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第2節 ― 死亡予告は、スマホに届く

 昼間の歩道橋は、あまりにも普通だった。


 宝珠区の駅前から少し外れた、住宅街と商店街をつなぐ歩道橋。朝夕は通学路になり、昼間は会社員や買い物帰りの人がぽつぽつ通る。階段の下には自転車が二台止まり、近くのコンビニからは揚げ物の匂いが流れてきていた。


 遠くには駅前ビジョンが見える。昨日まで怪人事件の噂で騒がしかったその画面も、今は冬物セールの広告を流している。


 青空。

 車の音。

 ランドセルを背負った子どもの笑い声。

 コンビニの自動ドアが開く音。


 どれも日常だった。


 だからこそ、ミユは足を止めた。


「……ここで、人が倒れたんだよね」


 歩道橋の中ほどで、ミユは手すりを見た。


 昨夜、最初の被害者が倒れていた場所。救急搬送された会社員は死亡ではなく、極度の仮死状態。ワトソンはそう言った。けれど、通報時には脈がほとんど取れず、体温も異常に低かったらしい。


 つまり、死んでいない。


 でも、死んだように見えた。


 その差は、ミユにはあまり慰めにならなかった。


「写真で見たより、普通の場所ですね」


 メグが隣でスマホを構えながら言った。今日も制服の上にカーディガンを羽織り、片手にはノート、もう片手にはスマホ。レンズ越しに周囲を確認しながらも、声だけは落ち着いている。


「普通の場所で変なこと起きるの、いちばん嫌じゃない?」

「はい。だから記録します」

「メグちゃん、最近そこに迷いがなくなってきたね」

「迷っている間にも、情報は消えます」

「かっこいいこと言ってるけど、危ないところに突っ込む言い訳にも聞こえる」


 ミユがじとっと見ると、メグは視線を逸らした。


「……今回は、先輩と一緒に来ています」

「一緒に来てるから安全ってわけじゃないからね?」


 その少し後ろで、ワトソンが手すりを観察していた。


 今日は猫ではない。人間アバターの姿だ。小柄な少年のような外見に、研究所から持ってきた簡易分析キットを肩から下げている。無表情に近い顔で、手袋をした指先が手すりの端をなぞった。


「白色粉末状の残留物を確認しました」


 ワトソンは、小さな採取棒で粉をすくい、携帯分析器へ入れる。数秒後、端末画面に細かい波形が走った。


「月光反応性の怪人細胞です」

「日本語で」

「月の光で動く怪人の粉です」

「最初からそう言って」

「厳密には、月光そのものではなく、特定波長の反射光を増幅媒体として利用する――」

「日本語でって言ったよね?」

「月っぽい光で元気になる粉です」

「急にざっくりした!」


 いつものやりとりのはずなのに、ミユは笑いきれなかった。


 月っぽい光で元気になる粉。


 言葉だけなら少し間抜けだ。けれど、それが人を仮死状態に追い込む怪人の痕跡だと思うと、途端に喉の奥が冷えた。


 メグはスマホを操作し、昨夜から集めていた投稿を地図上に並べている。


「被害者の位置、やっぱり規則性があります」


 画面には宝珠区の地図が表示されていた。赤いピンがいくつも立っている。


「歩道橋。月極駐車場。ビルの非常階段。公園の時計台前。それから、駅前立体駐輪場の屋上」

「ぜんぶ夜?」

「はい。発生時刻は二十一時以降。共通点は、街灯が弱くて、月明かりが入りやすい場所です」

「夜道全部アウトじゃん」


 ミユは思わず空を見上げた。


 昼の空には月は見えない。けれど、夜になればまた昇る。昨日と同じように。何も知らない人たちの上に、普通に。


「月、出禁にできないかな」

「天体への出禁措置は難しいと思われます」

「真面目に返さなくていいから」

「月光を遮る対策なら可能です」

「それは後でちゃんと聞く」


 ミユは歩道橋の下を見た。


 人が歩いている。買い物袋を持った女性。スマホを見ながら通る会社員。小学生の二人組。誰も、ここで死神だの仮死だの怪人細胞だのという話をしているとは思っていない。


 それが普通だ。


 普通の人は、怪人事件の現場を歩きながら、怪人のことを考えたりしない。


 ミユは少しだけ拳を握った。


 自分が戦っている間にも、こういう場所は日常のまま残っている。戦いが終わったあと、誰かがまたそこを歩く。だから本当は、怖いものを残してはいけない。


 第九話で見た黒い羽根のことを思い出す。


 倒したはずの怪人の残骸。

 残された戦闘データ。

 眠らせたはずのものを、掘り返す手。


 今度は、死神。


 モルス。


 ミユの胃のあたりが、きゅっと縮んだ。


「先輩?」


 メグがこちらを見ていた。


「顔色、悪いです」

「もともと寝不足顔だから」

「今回は、寝不足とは別の顔です」

「メグちゃん、観察眼が鋭くなりすぎてちょっと怖い」

「先輩が隠すの下手なんです」


 そう言われると、言い返せなかった。


 その時だった。


 メグのスマホが鳴った。


 短い通知音。


 軽い音のはずなのに、歩道橋の上で妙に大きく響いた。


「え?」


 メグが画面を見る。


 次の瞬間、その顔から血の気が引いた。


「メグちゃん?」


 ミユが覗き込む。


 送信者名は表示されていなかった。

 ただ、白い文字だけが黒い画面に浮かんでいる。


《観測協力者候補:佐々木メグ》


 ミユの息が止まった。


 その下に、続きが出る。


《死亡予定時刻:本日 22:47》


《月光下でお待ちください》


 時間が、一瞬だけ止まったように感じた。


 風の音も、車の音も、通行人の足音も遠ざかる。


 ミユの視線は、画面の数字に釘づけになった。


「……なに、これ」


 声が、自分のものではないみたいに乾いていた。


 メグはスマホを持ったまま固まっている。唇がわずかに震えていた。それでも、彼女の親指は画面の端に動いた。


「記録、します」


 カシャ、とスクリーンショットの音が鳴る。


「今それやる!?」


 ミユは思わず叫んだ。


 メグは小さく息を吸う。顔は青い。それでも、目だけは必死に画面を見ていた。


「やらないと、あとで解析できません」

「そういうところだよ! そういうところがメグちゃんなんだけど、今はもうちょっと怖がっていいところ!」

「怖いです」

「怖いならスマホ置いて!」

「怖いから記録してます!」


 その言葉に、ミユは詰まった。


 メグの手は震えていた。

 けれど、スマホを落とさないように、両手でぎゅっと握っている。


 強いわけではない。

 怖くないわけでもない。

 メグは、怖いまま記録している。


 それがわかってしまったから、ミユは何も言えなくなった。


 その時、メグが左腕を押さえた。


「……っ」


「メグちゃん?」


 カーディガンの袖口から、白い光が滲んでいる。


 ミユは慌てて袖をめくった。


 メグの腕に、うっすらと白い三日月の紋様が浮かんでいた。


 皮膚の上に描かれたような、けれどインクではない。冷たい光を帯びた、傷のような紋様。


 ミユの背筋が凍った。


「メグちゃん……これ」


「痛みは、ありません」


 メグはそう言った。


 声が少し裏返っていた。


「でも、冷たいです」


「ワトソン!」


 ミユが叫ぶと、ワトソンはすぐにメグの腕へ分析器を向けた。画面にノイズが走る。


「月光死相マーキングと推定。生体リズムへの干渉が始まっています」

「解除は!?」

「現時点では不明です」

「不明って言葉、今いちばん聞きたくない!」


 ミユはメグの腕を掴んだ。


「とりあえず、月明かりの届かないところ行くよ」

「今は昼です」

「月っぽい光でも反応するんでしょ! 白い光全部信用しない!」

「先輩、乱暴です」

「乱暴にもなる!」


 ミユはメグを引っ張って歩道橋の階段へ向かった。


 その時。


 歩道橋の下、ビルの壁面に、黒い影が張りついているのが見えた。


 普通なら見落としていたかもしれない。

 けれど、ミユの目はもう、普通の景色の中に混じった異物を探す癖がついていた。


 ビルの壁に、何かがいる。


 人間のように立っているのではない。

 虫のように張りついているのでもない。

 ヤモリのように、壁にぴたりと四肢をつけていた。


 黒い細身の体。

 白銀に光る仮面。

 三日月のように曲がった鎌。


 昼間なのに、その姿だけが夜から切り抜かれてきたみたいに暗い。


 ミユはメグを自分の後ろに押しやった。


「出たな……」


 壁の影が、ゆっくりと首を傾ける。


「記録者に死相あり」


 声は低く、乾いていた。

 墓石に爪を立てるような声だった。


「よい反応です」


「よくない!」


 ミユは反射的にμブレスレットへ手を伸ばしかけた。


 けれど、すぐに止まる。


 周囲には人がいる。


 歩道橋の上にも、下にも。

 コンビニの前にも、信号待ちの人たちにも。

 普通の日常を歩いている人たちがいる。


 ここで変身したら、見られる。


 また噂になる。

 また切り抜かれる。

 また誰かがミユとプリティミューを結びつけるかもしれない。


 その一瞬の迷いを、ゲッコウリーパーは見逃さなかった。


「よい迷いです」


 壁を這う死神が、ぬるりと動いた。


 速い。


 音もなく、ビルの壁から歩道橋の柱へ移る。黒い指先がコンクリートに吸いつき、白い仮面だけがこちらを向いた。


「守る対象が多いほど、死は選びやすくなる」


「死を選ぶな!」


 ミユは叫んだ。


 その瞬間、ゲッコウリーパーが鎌を振った。


 狙いはメグではなかった。


 歩道橋の下を歩いていた会社員の影。


 鎌の刃が、その人の足元の影をかすめた。


「え?」


 会社員が立ち止まる。


 次の瞬間、その腕に白い三日月の紋様が浮かび上がった。


 男は異変に気づかない。ただ、少し寒そうに腕をさすっただけだった。


 ミユの喉が詰まる。


「今の人にも……」


 ゲッコウリーパーは壁の上から見下ろしていた。


「一人を守れば、もう一人が減ります」


 その言葉に、ミユの胸の奥で何かが熱くなる。


 怒りだ。


 でも、その下に、もっと冷たいものがある。


 怖い。


 メグの腕に浮かんだ三日月。

 通行人の腕に浮かんだ三日月。

 スマホに表示された死亡予定時刻。


 数字で見せられる。

 時間で区切られる。

 誰を先に助けるか、誰を後にするか、選べと迫られる。


 そんなの、無理だ。


 無理なのに、怪人はそれをやらせようとしてくる。


「そういう選ばせ方、ほんと最低」


 ミユは歯を食いしばった。


 ゲッコウリーパーの仮面が、笑ったように見えた。


「最低。興味深い評価です」


「感想メモるな!」


「すべて記録されます」


「モルスの差し金?」


 ミユが睨むと、ゲッコウリーパーは答えなかった。


 ただ、三日月の鎌を壁に当てる。


 こつん、と乾いた音が響いた。


 その音に反応するように、メグのスマホがまた鳴った。


 通知。


 メグは息を呑む。


 ミユはスマホを奪うように覗き込んだ。


《ロイヤルムーン記念病院跡》


《観測本番は、月が高くなる頃に》


 表示された地図には、宝珠区の外れにある古い病院跡が示されていた。


 取り壊し予定のまま放置されている、白い廃病院。


 ミユはそこを知っていた。

 学校の怪談で名前だけ聞いたことがある。


 夜になると、誰もいない病室に明かりがつく。

 月明かりの廊下に、白い患者服の影が立つ。

 そういう、ありがちな噂の場所。


 ありがちすぎて、怪人が使うにはぴったりすぎる。


「最悪……」


 ミユが顔を上げた時には、ゲッコウリーパーは歩道橋の柱を這い上がっていた。


 壁から壁へ。

 看板の影へ。

 ビルの屋上へ。


 黒い体が昼の光の中で薄くなり、白い仮面だけが最後までこちらを見ていた。


「月光下で、お待ちしております」


 そう言い残し、死神は屋上の陰へ溶けるように消えた。


 直後、周囲の音が戻ってきた。


 車。

 人の声。

 コンビニの自動ドア。

 駅前ビジョンの明るい音楽。


 何も知らない日常が、何事もなかったように流れ出す。


 ミユは息を吸った。

 うまく吸えなかった。


 メグが、自分の腕を見ている。


 白い三日月紋は、まだ消えていない。


「メグちゃん」


「はい」


「怖い?」


 メグは少しだけ黙った。


 それから、小さく頷いた。


「怖いです」


 ミユは、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がした。


 メグはいつも記録する。

 調べる。

 解析する。

 無茶をする。

 危ないところに首を突っ込む。


 でも、怖いのだ。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、ミユはときどき忘れそうになる。


「じゃあ、今日は帰ろう」


 ミユが言うと、メグは驚いたように顔を上げた。


「先輩?」

「一回、研究所行く。アインに見せる。ワトソンにも解析してもらう。病院跡に行くのは、それから」

「でも、指定時刻まで時間が」

「だからこそ準備するの」


 自分で言いながら、ミユは少しだけ驚いていた。


 いつもなら、怒ってすぐ飛び出していたかもしれない。

 けれど、今回は違う。


 メグに三日月紋が刻まれている。

 通行人にも刻まれた。

 ロイヤルムーン記念病院跡には、おそらく罠がある。


 怖い。


 でも、怖いからこそ、何も考えずに突っ込んではいけない。


 ミユはスマホを取り出し、アインへ連絡した。


 数コールもしないうちに、通信がつながる。


《状況は把握している》


「早いな!」


《ワトソンの分析データがこちらにも転送されている。メグくんのマーキング反応も確認した》


 アインの声は冷静だった。


 冷静すぎて、少し腹が立つ。

 でも、今はその冷静さがありがたかった。


「解除できる?」


《まだ確定はできない。だが、死亡予告ではなく、生体反応の誘導である可能性が高い》

「つまり?」

《死ぬ時間を当てているんじゃない。死んだような状態に近づけるタイマーを仕掛けられている》

「それ、どっちにしろ最悪じゃん」

《その通りだ》


 短く認めるな、と言いたかった。

 けれど、その前にアインが続けた。


《バイト君、次は罠だ》


「わかってる」


《行くのか》


 ミユはメグを見た。


 メグはまだ青い顔をしている。

 それでも、スマホを握りしめていた。

 腕の三日月紋を隠すように袖を下ろしながら、ミユをまっすぐ見ている。


 ワトソンも黙ってこちらを見上げていた。


 歩道橋の下では、さっき影を切られた会社員が、何も知らずに歩いていく。その腕の三日月紋は、上着の袖に隠れて見えない。


 行かなければ、きっと誰かが倒れる。

 メグも、あの人も、もっと知らない誰かも。


 ミユは息を吐いた。


 怖い。


 死ぬとか、死なないとか。

 仮死とか、死亡予定時刻とか。

 そういう言葉全部が怖い。


 でも。


「行くしかないでしょ」


 声は少し震えていた。


 けれど、逃げるための震えではなかった。


「メグちゃんの死亡予定時刻なんて、こっちで勝手にキャンセルしてやる」


 メグが、ほんの少しだけ笑った。


「キャンセル料は?」

「ジョーカー持ち」

「高額になりそうですね」

「高額バイトの出番じゃん」


 冗談は、うまく笑えないくらい重かった。


 それでも、言葉にすると少しだけ呼吸が戻った。


 ミユは歩道橋の上から、遠くの空を見た。


 昼の光の向こうに、まだ見えない月がある。


 夜になれば、死神が待っている。


 ミユは拳を握りしめた。


「待ってろ、月光の死神」


 自分に言い聞かせるように、低く呟く。


「数字で人を終わらせようとするやつは、私が叩く」


 その声を、白い粉の残った手すりだけが聞いていた。

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