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第5節 ― 死神の鎌は、選ばせる

《00:20:00》


視界の端に浮かんだ数字が、冗談みたいに白く光っていた。


いや、冗談ならよかった。

誰かが悪趣味なアプリを入れて、勝手にホログラムでも映しているのなら、怒って済ませられた。


けれど、手首に浮かんだ白い三日月の紋様は、皮膚の上ではなく、もっと奥に染み込んでいるようだった。


血管の下。

脈のそば。

自分の体が、自分ではない何かに数えられている。


そんな感覚が、ミユの背筋を冷たく撫でた。


「……は?」


声が出た。

間の抜けた、自分でも情けなくなるような声だった。


ゲッコウリーパーは、天井の上で逆さに張りついたまま、白い仮面の奥で静かに笑っていた。


「プリティミュー本人の死亡反応。観測開始」


廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬いた。

そのたびに、ゲッコウリーパーの影が壁の上で伸びたり縮んだりする。

まるで病院そのものが、息を止めたり吐いたりしているみたいだった。


ミユは反射的に後ずさった。


足が、床に置かれた古い点滴スタンドにぶつかった。

金属音が廊下に響く。

その音に混じって、どこかの病室から電子音が鳴る。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


規則正しいはずのその音が、今はやけに不安定に聞こえた。


「ミユ先輩!」


メグの声で、ミユは我に返った。


メグの腕にも、白い三日月紋が濃く浮かんでいる。

さっきよりも、はっきりしていた。

薄い白い傷跡みたいに、肌に貼りついている。


メグのスマホ画面には、自分の残り時間が表示されていた。


《00:13:42》


ミユの胸が、ぎゅっと縮んだ。


「メグちゃん、こっち!」


ミユはメグの手をつかみ、廊下の横にあった処置室へ飛び込んだ。

半開きになっていた扉を肩で押し開ける。

古い消毒液の匂いが鼻を刺した。


処置室の中には、もう使われていない診察台、倒れた丸椅子、錆びた器具棚があった。

窓にはひびが入り、割れた隙間から細い月明かりが差し込んでいる。

ミユは乱暴にカーテンを引いた。


薄い布一枚では、月の光を完全には遮れない。

それでも、ないよりはましだった。


メグを診察台の影に座らせ、ミユは息を吐いた。

肺に入った空気が、冷たい。


「最悪……数字が減ってるの、ほんと最悪……」


口に出した瞬間、視界の端で自分の数字が一つ減った。


《00:19:31》


たった一秒。

でも、その一秒が目に見えるだけで、心臓が嫌な音を立てた。


メグは震える指で端末を操作していた。

顔色は悪い。

唇も白い。

それでも、目だけは必死に画面を追っている。


「メグちゃん、今は休んで」


「無理です」


「無理です、じゃなくて!」


「先輩。病室の人たちの残り時間、私より短いです」


メグは画面をこちらに向けた。


そこには、複数の生体反応らしき数字が並んでいる。


《病室A:00:08:16》

《病室B:00:11:02》

《病室C:00:15:47》

《佐々木メグ:00:13:21》

《朝倉ミユ:00:19:18》


ミユは一瞬、何も言えなかった。


数字が並んでいる。

人の名前が、時間と一緒に並んでいる。


まるで、誰から順番に終わるかを決められているみたいに。


「……やめてよ」


思わず、ミユは呟いた。


「こういうの、ほんとやめてよ」


メグは画面を見つめたまま、小さく息を吸った。


「先輩、私のことは後でいいです」


「その台詞、言ったら怒るやつ!」


「でも、患者さんたちの方が時間が短いです」


「だからって、メグちゃんを後回しにするわけないでしょ!」


声が大きくなった。

処置室の壁に跳ね返って、思ったより鋭く響いた。


メグはびくっと肩を揺らした。

ミユは、すぐに後悔した。


違う。

メグに怒りたいわけじゃない。


怖いのだ。


メグが、自分の命を資料みたいに扱おうとしていることが。

アインなら、そう言うかもしれない。

ワトソンも、必要ならそう判断するかもしれない。

でも、メグ自身にそれを言われると、ミユの中の何かが耐えられなかった。


通信に、アインの声が入った。


《バイト君。時間が短い順に処置すべきだ》


「アイン」


ミユの声は低くなった。


《感情ではなく、救命効率の話だ》


「わかってる。でも、言い方!」


《言い方の問題ではない。これは確率と優先順位の問題だ》


「だから、その言い方が問題なんだってば!」


ミユは拳を握った。

指先が冷えている。

μブレスレットの金属が、やけに固く感じた。


ワトソンの声が、そこに割って入った。


《アイン様。言い換えます》


一拍。


《ミユさん。全員を助けるためには、手順が必要です》


ミユは、喉の奥で止まっていた息を吐いた。


「……それなら聞ける」


《まず、時間の短い被害者の仮死誘導を遅延させます。その間にゲッコウリーパー本体、または月光増幅装置を止める必要があります》


「つまり、病室の人を止めて、死神を殴る」


《おおむね正解です》


「おおむねじゃなくて、完全正解が欲しいんだけど」


《現状では困難です》


「知ってた!」


いつものやり取り。

いつものツッコミ。


でも、声が震える。


ミユは自分の手首を見た。


白い三日月紋。

その上に、見えないはずの数字がちらつく。


《00:18:42》


死ぬかもしれない。

もちろん、正確には仮死だとワトソンは言った。

死亡ではないとアインも言った。


それでも。


「死ぬかも」と思わされるだけで、膝が少し笑う。


家に帰りたい。

ママに会いたい。

夕飯を食べたい。

何でもないテレビの音を聞きたい。

明日の学校のことを考えながら、眠いって文句を言いたい。


怪人も、ジョーカーも、観測も、実験も。

全部知らなかったことにして、布団にもぐりたい。


でも。


処置室の向こうから、また電子音が聞こえた。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


まだ、生きている音だった。


ベッドの上にいる人たちは、まだ終わっていない。

メグもまだここにいる。

自分も、まだ立っている。


ミユは目を閉じた。

怖さは消えなかった。

消えないまま、胸の奥に置いた。


「……メグちゃん」


「はい」


「ここで待ってて。ワトソンの指示で、できる範囲だけやって」


「先輩は?」


「死神を殴ってくる」


メグの目が揺れた。


「先輩も、マークされています」


「うん」


「残り時間、減っています」


「見えてる」


「怖くないんですか」


ミユは、少しだけ笑った。


笑おうとした。

たぶん、ちゃんとは笑えていなかった。


「怖いに決まってるでしょ」


メグは何も言わなかった。


ミユはμブレスレットを掲げた。


「サイエンスパワー・メイクアップ!」


白とピンクの光が、暗い処置室を満たした。


古い器具棚のガラスが光を反射する。

錆びた診察台の影が揺れる。

閉じかけていた月光の細い筋が、その光に押し返されるように薄くなる。


制服の袖がほどけるように光へ変わり、装甲が重なっていく。

胸元のリボン、手足のプロテクター、ピンクのライン。

μブレスレットの中心が脈打つように輝いた。


科学少女プリティミューが、処置室の床に立った。


けれど、変身しても、手首の三日月紋は消えなかった。

装甲の下に、白い光が透けている。


プリティミューはそれを見て、舌打ちした。


「変身しても残るタイプの嫌がらせ、やめてほしい」


《死相マーキングは、生体リズムに直接同期しています》


アインが言う。


「つまり?」


《装甲では防げない》


「そういうことを、変身前に言って!」


《言ったところで結果は変わらない》


「気分が変わる!」


ワトソンが静かに続けた。


《ですが、ミユさんの変身出力は安定しています。恐怖反応は高いですが、戦闘継続は可能です》


「猫型AIに、怖がってるけど働けますって診断された」


《その通りです》


「つらい!」


プリティミューはミュー・ハンマーを呼び出した。

ピンク色の光が手の中に集まり、いつもの、かわいすぎて戦闘向きには見えないハンマーが現れる。


その瞬間、処置室の外の廊下に、鎌が走った。


壁に映った影だけが切られた。

だが、空気が裂ける音がした。


プリティミューはメグの前に立ち、ハンマーを構えた。


廊下の天井。

ひび割れた蛍光灯の上。


ゲッコウリーパーが、逆さに張りついている。

白い死神仮面の下で、黒い爬虫類の瞳が細く光った。


「死を刻まれてなお変わる。興味深い」


「興味で、人の寿命っぽいものを表示するな!」


プリティミューは廊下へ飛び出した。


ゲッコウリーパーの姿が消える。

いや、消えたように見えただけだ。

壁を這っている。

天井から床へ、床から柱へ。

手足の吸盤が、古い塗装の上に黒い円を残していく。


「速っ!」


プリティミューが振り向いた瞬間、背後の壁から鎌が伸びた。


「うわっ!」


ハンマーで受ける。

金属音ではなく、乾いた骨を叩いたような音がした。


鎌の刃は三日月の形をしている。

だが、直接体を切るのではない。

ハンマーに触れた瞬間、プリティミューの視界にノイズが走った。


《00:17:05》


数字が、嫌に大きく見えた。


「数字をアップで見せるな!」


プリティミューは鎌を弾き返した。

ゲッコウリーパーは天井へ跳び、薄いマントのような皮膜を広げる。


割れた窓から月光が差し込む。

その光を浴びた壁に、ゲッコウリーパーの影が増えた。


一つ。

二つ。

三つ。


白い仮面の死神が、廊下の左右に何体も浮かび上がる。


「分身まであるの!?」


《月光による影分身だ。本体は一体だが、鎌の軌道は一部再現される》


アインの声。


「一部って何割!?」


《今、調べている》


「調べ終わってから言って!」


影の鎌が一斉に振られた。


プリティミューは床を蹴り、廊下を走った。

病室の扉、倒れた車椅子、剥がれた案内板。

全部が障害物になる。


大きく跳べば、天井の配管にぶつかる。

思い切りハンマーを振れば、壁の向こうの患者に衝撃が届くかもしれない。

足元には月光の白い筋が落ちていて、そこを踏むたびに、手首の三日月紋がじわりと熱を持つ。


「戦いにくい!」


「病院ですから」


天井からゲッコウリーパーの声がした。


「静かにしてください」


「その貼り紙を怪人が活用するな!」


プリティミューはハンマーを振り上げる。

だが、途中で止めた。


壁の向こう。

病室A。

カウントダウンが残り七分を切っている。


強く叩けば、衝撃で機械が誤作動するかもしれない。

弱く叩けば、敵に届かない。


ゲッコウリーパーはそれを見抜いたように、ゆっくりと天井を歩いた。


「壊せませんね」

「守るものが多い場所では、あなたの力は鈍る」


「うるさい」


「助けたいものが多いほど、選択は遅くなる」


「うるさいって言ってるでしょ!」


プリティミューは床を蹴った。

横の壁を蹴り、天井近くまで跳び上がる。

ハンマーを振る。


影が砕けた。

本体ではない。


背後から鎌が走る。

プリティミューは身をひねったが、避けきれない。

鎌の先端が、影をかすめた。


胸の奥が、一瞬、ぎゅっと縮まる。


《00:15:59》


「減り方、今ちょっと多くなかった!?」


《月光下での接触により、仮死誘導が加速した可能性がある》


「可能性じゃなくて、してる!」


ワトソンの声が入る。


《ミユさん、呼吸が乱れています。三秒吸って、三秒吐いてください》


「戦闘中に呼吸法!」


《有効です》


「わかったよ!」


プリティミューは息を吸った。

三秒。

吐く。

三秒。


その間にも、ゲッコウリーパーは天井を滑っている。

音がない。

ただ、白い仮面が月明かりの中に浮かぶ。


「死とは、もっとも平等な嫌がらせです」


その声は、廊下の奥から聞こえた。


「誰の前にも来る」

「どんな者にも来る」

「ヒーローにも」

「記録者にも」

「母親にも」


プリティミューの動きが、止まった。


「……今、何て言った」


ゲッコウリーパーが、処置室の奥へゆっくりと移動する。

そこには、使われていない小型モニターが並んでいた。

古い監視用設備をジョーカーが改造したものらしく、いくつかの画面が砂嵐を映している。


そのうちの一つが、ふっと明るくなった。


映っていたのは、朝倉家の台所だった。


夜。

カーテンの隙間から、細い月明かりが差し込んでいる。


かなえが、テーブルに突っ伏すように眠っていた。

仕事を終えたあと、そのまま少し休んでしまったような姿だった。

手のそばには、半分だけ畳まれた洗濯物。

流しには、洗いかけの食器。

ミユのために残してあるらしいラップのかかった皿。


その腕に、うっすらと白い三日月紋が浮かび始めていた。


プリティミューの喉が、音をなくした。


「ママ……?」


画面の中のかなえは動かない。

眠っているだけに見える。

でも、その腕の紋様は確かにそこにあった。


ゲッコウリーパーの白い仮面が、モニターの横で月光を反射した。


「次の観測対象です」


プリティミューの手が震えた。


ハンマーの柄を握る指先に力が入る。

入りすぎて、装甲の関節がきしんだ。


「……ふざけんな」


声は小さかった。

でも、廊下の空気が変わるくらい、冷たかった。


ゲッコウリーパーは、静かに首を傾ける。


「家族を優先しますか」

「記録者を優先しますか」

「目前の患者を優先しますか」

「自分の生存を優先しますか」


画面の端で、ミユ自身の数字が減る。


《00:14:22》


ゲッコウリーパーの鎌が、月光の中で白く光った。


「選んでください、プリティミュー」

「死神の鎌は、いつも選ばせるものです」


プリティミューは、画面の中の母を見た。

処置室の中で震えながら端末を握るメグを見た。

病室のベッドで、まだかすかな呼吸を続けている人たちを思った。

そして、自分の手首の三日月紋を見た。


数字は減っている。


怖い。

今すぐ全部捨てて、家に走って帰りたいくらい怖い。


けれど、ハンマーはまだ手の中にあった。


プリティミューは歯を食いしばり、ゲッコウリーパーを睨んだ。


「選ばせるなら、選んでやる」


ハンマーの先端が、処置室の薄暗がりでかすかに光った。


「全部、終わらせない方を選ぶ」

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