第1節 ― 月光に、名前を呼ばれた
黒い羽根の夢を見た。
何度も見た。
床に落ちた黒い羽根が、一本、また一本と増えていく。
羽根はただの羽根ではなく、薄い金属片のように冷たく光っていて、触れると指先から何かを吸われるような感覚がある。
その羽根の奥に、墓標みたいな黒いカプセルが並んでいる。
蜘蛛男。
蝙蝠伯爵。
レイディスコーピオン。
サラセニア・ルージュ。
マンティスシザー。
カメ・レオン。
ミラクルハニー。
倒したはずの怪人たちの名前が、ラベルになって貼られていた。
あれは本人じゃない。
わかっている。
あの時、地下の残骸倉庫にいたのは、ただの影だった。
技だけ、姿だけ、反応だけをつぎはぎにされた空っぽの残骸影だった。
けれど、だからこそ嫌だった。
敵だった。
怖かった。
腹が立った。
許せないこともされた。
それでも。
倒された後まで、勝手に掘り返されて、誰かの実験材料にされていいわけじゃない。
夢の中で、羽根が震える。
拾われなかったはずの羽根が、床の上でかすかに鳴る。
その音が、いつの間にか、誰かの声に変わった。
――朝倉ミユ。
名前を呼ばれた気がして、ミユは目を開けた。
「……うわ」
天井だった。
自分の部屋の、見慣れた天井。
少し古い照明。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
ベッドの横に脱ぎっぱなしになった制服の上着。
机の上に置かれた教科書と、開かれないままのノート。
普通の朝だった。
普通の朝のはずなのに、胸の奥だけが妙に重い。
ミユは枕に顔を押しつけた。
「……最悪。寝た気がしない」
声に出してみると、思っていたよりかすれていた。
その時、部屋の外から母・かなえの声が飛んできた。
「ミユー、起きてるー?」
「起きてるー……たぶん」
「たぶんって何。朝ごはん冷めるわよ」
「今行くー……たぶん」
「たぶん禁止」
現実的な声だった。
あまりに現実的で、ミユは少しだけ安心した。
怖い夢を見ても、朝ごはんは冷める。
怪人が出ても、学校はある。
死骸を拾う黒い鳥を倒しても、母は味噌汁を温め直す。
そういう現実が、今は少しありがたい。
ミユはベッドから起き上がろうとして、肩に走った鈍い痛みに顔をしかめた。
「いった……」
グレイヴコンドルの黒羽根タグが刺さった場所だ。
変身を解けば外傷はほとんど残らない。アインも、ワトソンも、異常はないと言っていた。
でも、痛みの記憶は残る。
むかつく痛さ。
そう言ったら、ワトソンは丁寧に記録していた。
「記録しなくていいって言ったのに」
ミユはぼやきながら制服に着替えた。
鏡の中の自分は、いつもより少し目の下に影がある。
髪もはねている。
顔色も、たぶんよくない。
偽ミユだったら、もっとちゃんとしていたかもしれない。
そんなことを思って、すぐに自分で自分にツッコミを入れる。
「いや、偽物と比較すんな、私」
髪を雑に整えて部屋を出ると、台所から湯気と味噌汁の匂いがした。
かなえはエプロン姿で、食卓に焼き魚を置いている。
その横顔を見て、ミユは一瞬、言葉をなくした。
第八話で、小さくなった母。
第七話で、体育館の奥からプリティミューを見ていた母。
第五話で、マンティスシザーに言葉を切り取られた母。
かなえは、何も知らないわけじゃない。
完全に知っているわけでもない。
見ていたけれど、聞かないでおく。
その距離が、今の二人の間にある。
「何、ぼーっとして」
かなえが振り返った。
「顔色悪いわよ」
「うん。夢見が悪かった」
「また怪人と戦う夢?」
ミユの箸が止まりそうになった。
「……なんで怪人」
「前にも寝相で怪人と戦ったみたいな起き方してたから」
「あれは体育の予習」
「体育は予習しない」
「まだ覚えてた!」
かなえは、呆れたように笑った。
その普通の笑い方に、ミユは少しだけ息を吐く。
「怖い夢?」
「んー……怖いっていうか、気持ち悪い夢」
「そういう時は、ちゃんと食べなさい」
「現実的」
「悪夢に勝つには、まず米よ」
「母さん理論、強い」
ミユはごはんを口に運んだ。
温かい。
ちゃんと味がする。
それだけで、夢の中の黒い羽根が少し遠ざかった気がした。
宝珠南高校に着く頃には、空はよく晴れていた。
冬に近づいた空気は少し乾いていて、校門の前の木々は、ところどころ葉を落としている。登校してくる生徒たちは、マフラーを巻いたり、手をこすり合わせたりしながら、いつも通りの顔で校舎へ入っていく。
世界は、当然のように日常を続けている。
ミユは、その流れに混ざって歩きながら、スマホを確認した。
通知がいくつか来ている。
メグからだった。
《おはようございます、先輩》
《昨夜から、怪人事件ログへのアクセスが増えています》
《黒羽根関連の注意喚起に反応が出ています》
《ただ、少し気になる投稿があります》
ミユは廊下の端に寄り、返信を打つ。
《おはよ》
《気になる投稿って?》
《また黒い羽根?》
すぐに既読がついた。
《黒い羽根ではありません》
《月光です》
「月光?」
ミユは思わず声に出した。
その直後、背後から小さな声がした。
「はい。月光です」
「うわっ!」
振り返ると、メグが立っていた。
眼鏡。
きっちり整えた前髪。
両手にノートとスマホ。
いつも通りの情報収集装備。
ただ、表情はいつもより硬い。
「メグちゃん、背後から情報を届けるのやめて。寿命が縮む」
「すみません。寿命関連の話題なので、少し不謹慎でした」
「寿命関連?」
ミユは眉をひそめた。
「なに、その嫌なジャンル」
メグは、廊下の人通りを確認してから、小声で言った。
「最近、ホウジュ区で新しい都市伝説が出ています」
「都市伝説って、怪人事件の前振りでしか聞かない単語になってきたんだけど」
「今回も、たぶん怪人事件です」
「最悪」
メグはスマホを操作し、画面をミユへ見せた。
そこには、怪人事件ログに寄せられた匿名投稿が並んでいる。
《夜、歩道橋で自分の名前を呼ばれた》
《振り向いたら誰もいないのに、壁に死神みたいな影があった》
《腕に三日月みたいな白い痕がついてた》
《スマホ画面に残り時間っぽい数字が出た。怖くてスクショできなかった》
《月の光が当たる場所にいると、誰かに見られてる感じがする》
ミユは画面を見つめたまま、だんだん顔をしかめていった。
「……仮称は?」
「月光の死神」
「仮称からして嫌すぎる!」
「私もそう思います」
「もうちょっとかわいい仮称ないの? 月明かり君とか」
「被害内容に対して軽すぎます」
「だよね!」
メグは画面をスクロールした。
「最初はただの怪談かと思いました。でも、投稿時間と場所に偏りがあります。月がよく見える場所。白い照明がある場所。反射する壁面やガラスがある場所。そこに集中しています」
「つまり、月の光が関係ある?」
「可能性が高いです」
ミユは、廊下の窓から空を見た。
昼の空に月は見えない。
けれど、昨夜の夢のせいか、そこにないはずの月光が、背中に触れたような気がした。
「……第九話の次にこれ、流れが暗すぎない?」
「先輩」
「なに」
「第九話という言い方は、たぶん読者視点です」
「今そういう冷静なツッコミいらない!」
メグは小さくうなずいた。
「でも、流れとしてはつながっています」
「うん」
ミユの声が、少し低くなった。
「グレイヴコンドルの次。ドクター・モルスの次の実験ってことだよね」
メグは、わずかに唇を結んだ。
「まだ断定はできません」
「でも、だいたい合ってるやつでしょ」
「はい」
ミユはスマホを握り直した。
白いコート。
黒い手袋。
薄い笑み。
直接会ったわけではない。
けれど、グレイヴコンドルの背後にいた研究者の気配は、ミユにも伝わっていた。
敵を倒した後に何が残るか。
死骸をどう扱うか。
そういう場所に、あの研究者は平気で手を突っ込んでくる。
今度は、月光の死神。
名前だけで、もう嫌な予感しかしない。
チャイムが鳴った。
廊下にいた生徒たちが慌てて教室へ流れ込んでいく。
ミユも動こうとして、メグを見る。
「放課後、調べる?」
「はい。ただし、夜に行く必要があります」
「夜かあ……」
ミユは天井を見上げた。
「怪人って、もうちょっと健康的な時間帯に出られないの?」
「昼に出た怪人もいました」
「昼は昼で困る!」
メグは、少しだけ笑った。
その笑顔が、いつもより薄いことにミユは気づいた。
「メグちゃん」
「はい」
「怖い?」
メグは、すぐには答えなかった。
ノートを胸元に抱え直し、廊下の窓の外を見る。
「怖いです」
正直な声だった。
「名前を呼ばれる、という投稿が多いんです。誰か知らないものに、自分の名前を呼ばれるのは……少し、嫌です」
「うん」
「でも、調べます」
「無理はしない」
「はい」
「いや、メグちゃんの“はい”は信用できない時がある」
「先輩ほどではありません」
「言い返せない!」
ミユがそう言うと、メグはほんの少しだけ笑った。
今度は、さっきより本物の笑顔だった。
その夜。
ホウジュ区の歩道橋には、冷たい風が吹いていた。
仕事帰りの会社員が、肩をすくめながら階段を上っていく。
片手にはコンビニの袋。
もう片方の手にはスマホ。
街灯は白く、道路を走る車のライトは途切れない。
駅前のネオンが遠くで瞬き、ビルのガラスに月が映っている。
会社員は、歩道橋の中央で足を止めた。
「……ん?」
誰かに呼ばれた気がした。
自分の名前。
とても近くで。
けれど、耳元ではない。
壁の向こうから聞こえたような、足元の影から聞こえたような、妙な声だった。
男は振り返った。
誰もいない。
階段の下を人が通る。
車が流れる。
けれど、歩道橋の上には男ひとりだけ。
「気のせいか……」
そう言いかけた瞬間、スマホの画面が勝手に点灯した。
表示されていたのは、見覚えのない通知だった。
《月光下にて確認》
《観測対象:第一例》
《残り時間:00:03:00》
「は?」
男は画面を何度もタップした。
アプリを閉じようとしても、数字は消えない。
《00:02:59》
《00:02:58》
数字が減っていく。
男の呼吸が浅くなった。
「なんだよ、これ……」
その時、右腕に冷たい感覚が走った。
袖をまくる。
皮膚の上に、白い三日月の紋様が浮かんでいた。
男は悲鳴を上げそうになった。
けれど、声が出ない。
体が急に冷えていく。
心臓の音が遠くなる。
周囲の車の音が、水の中のようにぼやけていく。
視界の端で、歩道橋の壁に影が動いた。
人間ではない。
細長い手足。
壁に張りついた黒い体。
白い死神仮面のような顔。
その背後で、三日月型の鎌が、月光を受けて薄く光っている。
影が、壁を這う。
男は後ずさろうとして、足がもつれた。
「だ、誰……」
白い仮面が、ゆっくりとこちらを向いた。
「生体反応、低下開始」
声は静かだった。
感情がなかった。
「恐怖反応、上昇」
「呼吸乱れ、心拍変動」
「第一例、観測良好」
男は膝をついた。
スマホの画面で、数字が減っていく。
《00:00:05》
《00:00:04》
《00:00:03》
「や、やめ――」
《00:00:00》
男の体が、糸の切れた人形のように倒れた。
コンビニの袋から、温かい缶コーヒーが転がり出る。
缶は歩道橋の床を小さく鳴らして止まった。
通りかかった女性が悲鳴を上げた。
「誰か! 人が倒れてます!」
その声に、下の道路を歩いていた人々が顔を上げる。
だが、壁に張りついていた影は、もう薄くなっていた。
月明かりに溶ける直前、白い仮面だけが振り返る。
「死亡ではない」
「仮死である」
「しかし、人はその差を恐怖で埋める」
死神の影は、月光の中でつぶやいた。
「生体反応停止。第一例、記録完了」
アイン科学研究所の地下フロアは、夜になっても明るかった。
明るい、というより、白い。
モニターの光。
計測器のランプ。
透明なケースに反射する蛍光灯。
冷たい機械音。
ミユは、制服の上にパーカーを羽織った姿で、研究所の椅子に座っていた。
眠い。
疲れている。
でも、呼び出された理由が理由なので文句を言いづらい。
いや、言うけど。
「で、倒れた人は?」
ミユが聞くと、アインはモニターを見たまま答えた。
「搬送済み。命に別状はない。ただし、一般的な意識消失とは違う」
「死んでないんだよね?」
「死亡ではない」
ワトソンが猫型端末から声を出した。
《極度の仮死状態です。体温、心拍、呼吸反応が危険域まで低下していましたが、現在は回復傾向にあります》
「仮死……」
ミユはその言葉を口の中で転がした。
死んではいない。
けれど、死んだように見える。
それだけで、背中が冷たくなった。
「それ、普通に危ないやつじゃん」
「危ないよ」
アインはあっさり言った。
「放置すれば、本当に死に至る可能性がある」
「さらっと言うな」
「さらっと言わない方がいい?」
「重々しく言われても嫌だけど!」
アインは、少しだけ肩をすくめた。
モニターには、歩道橋の防犯カメラ映像が映っている。
倒れる会社員。
白い三日月の痕。
そして、壁に張りつく死神のような影。
ミユは、思わず腕をさすった。
「月光の死神……」
メグは、隣でノートを開いている。
いつもならすぐに分析を書き込む彼女が、今日はペン先を少し止めていた。
「メグちゃん?」
「……はい」
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
そう言う声は、大丈夫そうではなかった。
ミユは、何か言おうとして、言葉を探した。
けれど、先にアインが言った。
「モルスだ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
ミユは、アインを見る。
「やっぱり?」
「この仮死誘導の設計思想は、グレイヴコンドルの残骸回収システムと同じ系統だ。対象を殺し切らず、反応を抽出する。死に近づけて、観測する」
「……最低」
ミユの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
ワトソンが続ける。
《被害者のスマホには、残り時間のような表示が出ていました。実際の死亡予告ではなく、仮死誘導までのカウントダウンと推測されます》
「でも、見た人は死ぬって思うよね」
《はい》
「それが狙い?」
アインはうなずいた。
「恐怖反応の観測。あるいは、救助側の行動分析」
「救助側って」
ミユは、嫌な予感がした。
アインはモニターを切り替える。
そこには、プリティミューの戦闘映像が並んでいた。
蜘蛛男戦。
蝙蝠伯爵戦。
レイディスコーピオン戦。
サラセニア・ルージュ戦。
マンティスシザー戦。
カメ・レオン戦。
ミラクルハニー戦。
グレイヴコンドル戦。
そのすべてが、どこかで誰かに見られていた。
観測されていた。
「……私か」
ミユは小さく言った。
「また、私の反応を見るため?」
「可能性は高い」
アインの声は淡々としていた。
けれど、表情は少しだけ険しい。
「第九話で、君は敵の残骸利用に強い拒否反応を示した。次にモルスが見たいものがあるとすれば、死そのものへの反応だろう」
「死そのもの……」
ミユは、その言葉を繰り返した。
口に出すだけで、嫌だった。
怖い。
素直にそう思った。
怪人は怖い。
痛いのも怖い。
正体がバレるのも怖い。
母やメグが巻き込まれるのも怖い。
でも、死はもっと別の怖さだった。
ツッコミでごまかせない。
時給制と叫んでも軽くならない。
ピコピコハンマーを握っても、胸の奥が冷える。
ミユは、両手を握った。
「死んでないんだよね」
「今のところは」
「助けられるんだよね」
「条件がわかれば」
「じゃあ、助ける」
アインがミユを見た。
「単純だね」
「単純じゃないと、やってられないんだよ」
ミユは立ち上がった。
椅子が小さく音を立てる。
「死ぬかもしれないって言われた人がいて、でもまだ死んでないなら、助けるしかないじゃん」
そう言った瞬間、少しだけ自分の声が震えた。
メグが顔を上げる。
「先輩」
「なに」
「怖いですか」
「怖い」
ミユは即答した。
「めちゃくちゃ怖い」
それから、無理やり笑った。
「でも、怖いからって、月の光ぜんぶ割るわけにもいかないでしょ」
「割れたら割りますか?」
「割る」
「即答ですね」
「割れるなら割るよ! 月光に罪はないけど、今はちょっと腹立つ!」
メグは、今度こそ少し笑った。
アインはモニターへ視線を戻す。
「次の発生地点を予測する。メグ君、投稿ログを共有して」
「はい」
《ワトソンも補助します》
ミユは、研究所の白い床を見下ろした。
黒い羽根の夢は、まだ胸の奥に残っている。
けれど、今はそれよりも、白い月光の方が怖い。
夜は、まだ始まったばかりだった。




