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第6節 ― 月光を叩き割れ

 モニターの中で、かなえは眠っていた。


 朝倉家のリビング。見慣れたソファ。カーテンの隙間から差し込む、細い月明かり。テーブルの上には、たぶんミユのために残してくれた夕飯の皿が置かれている。


 何も知らずに、かなえは眠っている。


 その腕に、うっすらと白い三日月の紋様が浮かび始めていた。


「ママ……?」


 プリティミューの声が、廃病院の処置室に小さく落ちた。


 さっきまで戦闘の熱で焼けるようだった胸の奥が、急に冷えた。指先がしびれる。ミュー・ハンマーを握る手に、力が入らない。


 患者たちのカウントダウン。


 メグの腕に刻まれた三日月。


 自分の視界に浮かぶ残り時間。


 そして、母の腕にまで現れた白い印。


 数字が、人の命を、順番待ちの札みたいに並べていく。


 それが、ミユには耐えられなかった。


「ふざけんな……」


 声が震えた。


 怒っているのに、怖さが混じる。


 怖い。


 今すぐ帰りたい。


 かなえのいる家へ走って帰って、カーテンを閉めて、母の腕をつかんで、月明かりの届かない場所へ引きずっていきたい。


 でも、目の前にはメグがいる。


 ベッドの上には、まだ名前も知らない人たちがいる。


 この病院跡のあちこちで、誰かの心拍が、止まる寸前まで追い込まれている。


 ミユは唇を噛んだ。


「ママまで、数字にするな!」


 廊下の天井に逆さまに張りついたゲッコウリーパーは、白い死神仮面の奥で静かに目を細めた。


「誰もが数字になります」


 その声は、冷たかった。


 怒鳴るでもなく、笑うでもなく、ただ事実を読み上げるような声だった。


「残り時間」


 白い鎌の刃が、月光を受けて光る。


「心拍数」


 処置室のモニターが、かすかに電子音を鳴らす。


「生存率」


 ベッドに寝かされた患者の指先が、ぴくりと震えた。


「死は、数えられるものです」


「違う」


 プリティミューは、かすれた声で言った。


「違うって言ってんでしょ……!」


 その時、天井の古いスピーカーから、ざらついたノイズが流れた。


 次に聞こえてきたのは、白衣の男の声だった。


《その通りです。プリティミュー。君の反応もまた、数値化されています》


 ドクター・モルス。


 その声を聞いた瞬間、ミユの中で冷えたものが、一気に熱を持った。


「聞こえてるぞ、白衣の最悪野郎!」


《光栄です。感情語彙が強くなっている。死を前にした怒り。恐怖。保護対象の優先順位。すばらしいデータです》


「すばらしくない!」


 プリティミューはミュー・ハンマーを握りしめた。


 装甲の指が、ぎしりと音を立てる。


「人をデータって呼ぶな」


《呼び方の問題ではありません。現象は記録されます。心拍、発汗、呼吸、判断速度。君が誰を見て、誰を後回しにし、どの瞬間に声を荒げるか》


「うるさい」


《君は今、母親を見ましたね》


 ミユの肩が跳ねた。


《だが、まだ走り出していない。目の前の記録者と患者を捨てていない。興味深い。非常に――》


「黙れ!」


 プリティミューがハンマーを振るう。


 だが、怒りに任せた一撃は空を切った。ゲッコウリーパーは壁を這うように滑り、月光の線の中へ逃げ込む。刃のような白い光が廊下を斜めに裂き、その中で死神の影が三つに増えた。


「怒りは動きを粗くします」


 ゲッコウリーパーが言う。


「恐怖は判断を鈍らせます」


 鎌が振られた。


 プリティミューは横へ跳ぶ。だが、狭い廊下では大きく避けきれない。鎌の先が装甲の肩をかすめ、白い火花が散った。


 視界の端で、自分のカウントダウンが進む。


《00:11:42》


 数字が減る。


 ただそれだけなのに、心臓を直接つかまれているようだった。


《バイト君、解析が終わった》


 アインの声が通信に割り込んだ。


 いつもの冷静な声。


 その平坦さが、今は逆にありがたかった。


「早く!」


《ゲッコウリーパーは死を予告しているわけじゃない。生体時間認識と自律神経系に干渉して、身体を仮死へ誘導している》


「わかりやすく!」


《身体に、“もう終わりだ”と勘違いさせている》


「最初からそう言って!」


《今言った》


「言い方の順番!」


 処置室の隅で、メグが小さく息を吐いた。


 顔色は悪い。腕の三日月紋は、さっきより濃くなっている。けれど彼女は膝をついたまま端末を開き、震える指で病院跡の配線図を呼び出していた。


《補足します》


 ワトソンの声が続いた。


《月光が信号の増幅媒体です。月光を遮断し、心拍同期波を流せば解除できる可能性が高いです》


「月光を遮断……」


 メグが端末画面を指で拡大する。


「病院跡の遮光シャッター、まだ生きています」


「操作できる?」


「できます。ただ、メイン制御盤は廊下の奥です」


 メグが画面をこちらへ向けた。


 そこには、細い廊下の先にある制御盤の位置が表示されていた。


 その真上に、ゲッコウリーパーの反応。


 月光がもっとも強く差し込む、吹き抜けの中央。


「敵の真下じゃん」


「はい」


 プリティミューは、乾いた笑いを漏らした。


「わかりやすく罠!」


 廊下の奥で、ゲッコウリーパーが鎌を軽く鳴らした。


「選択は常に罠です。どれを選んでも、何かを失う」


「その哲学、今いらない!」


 メグが立ち上がろうとした。


 足元がふらつく。それでも彼女は端末を胸に抱え、制御盤の方を見た。


「先輩、私が制御盤へ行きます」


「だめ」


 即答だった。


 メグは目を見開いた。


「でも、私なら小さいですし、陰に隠れて移動できます。先輩がゲッコウリーパーを引きつければ――」


「だめ」


「先輩」


「今回はだめ」


 ミユの声は、自分でも驚くほど強かった。


 いつものように叫んだわけではない。勢いで押し切ったわけでもない。


 ただ、絶対に譲らない声だった。


「メグちゃんは、生きてる。それを後回しにしない」


 メグの表情が止まった。


 端末の光が、眼鏡に反射して揺れる。


「でも、患者さんたちの残り時間は――」


「わかってる」


 プリティミューは、メグの言葉を遮らなかった。


 全部わかっている。


 時間が短い人から助けた方がいい。


 手順が必要だ。


 効率が大事だ。


 それでも。


「メグちゃんを、“後で”にしたくない」


 ミユは息を吸った。


 怖さで肺がきしむ。


 それでも、声を出した。


「アイン、ワトソン。患者さんの解除手順を送って」


《了解》


《処置室内の端末へ、仮死誘導信号の一次解除手順を転送します》


「メグちゃんは、ここでその通りに動いて」


 メグは端末を握りしめた。


「先輩は?」


「私は死神を殴る」


 言ってから、ミユは自分で少しだけ笑った。


 ひどく単純な答えだった。


 でも、今の自分にはそれしかできない。


《ハンマーに心拍同期波を乗せる》


 アインの声が入る。


《ゲッコウリーパーの仮死誘導信号を、外側から砕く》


「技名は?」


《ミュー・バイタルブレイク》


「わかりやすい! 採用!」


 ミュー・ハンマーの側面が開き、小さな光のラインが走った。


 ピンクの発光の奥で、白い波形が鼓動のように脈打つ。一定ではない。速くなり、少し遅くなり、また強くなる。


 心臓の音みたいだった。


 プリティミューはハンマーを肩に担ぎ直す。


 廊下の奥に、ゲッコウリーパーが立っている。


 白い月光の中で、死神は待っていた。


「来ますか」


「行くよ」


「死に近づくと知っていて」


「近づけてるの、そっちでしょ!」


 プリティミューは床を蹴った。


 病院跡の廊下は狭い。床は割れ、古い点滴台や倒れた椅子が邪魔をする。壁には、過去に貼られた案内表示が黄ばんで残っている。


 内科。


 処置室。


 手術室。


 霊安室。


「病院で霊安室の案内見るの、今だけは本当にやめてほしい!」


 叫びながら、プリティミューは走った。


 ゲッコウリーパーが天井を這う。


 鎌が振られる。


 月光が刃になる。


 一本、二本、三本。


 廊下に差し込む月の光が分かれ、それぞれの中から死神の影が生まれた。


 分身たちが、無言で鎌を振り上げる。


「数が多い!」


《月光反射による擬似分身です。本体以外は出力が低い》


「低いなら低いなりに痛い!」


 プリティミューは一体目の影をハンマーで叩き砕く。


 白い粒子が散る。


 すぐ横から二体目が迫る。鎌が足元の影を切り、膝の力が抜けた。転びそうになる。床に手をつき、無理やり体勢を立て直す。


 視界の端の数字が進む。


《00:07:28》


 怖い。


 数字が減るたびに、身体が勝手に逃げたがる。


 もうやめろと言っている。


 止まれ。


 隠れろ。


 母のところへ帰れ。


 それでも、ミユは前へ進んだ。


「死ぬのは怖いよ!」


 ハンマーを振るう。


 死神影が砕ける。


「怖いに決まってるでしょ!」


 もう一体。


 白い鎌が装甲の脇腹をかすめ、火花が散る。


 痛い。


 怖い。


 泣きたい。


「でも――」


 プリティミューは歯を食いしばり、床を蹴った。


「生きてる人を勝手に終わったことにするな!」


 処置室では、メグが端末を操作していた。


 アインから送られてくる解除手順。


 ワトソンが読み上げる患者ごとの心拍状態。


 カウントダウンはまだ止まらない。


 メグの手は震えている。


 自分の腕にも、まだ三日月の印がある。


 怖い。


 でも、ミユが走っている。


 だから、自分も止まれない。


「一番、短い人から」


《ベッド三番。残り三分二十秒。心拍低下》


「了解」


 メグは端末を操作し、病室の補助装置を起動する。


 古い病院の設備が、かすれた電子音とともに動き出した。


 ゲッコウリーパー本体は、吹き抜けの月光の中心に立っていた。


 割れた天窓から、月が見える。


 白く、遠く、冷たい。


 その真下に、制御盤がある。


 プリティミューは息を切らしながら、本体をにらんだ。


 視界の数字が赤く点滅する。


《00:03:12》


 自分の残り時間。


 それが本当の死ではないとわかっていても、身体は騙される。


 息が浅くなる。


 指先が冷たくなる。


 心臓の音が遠くなる。


「死は必ず来ます」


 ゲッコウリーパーは言った。


「誰も逃れられません」


「今じゃない!」


 プリティミューは叫んだ。


「必ず来るからって、今じゃなくていいでしょ!」


 ゲッコウリーパーの鎌が、月光をまとって振り下ろされる。


 プリティミューは真正面から突っ込んだ。


 怖い。


 それでも、怖さごと前へ出る。


「今、生きてる!」


 ミュー・ハンマーが鼓動のように光った。


 白とピンクの光が、廊下を満たす。


「ミュー・バイタルブレイク!」


 ハンマーが床を叩いた。


 ピコッ、という場違いな電子音。


 その直後、低く重い鼓動のような衝撃波が、廃病院全体へ広がった。


 一拍。


 壁の月光粉が震える。


 二拍。


 天井の配線が火花を散らす。


 三拍。


 吹き抜けの遮光シャッターが、ぎぎぎ、と錆びた音を立てて動き出した。


 ゲッコウリーパーが振り返る。


「遮光――」


「遅い!」


 シャッターが一斉に落ちた。


 割れた天窓から差し込んでいた月光が断たれる。


 廊下に伸びていた白い光の線が消え、分身たちが紙を燃やしたように崩れていった。


 処置室のモニターが、次々に表示を切り替える。


《00:02:41》


《停止》


《心拍復帰》


《仮死誘導信号、低下》


 メグが顔を上げた。


 目に涙がにじんでいる。


 でも、声はしっかり出た。


「先輩、患者さんたちの心拍、戻っています!」


 プリティミューは、深く息を吸った。


 自分の腕の三日月紋も、薄くなり始めている。


 処置室の端末には、遠隔死相反応の表示も一つ浮かんでいた。


《朝倉かなえ/月光増幅信号:遮断》


《死相反応:解除傾向》


 ワトソンの声が、静かに続く。


《ミユさん。かなえさんの反応も低下しています。遠隔マーキングは、病院跡の月光増幅信号に同期していたようです》


「……よかった」


 ほんの一瞬だけ、力が抜けそうになった。


 けれど、ゲッコウリーパーはまだ倒れていなかった。


 月光を失っても、白い死神仮面の奥の目は冷たく光っている。


「死相が……消える……?」


 その声には、初めてわずかな揺らぎがあった。


 プリティミューは一歩踏み込む。


「消えるんじゃない」


 ハンマーを両手で握る。


「勝手につけたやつを、剥がすの!」


 ゲッコウリーパーは鎌を構えた。


 白い刃には、まだ細い月光が残っている。廊下の非常灯を反射しただけの光なのに、死神はそれを最後の刃に変えようとしていた。


「死は、消えません」


「知ってる!」


 プリティミューは走った。


「でも、今ここで、あんたの道具にさせない!」


 ゲッコウリーパーの鎌が振り上げられる。


 プリティミューは避けない。


 ハンマーを振り上げ、鎌の刃へ真正面から叩きつけた。


「プリティ・ライフライン・インパクト!」


 衝撃。


 白い光が弾けた。


 三日月鎌に亀裂が走る。


 ゲッコウリーパーの仮面が、初めて大きく歪んだ。


「死相が――」


「今は、生きてる!」


 プリティミューは、もう一度踏み込んだ。


 ハンマーの一撃が、鎌の根元を砕く。


 三日月の刃が割れ、白い破片が宙へ散った。


 ゲッコウリーパーの身体が吹き飛び、廊下の床へ叩きつけられる。白い装甲にひびが入り、黒い体の輪郭がぼやけ始めた。


 病院跡の空気から、冷たい圧力が抜けていく。


 モニターのカウントダウンが、すべて消えた。


 静寂が戻る。


 それは、死の静けさではなかった。


 誰かの息がある静けさだった。


 ゲッコウリーパーは、砕けた鎌の破片を見つめながら、ゆっくり顔を上げた。


「死は、消えません」


 声は崩れていた。


「あなたも、いつか止まります」


 プリティミューは肩で息をしていた。


 膝が震えている。


 怖さは消えていない。


 死という言葉も、数字も、月光も、きっとこの先しばらく忘れられない。


 それでも、彼女は立っていた。


「それでも……なぜ、今にしがみつくのです」


 ゲッコウリーパーが問う。


 プリティミューは、少しだけ視線を落とした。


 処置室の奥で、メグが患者の名前を呼んでいる。


 通信の向こうで、アインとワトソンがまだ指示を出している。


 モニターの中のかなえは、もう月光の届かない部屋で眠っている。ワトソンが遠隔でカーテンを閉じたのだろう。


 まだ、みんな生きている。


 ミユは、ハンマーを握り直した。


「いつか終わるからって」


 息を吸う。


「今、終わらせていい理由にはならない」


 ゲッコウリーパーは、しばらく黙っていた。


 やがて、白い死神仮面の奥で、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「その答えも、記録されるでしょう」


「記録されるのは嫌だけど」


 プリティミューは、少しだけ眉を寄せた。


「でも、その答えは変えない」


「……よい反応です」


 その言葉を最後に、ゲッコウリーパーの身体は白い月光粒子になって崩れていった。


 黒い廊下に、細かな光が舞う。


 それは雪のようでも、灰のようでもあった。


 やがて粒子は消え、床には割れた三日月鎌の破片だけが残った。


 プリティミューはそれを見下ろす。


 勝った、という気分はなかった。


 ただ、終わらなかった。


 今はそれだけで、十分だった。

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