた。
「寒い……」
「ここ、どこ……?」
「夢を見てた気がする」
「もう終わりだって、誰かに言われたような……」
メグはすぐに立ち上がった。
「救急への連絡、もう一度入れます。ワトソンさん、位置情報の共有を」
《送信済みです。到着予測、六分後》
「アインさん、仮死解除後の注意点は」
《体温低下、意識混濁、自律神経の乱れ。無理に動かすな。保温を優先》
「了解です」
メグは自分もまだふらついているのに、患者たちの方へ向かった。
プリティミューも一歩踏み出そうとして、膝が抜けた。
「うわっ」
床に手をつく。
ミュー・ハンマーが、ころん、と情けない音を立てて転がった。
《ミユさんの生命反応は正常範囲です》
ワトソンが言った。
《ただし、疲労値は危険域です》
「いつものことじゃん」
《いつものことにしないでください》
「猫型AIに正論で怒られた……」
《怒っています》
「そこ、はっきり言うんだ」
ミユは床に座り込んだまま、天井を見上げた。
天井には、ゲッコウリーパーが這い回った跡が黒く残っている。爪の跡。吸盤の跡。月光を反射していた白い粉の残り。
怖かった。
本当に怖かった。
でも、今は救急車のサイレンが遠くから近づいてくる音が聞こえる。
誰かの息が戻っている。
メグが患者の名前を聞き取っている。
ワトソンが落ち着いた声で指示を出している。
自分の心臓も、まだうるさいくらいに動いている。
ミユは、胸に手を当てた。
「……生きてるって、うるさいね」
《正常な心音です》
「そういう意味じゃないんだけど」
変身を解くと、冷えた空気が一気に肌に触れた。
制服姿に戻ったミユは、思わず肩を震わせた。さっきまで装甲に守られていた身体が、急に頼りなくなる。
怖さも、疲れも、寒さも、全部そのまま戻ってきた。
でも、それでいいのだと思った。
生きているから、寒い。
生きているから、怖い。
生きているから、帰りたい。
その後のことは、ところどころ曖昧だった。
救急隊が来て、被害者たちが運び出される。ミユとメグは、ワトソンが用意した偽装説明と、アインの遠隔工作のおかげで、どうにか現場協力者という扱いで病院跡を出ることができた。
空はまだ夜だった。
けれど、月はもう雲に隠れていた。
ミユはそれを見て、少しだけほっとした。
家に帰ると、台所の灯りがついていた。
かなえが、鍋の前に立っている。
「ミユ」
いつもの声だった。
いつもの、少し疲れていて、でもちゃんとこちらを見てくれる声。
「遅かったわね。顔色、悪いわよ」
ミユは玄関で靴を脱ぎながら、かなえの腕を見た。
三日月の紋様はない。
当たり前みたいに、かなえはそこにいる。
それだけで、膝の力が抜けそうになった。
「ママこそ、大丈夫?」
「え?」
「いや、なんでもない」
かなえは首を傾げた。
「変な子ね。怖い夢でも見た?」
ミユは、少しだけ黙った。
怖い夢。
そう言ってしまえば、そうなのかもしれない。
死神が出てきた。数字が減っていった。母の腕に、白い三日月が浮かびそうになった。
でも、夢ではなかった。
それを言えないことが、少しだけ苦しかった。
「……見たかも」
かなえはコンロの火を弱めると、ミユのそばまで来た。
そして、額に手を当てる。
冷たすぎず、熱すぎない手だった。
「熱はないわね」
「ママ」
「なに?」
ミユは、かなえの顔を見た。
聞いていいことなのか、少し迷った。
でも、今聞かないと、また言えなくなる気がした。
「死ぬのって、怖いね」
かなえの表情が、わずかに変わった。
驚き。
心配。
そして、すぐに茶化さないで受け止めようとする、母親の顔。
「怖いわよ」
「ママも?」
「当たり前でしょ」
「大人でも?」
「大人でも」
かなえは、はっきりそう言った。
「大人になったら怖くなくなるわけじゃないの?」
「ならないわよ。むしろ、怖いものは増えるかもしれない」
「増えるの!?」
「増えるわよ。家賃とか、税金とか、健康診断の結果とか」
「現実的な怖さを足さないで」
「現実は怖いのよ」
かなえは少し笑った。
その笑い方が、いつも通りすぎて、ミユは泣きそうになった。
「でもね、怖いから、ごはんを食べるの」
「そこに戻る?」
「戻るわよ。怖いから寝るの。怖いから、明日の準備をするの。怖いから、戸締まりを確認するの。怖いから、ちゃんと帰ってきなさいって言うの」
「……」
「生きてるって、だいたい現実的よ」
かなえは、ミユの乱れた髪を軽く撫でた。
第七話の時と同じように、深く聞かないまま、それでも見ている手つきだった。
「今日は食べて寝なさい」
「うん」
「おかわりは?」
「あるの?」
「あるわよ」
「……食べる」
「よろしい」
ミユは食卓についた。
温かい湯気が、目の前に立ち上る。
怖いから食べる。
怖いから寝る。
怖いから帰ってくる。
それは、ヒーローの言葉ではなかった。
でも、今のミユには、どんな必殺技の名前よりも強い言葉に思えた。
翌日。
メグの怪人事件ログが更新された。
《月光下で発生した死亡予告事件について》
《今回確認された現象は、実際の死の予知ではなく、生体反応を仮死状態へ誘導する怪人能力だった可能性があります》
《腕や影に三日月状の痕が出た場合、月光や強い白色照明を避け、すぐに安全な場所へ移動してください》
《残り時間のように見える数字に、心を支配されないでください》
《人は数字ではありません》
《怖くても、生きている間にできることがあります》
教室の隅でその投稿を読んだミユは、スマホを机に伏せた。
「メグちゃん、今回ほんとに重い」
「重い事件でした」
「でも、いい文章」
「ありがとうございます」
「ちょっと泣きそう」
「記録しますか?」
「しないで!」
メグは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔にも疲れが残っていた。けれど、昨日の夜、三日月の紋様を刻まれた時の青ざめた顔とは違う。
ちゃんと生きている顔だった。
「先輩」
「なに?」
「怖かったことも、記録していいと思いますか」
ミユは少し考えた。
怖かった。
逃げたかった。
メグだけ連れて帰りたかった。
母に会いたかった。
でも、それをなかったことにしたら、また誰かが同じ数字を見た時、一人で怖がることになるかもしれない。
「いいんじゃない」
ミユは言った。
「ただし、私が泣きそうだったことは記録しない」
「では、匿名で」
「しないでって言ってるよね!?」
放課後、二人はコブラカレーに寄った。
店に入ると、いつものスパイスの匂いがした。
昨日の病院跡に染みついていた消毒薬と埃の匂いとは違う。湿った鉄の匂いでも、月光の冷たさでもない。
生きている人間が、火を使って、鍋をかき混ぜている匂いだった。
コブラは何も聞かず、二人の前にカレーを置いた。
「食え」
「まだ注文してない」
「顔に書いてある」
「何が?」
「今日は黙って温かいもんを食わせろ、ってな」
ミユはスプーンを持ったまま、じっとコブラを見た。
「おじさん、やっぱり何か知ってるでしょ」
「カレー屋はな、客の顔色を見る商売なんだよ」
「それ、もう万能すぎて逆に信用できない」
メグが小さく咳払いした。
「昨日、月光の死神が出ました」
「そうか」
コブラの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、ミユは見逃さなかった。
「知ってる反応した」
「カレーが焦げそうになっただけだ」
「今、鍋触ってないじゃん」
「細けえな、嬢ちゃん」
コブラは、再び鍋に視線を戻した。
しばらく、店内には煮込まれるカレーの音だけがあった。
それから、コブラは低い声で言った。
「死神を名乗るやつに、本物の死は扱えねえ」
ミユはスプーンを止めた。
「……」
「死を道具にするやつは、生きてるやつの顔を見てねえ」
その声は、いつもの冗談めいた調子ではなかった。
どこか遠くのものを見ているような、重い声だった。
「おじさん」
「何だ」
「やっぱりジョーカーにいたことあるでしょ」
「カレー屋はな、客の生き死にを見る商売なんだよ」
「もう隠す気ある?」
「食え。冷める」
「食べるけど!」
ミユはカレーを口に運んだ。
熱かった。
辛かった。
涙が出そうになった。
でもそれは、昨日の怖さとは違う涙だった。
一方、ジョーカー帝都支部。
ゲル大佐は、報告書を前にして沈黙していた。
机の上には、空になった胃薬の瓶が三本並んでいる。四本目の封を切るかどうか、彼は真剣に迷っていた。
戦闘員42号が、いつもよりさらに気まずそうに立っている。
「報告しろ」
「はい。ゲッコウリーパー、活動停止。仮死誘導フィールド崩壊。被害者は全員回復傾向です」
「またか……」
「ただし、死亡反応データ、心拍同期波データ、プリティミュー本人の死相マーキング反応は、ドクター・モルスに転送済みです」
「つまり、モルスは満足か」
「たぶん、とても」
「胃が痛い」
「胃薬、追加で買ってきますか?」
「業務用でな」
「了解です」
自動扉が開いた。
白いコートの裾が、薄暗い司令室の床を滑る。
ドクター・モルスが、穏やかな微笑を浮かべて入ってきた。
「素晴らしい成果でした」
ゲル大佐は、顔を上げた。
「怪人は倒された」
「ええ。しかし、仮死誘導、心拍復帰、心理反応、保護対象への優先順位変化。すべて取れました」
「貴様はそればかりだな」
「研究者ですので」
「研究者という言葉を免罪符にするな」
モルスは、少しも悪びれなかった。
「大佐はお優しい」
「何?」
「怪人を戦力として見ている。部下として扱っている。現場の損耗を嫌う。それは指揮官として美徳です」
「馬鹿にしているのか」
「いいえ。興味深いと言っています」
ゲル大佐の目が細くなる。
「モルス。次は何をするつもりだ」
モルスは、待っていたように微笑んだ。
「死の次は、生産です」
「生産?」
「過去怪人の敗北データ」
モニターに、蜘蛛男の拘束糸反応が映る。
「残骸データ」
蝙蝠伯爵の超音波器官、レイディスコーピオンの毒針、サラセニア・ルージュの蜜腺、マンティスシザーの裁断刃、カメ・レオンの偽装皮膜、ミラクルハニーの幼若化毒針、グレイヴコンドルの回収棺破片、そしてゲッコウリーパーの月光反応核。
「死相反応」
白い三日月のカウントダウンが、画面の中で何度も点滅する。
「そして、プリティミューの戦闘適応ログ」
最後に映ったのは、ミュー・ハンマーを振り上げるプリティミューの姿だった。
モルスは、指先で画面をなぞる。
その動きは、愛おしむようでいて、標本を確認するように冷たかった。
「量産怪人計画を、始動します」
ゲル大佐の表情が険しくなる。
「量産型だと」
「ええ。単体怪人の美しさには欠けますが、戦場実験には向いています」
「戦場実験……」
「一体の怪人に一つのテーマを与える時代は、次の段階へ進みます。多数の素体。多数の反応。多数の敗北。比較実験には、数が必要です」
ゲル大佐は、拳を握った。
「貴様は、怪人を何だと思っている」
「可能性です」
モルスは即答した。
「壊れることで、次の形を証明する可能性」
「……外道め」
その時、通信画面が暗くなった。
首領Xの仮面アイコンが、司令室の中央に浮かび上がる。
「ゲル大佐」
「はっ」
「次の段階へ進め」
ゲル大佐は、一拍だけ沈黙した。
しかし、その沈黙は命令への拒否にはならない。
「……承知しました」
「プリティミューは、死を怖がりながらも止まらなかった」
「はい」
「ならば次は、数で測れ」
モルスは満足そうに目を細めた。
「素晴らしい」
ゲル大佐は、その横顔を見ながら、胃薬の瓶を静かに握りしめた。
ラスト。
暗い研究室。
黒い手袋をしたモルスが、ゲッコウリーパーの三日月鎌の破片を透明なケースへ収める。
破片は、ケースの中で一度だけ白く光った。
ラベルが貼られる。
《J-10 ゲッコウリーパー/死神鎌破片・月光反応核・仮死誘導データ回収済》
モルスはその隣に並ぶケースを眺める。
黒い羽根。
毒針。
蜜腺。
偽装皮膜。
裁断刃。
それらは、倒されたはずの怪人たちの欠片だった。
そして、奥のモニターに新しい表示が浮かぶ。
《J-11 リザードジェネラル/量産型指揮個体・過去怪人能力統合試験準備中》
画面の中で、複数の怪人素体が並んでいる。
同じ顔。
同じ体格。
同じ無機質な呼吸。
その中心に、より大きな爬虫類型のシルエットが立っていた。
鋭い眼が開く。
それに呼応するように、周囲の素体たちも一斉に目を開いた。
モルスは、静かに笑った。
「さて、プリティミュー」
研究室のガラスに、彼の笑みが薄く映る。
「一人なら救える。では、百体なら?」




