第4節 ― ロイヤルムーン記念病院跡
ロイヤルムーン記念病院跡は、ホウジュ区の駅前から少し離れた高台にあった。
かつては民間病院として使われていた建物だ。白い外壁と、半円形の大きな玄関。月を模した古いロゴマーク。名前だけ聞けば、夜景の見える洒落た病院を想像できなくもない。
けれど、今そこにあったのは、そういう場所ではなかった。
取り壊し予定のまま放置された建物は、月明かりの中で、妙に白く浮かび上がっている。窓ガラスはところどころ割れ、ベニヤ板で塞がれた出入口には、古びた立入禁止のテープが何重にも貼られていた。
風が吹くたび、はがれかけた案内板がぎい、と小さく鳴った。
その音だけで、ミユは帰りたくなった。
「怪人って、どうしてこういう場所を選ぶの?」
ミユは、病院跡の前で立ち止まったまま、心底嫌そうに言った。
隣でメグがスマホの地図を確認している。画面の光に照らされた顔は、いつもより白い。腕に浮かんだ三日月の紋様は、昼間に見た時よりも少し濃くなっていた。
「演出効果だと思います」
「メグちゃんまで冷静に分析しないで」
「でも、実際に効果はあります。廃病院、月光、死亡予告。怪人側のコンセプトが統一されています」
「怪人にコンセプト統一とか求めてないんだけど!」
ミユは思わず声を上げたが、その声はすぐに夜の静けさに吸い込まれた。
病院跡の敷地は、妙に静かだった。
遠くでは車の音がしている。駅の方角にはまだ街の明かりもある。なのに、この敷地の中だけ、空気が切り離されているようだった。
月明かりが、割れた窓から廊下の奥へ差し込んでいる。
白く、細く、冷たい光。
ミユはその光を見るだけで、メグのスマホに届いた通知を思い出した。
《死亡予定時刻:本日 22:47》
あんなもの、ただの脅しだ。
そう思いたかった。
けれど、歩道橋で倒れていた会社員の映像が、頭から離れない。腕に刻まれた三日月。画面に表示された《00:00:00》。死んではいない。ワトソンはそう言った。仮死状態だと。
でも。
死んでいないことと、怖くないことは、ぜんぜん違う。
「メグちゃん」
「はい」
「無理してない?」
メグは、スマホから顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れている。けれど、彼女はすぐに背筋を伸ばした。
「しています」
「正直!」
「正直に言わないと、先輩が見落とします」
「そこまで信用されてない?」
「先輩は、目の前の敵を見ると、自分の怪我を忘れるので」
通信から、ワトソンの声が入った。
《その傾向はあります》
「猫型AIまで!」
ミユは抗議したが、言い返しきれなかった。
実際、そういう自覚は少しある。痛くても、怖くても、誰かが危ないと、そちらへ走ってしまう。格好いい理由ではない。ただ、あとで後悔する自分が嫌なだけだ。
ミユはメグの腕を見る。
三日月紋は、皮膚の上に白い痣のように浮かんでいた。光の角度によって、そこだけ薄く発光しているようにも見える。
「……それ、痛い?」
「痛みはありません。ただ、少し寒いです」
「寒い?」
「体の中から、冷えてくる感じがします」
メグは、淡々と言おうとしていた。
でも、声の最後が少し震えていた。
ミユは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「やっぱ帰ろう」
「だめです」
「即答しないで」
「ここで引き返したら、ほかの被害者の場所がわかりません」
「メグちゃんのカウントダウンも進むでしょ!」
「だからこそです」
メグはスマホを握りしめた。
「私がマーキングされたことで、ゲッコウリーパーの信号が追跡できます。たぶん、向こうは私を餌にしています。でも、餌だからこそ、釣り糸を辿れます」
「自分を餌って言うな!」
ミユの声が、夜に少し強く響いた。
メグは目を瞬かせる。
ミユは、自分でも驚くくらい怒っていた。
「記録するのはいい。調べるのもいい。メグちゃんがすごいのは、もう知ってる。でも、自分のことを餌とか言うのはだめ」
「先輩……」
「こっちは、怖いんだから」
言ってから、ミユは少しだけ視線をそらした。
怖い。
その言葉を口に出すと、余計に怖くなる気がした。
けれど、もう隠せなかった。
「メグちゃんが倒れたら、私、たぶんちゃんと戦えない」
メグは、すぐには答えなかった。
ただ、スマホを持つ手に力を込め、それから小さく頷いた。
「……わかりました。餌という表現は訂正します」
「うん」
「観測用誘導対象です」
「言い方を硬くしただけ!」
《意味はほぼ同じです》
「ワトソンも黙って!」
少しだけ、空気が緩んだ。
その緩みが、今はありがたかった。
ミユは深く息を吸って、病院跡の玄関へ向かった。
入り口の自動ドアは、当然動かなかった。ガラスは割れ、内側から古いカートが倒れ込んでいる。メグが手早く周囲を確認し、ワトソンが人間アバターの姿で前に出た。
今日のワトソンは、黒いパーカー姿の少年アバターだった。前回の幼い姿のバグは直っているらしい。だが、薄暗い廃病院に少年が立っていると、それはそれで少し怖い。
「ワトソン、こういう場所で無表情なのやめて。ホラー度が上がる」
「表情を増やしますか」
「急に笑うのもやめて」
「難しい要求です」
ワトソンは淡々と言いながら、割れた扉の隙間に手を差し入れた。
内部のロックが、かちり、と鳴る。
「開きました」
「不法侵入感がすごい」
「相手が先に不法利用しています」
「それはそう」
三人は、病院跡の中へ入った。
古い受付ロビーは、埃とカビの匂いがした。
正面には、かつて受付だったカウンターがある。壁には剥がれかけた診療科案内。内科、小児科、外科、整形外科。文字の一部が剥がれていて、ところどころ読めなくなっている。
床には割れた蛍光灯の破片。隅には車椅子が一台、誰かを待つように置き去りにされていた。
メグが小声で言う。
「ここ、本当に病院だったんですね」
「そりゃ病院跡だからね」
「いえ、怪人の作ったセットみたいに見えたので」
「わかるけど、その感想もけっこう怖い」
ミユは受付の奥を覗いた。
月明かりが廊下に落ちている。窓から差し込む白い光が、床に細長い帯を作っていた。
その光の中を歩くのが、嫌だった。
理由はわからない。
ただ、あの光に触れると、自分の中の何かが数えられてしまうような気がした。
《ミユさん》
ワトソンの声が低くなる。
《奥から複数の微弱な生命反応があります》
「生きてる?」
《はい。ただし、通常より体温と心拍が低下しています》
ミユの顔が強ばった。
「仮死ってやつ?」
《可能性が高いです》
「場所は?」
ワトソンが廊下の奥を指す。
《一階処置室、および旧病棟側です》
「行こう」
ミユは歩き出した。
足音が、廊下に響く。
ぺた、ぺた、と、メグの靴音が続く。ワトソンの足音はほとんどしない。ミユはそれが少し怖くて、振り返って確認した。
「います」
「無言で後ろに立たないで!」
「了解しました。存在を主張します」
「主張もしすぎないで!」
くだらない会話をしていないと、廊下の奥へ進めなかった。
壁には、古いポスターが残っている。
《健康診断を受けましょう》
《夜間外来はこちら》
《静かにしてください》
その最後の文字だけが、妙に目に入った。
静かにしてください。
まるで、この病院全体にそう言われている気がした。
奥の処置室の扉は、半開きだった。
ミユは息を止め、そっと覗き込む。
そこに、人がいた。
ベッドの上に、三人。
年配の男性。制服姿の女子生徒。作業服の女性。
全員、目を閉じている。顔色は悪い。だが、胸はごくわずかに上下していた。
腕には、白い三日月の紋様。
そして、それぞれのベッドの上には、小さなモニターが吊るされていた。
《00:18:24》
《00:12:03》
《00:09:41》
数字が、冷たく減っていく。
ミユは、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。
「これ……全部助けなきゃいけないやつじゃん」
声がかすれた。
メグがすぐに端末を構える。
「三人だけではないかもしれません。別室にも反応があります」
「何人いるの?」
《現時点で確認できる限り、七名です》
ワトソンが答えた。
七名。
数字としては、少ないのかもしれない。
けれど、ベッドの上にいる一人ひとりを見た瞬間、その数字はただの数字ではなくなった。
この人たちは、さっきまで普通に歩いていたかもしれない。誰かとメッセージをしていたかもしれない。帰ったら夕飯を食べるつもりだったかもしれない。
それが今、こんな場所で、勝手に残り時間を表示されている。
ミユの手が震えた。
《バイト君》
アインの声が通信に入る。
《全員の生体反応はまだ残っている。だが、時間は限られる》
「どうすればいい」
《ゲッコウリーパー本体を止めるか、仮死誘導信号を解除する》
「つまり、怪人を倒すか、機械を止めるか」
《そうだ》
「両方やる」
《予想通りの非効率な回答だね》
「うるさい。効率だけで人を助けられるなら、私いらないでしょ」
言った瞬間、ミユ自身も少し驚いた。
そんな格好いいことを言うつもりはなかった。
でも、今はそれが本音だった。
メグが、ちらりとこちらを見る。
「先輩」
「何?」
「今の、少しヒーローっぽかったです」
「今言わないで! 恥ずかしくて出力下がる!」
その時だった。
廊下の奥で、月光が揺れた。
白い光の帯が、壁の上をゆっくり滑る。
その中に、影がいた。
天井に張りついた、人型の影。
ヤモリのように手足を広げ、白い死神仮面だけが月明かりを受けてぼんやり浮かぶ。長い尾の先が、三日月型の鎌へ変形している。
ゲッコウリーパー。
その怪人は、逆さまのまま、静かに笑った。
「全員を救う。美しい願望です」
ミユはμブレスレットを握った。
変身する。
今すぐ。
そう思った瞬間、ゲッコウリーパーの鎌が音もなく振られた。
狙いはミユではない。
処置室の窓にかかっていたカーテンだった。
古びた布が、すぱりと切り裂かれる。
外から月光が差し込んだ。
ベッドの上の三日月紋が、白く強く光る。
モニターの数字が、一気に減った。
《00:07:59》
《00:05:12》
《00:03:40》
ミユの血の気が引いた。
「なっ……!」
「戦えば、こちらが進みます」
ゲッコウリーパーは、天井に張りついたまま言った。
「助ければ、私が逃げます」
鎌の先が、ゆっくりとミユを指す。
「さあ、選んでください」
胸の奥が、ぎゅっと押し潰された。
戦う。
助ける。
追う。
止める。
どれも必要で、どれか一つしか選べないように突きつけられる。
ミユは唇を噛んだ。
「選ばせる敵、多すぎない!?」
声は怒っていた。
けれど、その奥には、はっきりと恐怖があった。
ゲッコウリーパーは、するすると天井を移動した。指先の吸盤が、古い天井板に黒い跡を残す。白い死神仮面の奥で、細い目が月光を反射した。
「死は選択です」
「違う」
「誰を先に救うか。誰を後に回すか。誰を諦めるか」
「違うって言ってるでしょ!」
ミユは一歩踏み出した。
だが、ゲッコウリーパーの姿が、月光の中でぶれた。
影が増える。
一体、二体、三体。
壁に映った死神の影が、それぞれ鎌を持ち上げた。
《死神分身です》
ワトソンが言う。
《本体は一体ですが、鎌の軌道を影に反射させています》
「つまり?」
《全部避けた方が安全です》
「それ日本語っていうより無茶振り!」
影の鎌が走った。
ミユは反射的にメグを突き飛ばし、自分も床へ転がった。
鎌はミユの身体ではなく、床に落ちた影をかすめた。
ぞくり、と全身が冷えた。
切られたのは肉体ではない。
なのに、心臓が一瞬だけ鼓動を忘れたような感覚があった。
「先輩!」
メグの叫びが聞こえた。
ミユは立ち上がろうとした。
けれど、足に力が入りにくい。
手首が冷たい。
見ると、ミユの右手首に、白い三日月の紋様が浮かんでいた。
薄く、けれど確かに。
皮膚の下に、月が埋め込まれたみたいに。
《バイト君!》
アインの声が鋭くなった。
《君にも死相マーキングが入った》
「……は?」
ミユの視界の端に、白い数字が浮かぶ。
《00:20:00》
一秒後。
《00:19:59》
数字が減った。
目の前の世界が、少し遠くなる。
死ぬわけじゃない。
仮死だ。
わかっている。
わかっているのに、数字が減っていくのを見るだけで、呼吸が浅くなった。
あと二十分。
その文字が、頭の中で何度も響く。
ゲッコウリーパーは、天井からゆっくりと顔を下ろした。
「プリティミュー本人の死亡反応」
白い仮面が、笑ったように見えた。
「観測開始」
ミユは、震える手でμブレスレットを握りしめた。
怖い。
はっきりと、怖かった。
でも、処置室のベッドでは、数字が減り続けている。
メグの腕にも、三日月が光っている。
ミユは奥歯を噛みしめた。
「……観測とか、実験とか」
声が震える。
それでも、ミユは顔を上げた。
「人の命っぽいものを、勝手に表示して遊ぶな」
ゲッコウリーパーは答えない。
ただ、月光の中で、鎌を静かに持ち上げた。




