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第3節 ― ジョーカー帝都支部、死を測る実験

 ジョーカー帝都支部の会議室は、いつもより暗かった。


 照明が落ちているわけではない。壁面モニターも、作戦卓も、天井に走る白いラインライトも、正常に点灯している。だが、その光はどこか冷たく、室内全体を病院の処置室のように見せていた。


 原因は、おそらく作戦卓の上に広げられた資料だった。


 黒い表紙のファイル。


 その表面には、白い文字でこう記されている。


 ――《月光死相実験計画書》。


 ゲル大佐は、それを見ただけで胃のあたりを押さえた。


「……名前からして胃に悪い」


 低くつぶやいてから、手元の錠剤ケースを開ける。


 白い錠剤を二粒、いや三粒取り出しかけて、さすがに思い直し、二粒だけ水で流し込んだ。


 会議室の隅では、戦闘員42号が、さらに追加の資料束を抱えて直立していた。いつもの黒い戦闘員スーツ。顔を覆うマスク。だが、その立ち姿には明らかに気まずさがにじんでいる。


「大佐」


「何だ」


「今回の作戦資料、追加分です」


 ゲル大佐は、目だけで42号を見た。


「何ページだ」


「百二十ページです」


 沈黙。


 ゲル大佐のこめかみが、ぴくりと動いた。


「死神より先に私の胃が死ぬ!」


「すみません! ですが、ドクター・モルスから、被験者別、照射角度別、仮死誘導時間別の観測項目をすべて添付するようにと!」


「添付するな! 要約しろ!」


「要約版もあります」


「何ページだ」


「四十八ページです」


「それは要約ではない!」


 ゲル大佐は額を押さえた。


 グレイヴコンドル作戦の後始末だけでも頭が痛い。過去怪人の残骸データは大半をプリティミューに休眠させられ、回収棺カプセルも破壊された。だが、ドクター・モルスの研究施設へ一部データが転送されたことで、首領Xは作戦を「良好」と評価した。


 良好。


 怪人が倒されても、施設が破壊されても、現場が失敗しても。


 首領Xは、観測できれば良好と言う。


 その感覚が、ゲル大佐にはまだ飲み込めない。


 悪の組織に所属している自覚はある。世界征服を掲げる組織の幹部である自覚もある。だが、怪人を投入し、作戦を立て、現場を動かす以上、そこには勝敗があり、部下があり、責任がある。


 負けた怪人を、素材や症例として笑って扱うことまでは、まだ受け入れた覚えがない。


 会議室の自動扉が、音もなく開いた。


「大佐、胃の具合はいかがですか」


 静かな声だった。


 白いコートの裾が、床を撫でるように揺れる。


 ドクター・モルスが入ってきた。


 白衣とも医師のコートともつかない、清潔すぎる白い外套。黒い手袋。整った顔。薄く笑っている口元。目は笑っていない。いや、笑っているのかもしれない。ただ、その笑いは人の痛みや不安に向ける種類のものではなかった。


 後ろには、銀色のカートが一台押されている。


 カートの上には、小型の標本ケースが並んでいた。


 黒羽根タグの破片。


 割れた回収棺カプセル。


 そして、月光を思わせる白い粉末が封入された試験管。


 42号が小さく後ずさる。


「ドクター・モルス……」


「お疲れさまです、42号。資料運搬、助かりました」


「あ、はい。どうも……」


 礼を言われたのに、42号はなぜか余計に怯えた。


 ゲル大佐は椅子に座ったまま、モルスを睨む。


「モルス」


「はい」


「今回は大変美しい実験になります――などと言いに来たのなら、先に言っておく。貴様の美しいは、だいたいろくでもない」


 モルスは、薄く微笑んだ。


「ありがとうございます」


「褒めていない!」


「ですが、大佐。美しさとは、必ずしも快いものとは限りません。生命が停止へ近づく時、そこには非常に明瞭な秩序が現れます。心拍、体温、意識反応、筋活動、瞳孔反射。すべてが一方向へ向かう。その過程は、実に――」


「やめろ」


 ゲル大佐の声が低くなった。


 42号がびくりと肩を震わせる。


 モルスは、口を閉じた。だが、不快そうではない。むしろ、ゲル大佐の反応そのものを観察しているようだった。


「……説明は簡潔にしろ」


「承知しました」


 モルスは作戦卓の端末に手をかざした。


 モニターが切り替わる。


 映し出されたのは、黒と白銀の怪人だった。


 細身の身体。壁面に張りつくような四肢。指先には黒い吸盤状の器官が並び、照明を受けて小さな目のように光っている。


 顔の半分は、白い死神仮面のような装甲に覆われていた。


 背中には、マントにも翼にも見える薄い皮膜。


 そして尾の先端は、三日月型の鎌へと変形している。


「ゲッコウリーパー」


 モルスは、その名を口にした。


「月光反応性の怪人細胞と、ヤモリ型壁面吸着構造、さらに死相マーキング機能を統合した実験怪人です」


「死相マーキングだと」


「対象に死亡予告のような表示を刻みます。皮膚、影、端末画面。どこに出るかは環境によりますが、もっとも心理圧の高い形式を選びます」


「死亡予告などと、悪趣味な真似を」


「実際に死を予告しているわけではありません」


 モルスは穏やかに言った。


「ゲッコウリーパーは、対象を即死させる怪人ではありません。死亡に限りなく近い仮死反応を発生させる怪人です」


 モニターに、医療波形が表示される。


 心拍数が落ちる。


 体温が下がる。


 意識レベルが低下する。


 脳波が弱くなり、呼吸が浅くなる。


 すべての線が、ゆっくりと静かな方へ沈んでいく。


「一定時間が経過すると、対象の自律神経系に干渉し、体温、心拍、意識反応を極端に低下させます。外見上は死亡に近い。ですが、適切な刺激を与えれば復帰可能です」


「一般人を仮死状態にして、何が作戦だ」


 ゲル大佐の声には、明確な怒りが混じっていた。


 モルスは、少し首を傾げる。


「仮死です。死亡ではありません」


「屁理屈を言うな」


「生存限界を測るには、限界に近づける必要があります」


 会議室の空気が、さらに冷えた。


 42号は資料束を抱えたまま、息を殺している。


 ゲル大佐は立ち上がった。


 椅子の脚が、床を擦って硬い音を立てる。


「モルス。現場は貴様の実験台ではない」


「大佐」


「怪人も、人間も、街も、プリティミューも。すべて症例に見えているのか」


「現場とは、もっとも情報量の多い実験環境です」


 モルスは即答した。


 その返答には迷いがなかった。


 ゲル大佐は、拳を握る。


 殴りかかる寸前で踏みとどまったのは、彼が幹部としての理性を残していたからか。それとも、この男を殴ったところで、首領Xの方針は変わらないと知っていたからか。


 おそらく、その両方だった。


 その時、会議室のメインモニターが暗転した。


 照明が一段落ちる。


 黒い画面の中央に、仮面のようなアイコンが浮かび上がった。


 首領X。


 その存在が映っただけで、室内の全員が姿勢を正した。


 ゲル大佐も、怒りを押し殺して敬礼する。


「はっ、首領X」


 モルスは静かに頭を下げた。


 42号も慌てて資料束を落としかけながら敬礼する。


「ゲル大佐」


 声は、加工されていた。


 男とも女とも、若いとも老いているとも判断できない声。


 だが、その一言には、逆らう余地を奪う圧があった。


「実験を続行せよ」


 ゲル大佐の表情が、かすかに強張る。


「……承知しました」


「プリティミューは、敵の残骸利用に怒りを示した」


「はい」


「彼女は、倒すべき相手にも、終わり方を求めた。ならば次は、死そのものへの反応を見る」


「死そのもの、ですか」


「全員を救えないかもしれない時、彼女は何を選ぶか」


 仮面アイコンの奥で、何かがこちらを見ている気がした。


 ゲル大佐は、その視線を感じるたびに、胃の奥が冷たくなる。


「身近な者が死相を刻まれた時、彼女は冷静さを保てるか」


 首領Xは淡々と続ける。


「一般人と友人。友人と母親。母親と自分自身。優先順位を迫られた時、何を基準に動くか」


 ゲル大佐は答えられなかった。


 それは作戦命令というより、解剖手順の読み上げに近かった。


「観測せよ」


「……はっ」


 ゲル大佐は、深く頭を下げる。


 モニターの仮面アイコンが、一瞬だけ明滅した。


「ドクター・モルス」


「はい、首領X」


「プリティミューは殺すな」


「もちろんです」


 モルスは、微笑んだ。


「彼女は、まだ貴重ですから」


 首領Xの通信が切れた。


 会議室に、機械の低い駆動音だけが残る。


 ゲル大佐は、ゆっくりと顔を上げた。


「……貴様」


 モルスは平然としている。


「ご安心ください、大佐。プリティミューを死なせるつもりはありません。少なくとも、今は」


「今は、だと?」


「観測期間は長い方がよい」


 42号が、完全に顔を引きつらせた。


「ドクター、言い方が怖いです」


「そうですか?」


「はい。すごく怖いです」


「では、次回から表現を調整しましょう」


「中身も調整してほしいです……」


「42号」


 ゲル大佐が低く呼ぶと、42号は即座に直立した。


「はい!」


 その時だった。


 天井の影が、ぬめるように動いた。


 照明の届かない隅から、白い仮面が逆さに現れる。


 ゲッコウリーパーだった。


 指先の吸盤が天井に張りつき、黒い体が重力を無視するようにぶら下がっている。背中の皮膜がゆっくりと揺れ、尾の三日月鎌が白く光った。


「月は高くなります」


 その声は、ひどく静かだった。


 囁きのようでありながら、耳の奥に冷たい金属を差し込まれるような響きがある。


「死相を刻むには、よい夜です」


 42号が、思わず一歩後退した。


「大佐」


「何だ」


「今回の怪人、普通に怖いです」


 ゲル大佐は、ゲッコウリーパーを睨んだまま言った。


「私もそう思っている」


 ゲッコウリーパーは、逆さのまま首を傾けた。


「恐怖反応、確認」


「確認するな」


 モルスが満足そうに微笑む。


「ゲッコウリーパー。第一段階は完了していますね」


「はい。一般被験者、三名。仮死誘導反応、良好。記録者候補への死相付与、完了」


 モニターが切り替わる。


 映し出されたのは、佐々木メグのデータだった。


 学校での記録。


 怪人事件ログの投稿履歴。


 プリティミュー出現地点との同行率。


 そして、腕に浮かんだ白い三日月紋の映像。


 その横に表示される予定時刻。


 ゲル大佐の目が細くなる。


「まずは記録者、か」


 モルスは、軽く頷いた。


「佐々木メグ。プリティミューの周辺観測者として、非常に優秀です。彼女の危機は、プリティミューの判断に強い影響を与える」


 次の画面。


 朝倉かなえ。


 買い物帰りの映像。


 自宅の玄関。


 台所に立つ姿。


 ミユの髪を直す手。


「次に母親」


 ゲル大佐の声が低くなった。


「朝倉かなえに手を出しすぎるなと言ったはずだ」


「大佐。すでに彼女は観測対象です」


「貴様が決めることではない」


「首領Xが承認されています」


 その一言で、ゲル大佐は黙るしかなかった。


 モルスはさらに画面を切り替える。


 最後に映ったのは、プリティミュー。


 白とピンクの装甲。


 ミュー・ハンマー。


 戦闘中の表情。


 怖がりながらも前に出る少女。


「最後に、プリティミュー本人」


 モルスの声に、うっとりとした響きが混じった。


「自分自身に死相が刻まれた時、彼女は誰を優先するのか。自己保存か、友人か、母親か、一般人か。それとも、また別の答えを選ぶのか」


「モルス」


 ゲル大佐は、静かに言った。


「はい」


「これは作戦だ。実験ではない」


 モルスは、少しだけ笑った。


「同じことです」


「違う」


 ゲル大佐の声は、低く、重かった。


「現場には、戻ってくる者と、戻ってこない者がいる。貴様はそれを数字にする。私は報告書にする。それでも、同じではない」


 モルスは答えなかった。


 ただ、ゲル大佐を見ていた。


 その沈黙の中で、ゲッコウリーパーが天井を這う音だけが、かすかに聞こえた。


 かさり。


 かさり。


 乾いた爪が、月のない室内を這う音。


 やがて、ゲッコウリーパーは天井の換気ダクトへと滑り込むように消えていった。


「では、観測本番へ移行します」


 モルスはカートの上の試験管を一本手に取る。


 白い粉末が、ガラスの中で月光もないのに淡く光っていた。


「ロイヤルムーン記念病院跡。あの場所は、今回の実験に最適です」


 ゲル大佐は、顔をしかめる。


「廃病院か」


「ええ。月光がよく入り、閉鎖空間で、患者役を配置しやすい」


「患者役などと言うな」


「では、被験者」


「余計に悪い!」


 42号が、小さく手を挙げた。


「あの、大佐」


「何だ」


「自分、今回の現場班じゃないですよね?」


「なぜだ」


「死神とか廃病院とか、普通に無理です」


「お前は戦闘員だろうが!」


「戦闘員にも苦手ジャンルがあります!」


 ゲル大佐は、疲れたように目を閉じた。


「……42号」


「はい」


「胃薬を追加で用意しておけ」


「通常サイズで?」


「業務用だ」


「了解しました!」


 42号が敬礼する。


 モルスは、それを見て薄く笑った。


「大佐は、部下思いですね」


「貴様に言われると皮肉にしか聞こえん」


「事実を述べただけです」


「貴様の事実は、いつも温度が低すぎる」


 モルスは答えず、会議室のモニターに視線を戻した。


 画面の中で、ロイヤルムーン記念病院跡の外観が表示される。


 古い建物。


 割れた窓。


 月明かりを受けて白く浮かぶ外壁。


 その屋上に、白い死神仮面の影が張りついている。


 モルスは、黒い手袋の指先で画面をなぞった。


「さて、プリティミュー」


 その声は、研究対象に向ける声だった。


 祈りでも、憎悪でも、勝利宣言でもない。


 ただ、記録を待つ声。


「君は、死を数字で見せられた時、どんな顔をするのでしょうね」


 ゲル大佐は、その背中を睨みながら、胃薬の空き瓶を握りしめた。


 薄いプラスチックが、ぱきりと小さく音を立てた。

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