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第7節 ― 拾われなかった羽根

 黒い羽根が、音もなく消えていった。


 さっきまで旧清掃処理施設の地下倉庫を埋め尽くしていた、墓場のような気配が、少しずつ薄れていく。


 錆びたコンテナ。

 古い焼却炉。

 水の滴る天井。

 消毒薬と湿った鉄の匂い。


 それらはまだそこにあるのに、空気の重さだけが変わっていた。


 墓標のように並んでいた黒いカプセルは、あちこちでひび割れている。ラベルの文字はところどころ焼け焦げ、蜘蛛男、蝙蝠伯爵、レイディスコーピオン、サラセニア・ルージュ、マンティスシザー、カメ・レオン、ミラクルハニー――その名前の断片だけが、暗い床に散っていた。


 プリティミューは、ハンマーを下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 勝った。


 グレイヴコンドルは倒した。

 残骸影も止めた。

 黒羽根タグも、ほとんど砕いた。


 なのに、胸の奥に残っているのは、いつもの勝利後の疲労とは違うものだった。


 気持ち悪さ。

 悔しさ。

 それから、言葉にしにくい、薄い痛み。


 倒したはずの怪人たちの影が、空っぽのまま動いていた光景が、まだ目の裏に残っている。


 あれは、蜘蛛男ではなかった。

 蝙蝠伯爵でも、レイディスコーピオンでも、サラセニアでもなかった。


 でも、姿だけは似ていた。

 技だけは似ていた。

 ミユが戦って、怖がって、怒って、それでも倒した相手たちの形だけが、勝手に使われていた。


「……終わった、んだよね」


 自分に確認するように、プリティミューは小さくつぶやいた。


 答えたのは、床に座り込んだメグだった。


 彼女は黒い鎖から解放されたばかりで、制服の袖に煤がついている。眼鏡も少しずれていた。それでも、膝の上に端末を置き、震える指で画面を確認している。


「過去怪人の残骸反応、ほとんど沈静化しました」


「ほとんど?」


 嫌な言葉だった。


 プリティミューは振り返る。

 メグは端末の画面を見たまま、唇を結んだ。


「一部は、転送されています」


「どこに」


「正確な位置までは追えませんでした。でも、経路から見て……ジョーカー内部の研究施設だと思います」


「つまり」


 プリティミューの声が低くなる。


「完全には止められなかったってこと?」


 メグは、悔しそうに目を伏せた。


「はい」


 その一言は、倉庫の水音よりも重く響いた。


 プリティミューは、奥歯を噛んだ。


 ハンマーを握る手に力が入る。

 白とピンクの装甲の指先が、小さく軋んだ。


「……せっかく、眠らせたのに」


 通信に、アインの声が入る。


《だが、十分だ。現場に残っていたデータの大半は休眠状態に移行した。グレイヴコンドルの回収機構も破壊した。今回の被害拡大は止めたと言っていい》


「でも、持っていかれた分がある」


《次に備えるしかない》


「簡単に言うな」


 思ったより強い声が出た。


 プリティミュー自身が、それに少し驚く。


 通信の向こうで、アインが一拍だけ黙った。

 それから、いつもの淡々とした声より、ほんの少しだけ低い声で言った。


《簡単ではないから、備えるんだ》


 その言い方が、いつもより子どもっぽくなかった。


 プリティミューは言い返そうとして、やめた。


 何を言っても、今はうまく形にならない気がした。


 ワトソンの声が続く。


《ミユさん。肩の装甲損傷は軽度です。ただし、黒羽根タグによる戦闘反応吸引の痕跡が残っています。帰還後、洗浄と検査が必要です》


「うん」


《痛みはありますか》


「ある」


《強いですか》


「強いっていうか……むかつく痛さ」


《記録しました》


「記録しなくていい」


《アイン様から、主観的疼痛表現も戦闘データとして有用だと》


「人のむかつきまでデータにするな!」


 そう怒鳴ってから、少しだけ息が抜けた。


 メグが、端末から顔を上げる。

 煤のついた顔で、ほんの少し笑っていた。


「先輩、今のツッコミは本物です」


「こんなところで本人確認しないで」


「すみません」


 メグは素直に謝ったあと、すぐ真面目な表情に戻った。


「でも、記録は必要です」


「……うん」


 プリティミューは、砕けたカプセルの残骸を見た。


 床に落ちた黒羽根のひとつが、まだかすかに震えている。

 それはもう、何も吸い上げていない。

 ただの壊れた部品だった。


 メグは、端末に文字を打ち込み始める。


「過去の怪人事件現場で、黒い羽根型の回収装置が確認されました」


 彼女の声は小さい。

 けれど、倉庫の中ではよく通った。


「倒された怪人の残骸や戦闘データが、何者かに利用されている可能性があります」


 プリティミューは黙って聞いていた。


「勝った場所にも、後始末があります」


 メグの指が、そこで一度止まる。


 彼女は少し考えてから、続きを打った。


「忘れないことと、利用することは違います」


 その文章が、プリティミューの胸に静かに落ちた。


「……メグちゃん、今回は重い」


「重い事件でした」


「そうだね」


「でも、記録しないと、また拾われます」


 プリティミューは、しばらく何も言わなかった。


 拾われる。


 その言葉が、さっきのグレイヴコンドルの声と重なる。


 死骸は、必ず、誰かが拾います。


 それが仕事だからです。


 墓場は、空ではありません。


 プリティミューは、ゆっくりうなずいた。


「うん」


 それ以上は言えなかった。


 言えないまま、彼女は変身を解いた。


 地上に出ると、夕方の空は妙に明るかった。


 地下にいたせいで、街の光がまぶしい。

 ホウジュ区の道路にはいつも通り車が走り、店の看板が点き始め、駅の方からは人の声が聞こえる。


 さっきまで地下で、怪人の残骸が墓標みたいに並んでいたことなど、誰も知らない。


 ミユは制服の袖を直しながら歩いていた。

 肩のあたりがまだ少し痛い。変身を解いても、あの黒羽根が刺さった感覚が残っている気がする。


 メグは隣で端末を抱えている。

 ワトソンは、人間アバターの姿で少し後ろを歩いていたが、道行く人の視線を受けるたびに、さりげなく猫型端末へ戻った。


「先輩」


「なに」


「今日は、研究所へ直行しますか」


「本当はそうした方がいいんだろうけど」


 ミユのお腹が、かなり正直な音を立てた。


 メグが瞬きをする。


「……先輩」


「違う。これは生体反応。怪人戦後の正常な生体反応」


「誰も責めてません」


「今ちょっと責める目だった」


「コブラカレーに寄りますか」


 ミユは、数秒だけ真剣に考えた。


 地下で見たもの。

 モルスに送られたデータ。

 終わっていない戦い。


 それらを抱えたまま、まっすぐ研究所へ行くべきなのかもしれない。


 けれど、コブラカレーの匂いを思い出した瞬間、自分がかなり空腹で、かなり疲れていることに気づいた。


「……寄る」


「はい」


「でも大盛りはしない」


「前回もそう言って大盛りでした」


「今日は中盛り」


「実質大盛りです」


「細かい!」


 コブラカレーの扉を開けると、スパイスの匂いが一気に押し寄せた。


 地下倉庫の消毒薬と湿った鉄の匂いが、肺の奥から少しずつ追い出されていく。


 店内はいつも通りだった。

 古いカウンター。

 磨かれた鍋。

 壁に貼られた手書きメニュー。

 なぜか妙に居心地のいい薄暗さ。


 コブラは、カウンターの奥で鍋をかき混ぜていた。


「鳥は落ちたか」


 開口一番がそれだった。


 ミユは、椅子に座る前に止まった。


「何で知ってるの」


「カレー屋はな、羽音で客を判断する商売なんだよ」


「それはもう意味がわからない」


「そうか」


「そうかじゃない」


 メグが、静かにコブラを見る。


「おじさん、やっぱりグレイヴコンドルのことを知っていたんですね」


 コブラは答えない。

 鍋の中のカレーを、ゆっくりとかき混ぜる。


「注文は」


「……チキンカレー中盛り」


「私は野菜カレーでお願いします」


「辛さは」


「普通」


「中辛で」


 ミユとメグが同時に答えた。


 コブラは、ふん、と小さく笑った。


「嬢ちゃんは普通。眼鏡の嬢ちゃんは中辛だな」


「なんで私だけ普通に固定されてるの」


「顔色」


「また顔色!」


 カレーが出てくるまで、ミユはカウンターに肘をついていた。


 いつもなら、事件のあとにここへ来ると、少しだけ気が抜ける。

 カレーの匂いと、コブラの適当なようで妙に鋭い言葉と、メグの事件ログ更新を横目に見ながら、少しだけ日常に戻った気分になれる。


 でも今日は、戻りきれなかった。


 床の下に、まだ黒い羽根が刺さっているような気がする。


 コブラは皿を置いた。


「食え」


「いただきます」


 ミユはスプーンを取った。

 カレーをひと口食べる。


 辛さと熱が、舌に広がる。

 それから、少し遅れて甘みが来る。


 おいしい。


 それが、なんだか悔しいくらいだった。


「……おいしい」


「知ってる」


「腹立つ」


「それも知ってる」


 メグも静かに食べ始めた。

 しばらく、店内にはスプーンが皿に触れる音だけがあった。


 やがて、コブラが言った。


「死んだやつまでこき使う組織は、だいたい長くねえ」


 ミユはスプーンを止めた。


「ジョーカーの話?」


「一般論だ」


「おじさんの一般論、だいたいジョーカーに刺さってるんだけど」


「世の中には、ろくでもない組織が多いってことだ」


「ごまかした」


 コブラは否定しなかった。


 鍋の火を少し弱め、カウンターに片手をつく。

 その横顔は、いつもの飄々としたカレー屋の店主のものだった。


 けれど、目だけが違った。


 グレイヴコンドルが店に入ってきた時と同じ、冷たく光る目。


 ミユは、少し迷ってから聞いた。


「おじさん」


「何だ」


「怪人だった人のこと、どう思う?」


 コブラの手が、ほんの少しだけ止まった。


 メグも顔を上げる。


 店の外では、自転車のベルが鳴った。

 誰かの笑い声が通り過ぎる。

 普通の街の音が、薄いガラス越しに聞こえていた。


 コブラは鍋を見つめたまま言った。


「怪人にも色々いる」


「敵でも?」


「敵でもだ」


 ミユは、スプーンを握ったまま黙った。


 コブラの声は、いつもより低かった。


「悪党にも、終わり方ってもんがある」


「……」


「それを踏みにじるやつは、悪党の中でも下の下だ」


 ミユは、何も言えなかった。


 敵だった。


 蜘蛛男も、蝙蝠伯爵も、レイディスコーピオンも、みんな人を傷つけた。

 怖かったし、腹も立った。

 許せないことをした怪人もいた。


 でも。


 空っぽの影にされて、技だけ取り出されて、勝手に使われる姿を見た時、ミユは気持ち悪いと思った。


 嫌だと思った。


 それは、たぶん間違いではない。


「……おじさん」


「何だ」


「カレー屋って、そんなことまで考える商売なの」


「客が何を残すかを見る商売だからな」


「皿の話に戻した」


「食え。冷める」


「食べるけど」


 ミユは、もう一度カレーを口に運んだ。


 さっきより、少し辛かった。


 ジョーカー帝都支部。


 灰色の会議室に、重い空気が沈んでいた。


 壁面モニターには、旧清掃処理施設の地下映像が映っている。


 破壊された回収棺カプセル。

 消えた残骸影。

 砕けた黒羽根タグ。

 床に残ったグレイヴコンドルの黒い粒子。


 ゲル大佐は、腕を組んでそれを見ていた。


 眉間には深い皺が寄っている。

 机の上には、空になった胃薬の瓶が一本転がっていた。


 戦闘員42号が、恐る恐る報告書を読み上げる。


「グレイヴコンドル、活動停止。回収棺カプセル大破。残骸倉庫、放棄されました」


「またか……」


 ゲル大佐の声は、もはや怒鳴る気力すら削られていた。


 42号は、さらに紙をめくる。


「ただし、ドクター・モルスへのデータ転送は一部成功したようです」


「それでモルスは満足か」


「たぶん、すごく満足してます」


「腹立たしい」


 その時、会議室の扉が開いた。


 白いコート。

 黒い手袋。

 薄い笑み。


 ドクター・モルスが、まるで遅れてきた来客のように入ってきた。


「十分な成果です」


 ゲル大佐は、ゆっくり振り返る。


「貴様の怪人は倒されたぞ」


「ええ」


 モルスは穏やかにうなずいた。


「だからこそ、よいデータが取れました」


「……」


 ゲル大佐の目が細くなる。


 戦闘員42号は、そっと一歩後ろへ下がった。

 自分がこの場にいていい空気ではないと、本能的に察したらしい。


 ゲル大佐は、低い声で言った。


「モルス。怪人を、壊れる前提で使うな」


 モルスは、少しだけ首を傾げた。


「大佐」


「何だ」


「怪人は、いずれ壊れます」


 その声には、悪意も嘲笑もなかった。


 だからこそ、冷たかった。


「壊れた時に何を残すか。それを考えるのが研究です」


 ゲル大佐の拳が、机の上で震えた。


「貴様にとって、怪人は部下ではないのだな」


「部下という概念は、現場運用上は有効です」


「そういう話をしているのではない」


「では、情の話ですか」


 モルスは微笑んだ。


「大佐は、情がおありなのですね」


 会議室の空気が一段冷えた。


 42号が小さく息を呑む。


 ゲル大佐は一歩前へ出た。


「口の利き方に気をつけろ、モルス」


「失礼しました」


 モルスはすぐに頭を下げる。

 けれど、その笑みは消えていなかった。


「ですが、今回の観測で明確になりました。プリティミューは、敵の残骸利用に対して強い嫌悪反応を示しました。これは非常に重要です」


「重要、だと」


「ええ。彼女は敵を倒すだけでは満足しない。敵の終わり方にまで反応する。ヒーロー適性としては、興味深い過剰反応です」


「……貴様」


 ゲル大佐が何か言いかけた瞬間、通信画面が暗くなった。


 部屋の照明が一段落ちる。


 モニター中央に、首領Xの仮面アイコンが浮かび上がった。


「ゲル大佐」


 ゲル大佐は即座に姿勢を正した。


「はっ」


「良いデータだった」


 ゲル大佐の眉が、わずかに動く。


「また敗北しましたが」


「プリティミューは、敵の残骸利用に怒りを示した」


「……」


「彼女は、倒すだけのヒーローではない」


 その言葉を聞いて、ゲル大佐は黙った。


 倒すだけのヒーローではない。


 それが、褒め言葉なのか。

 分析なのか。

 それとも、次の実験のための項目名なのか。


 首領Xの声からは、読み取れない。


「それが、今回の観測結果ですか」


「そうだ」


 首領Xの仮面アイコンが、わずかに明滅した。


「次は、死そのものへの反応を見る」


 ゲル大佐の背筋に、嫌なものが走った。


「死、そのもの……?」


「月光の死神を出せ」


 モルスが、待っていたように微笑んだ。


「ゲッコウリーパーですね」


 ゲル大佐は、鋭くモルスを見る。


「貴様、もう次の実験を用意していたのか」


「もちろんです」


「現場を何だと思っている」


 モルスは、少しも迷わず答えた。


「観測室です」


 ゲル大佐のこめかみに、青筋が浮かんだ。


 通信画面の向こうで、首領Xは何も言わない。

 ただ、仮面のアイコンだけが静かに浮かんでいる。


 ゲル大佐は、机の上の胃薬に手を伸ばした。

 瓶を持ち上げる。


 軽い。


 振ってみる。


 何も音がしない。


 空だった。


「42号」


「はい!」


「胃薬を買ってこい」


「了解です。通常サイズで?」


 ゲル大佐は、心の底から叫んだ。


「業務用だ!」


「了解しました!」


 42号は敬礼し、全力で会議室を飛び出していった。


 モルスは、それを見送ってから、穏やかに言った。


「大佐は健康管理が大変ですね」


「貴様のせいだ」


「それは光栄です」


「褒めていない!」


 首領Xの通信は、いつの間にか切れていた。


 暗い研究室。


 白い照明が、手術台のような作業台だけを照らしている。


 周囲には、いくつもの透明ケースが並んでいた。


 蜘蛛男の拘束糸。

 蝙蝠伯爵の翼膜片。

 レイディスコーピオンの毒針片。

 サラセニア・ルージュの蜜腺組織。

 マンティスシザーの裁断刃片。

 カメ・レオンの偽装皮膜。

 ミラクルハニーの蜜腺組織。


 それぞれに、白いラベルが貼られている。


 ドクター・モルスは、黒い手袋をはめた指で、新しいケースを開いた。


 中に収められているのは、砕けた黒い棺の破片だった。

 縁には、まだわずかに黒羽根の反応が残っている。


 モルスは、それを丁寧にケースへ収める。


 ラベルを貼る。


《J-09 グレイヴコンドル/回収棺破片・黒羽根タグ・敗北データ回収済》


 彼は、その文字を見て満足そうに目を細めた。


「よい症例でした」


 隣のモニターに、新たなデータが表示される。


《J-10 ゲッコウリーパー/月光反応・死神鎌・現場実験準備中》


 画面の中で、月光を浴びた死神の影が、ゆっくりと鎌を持ち上げる。


 白く冷たい光。

 細い鎌。

 夜の輪郭を切るような刃。


 モルスは、画面に映るその影を見つめながら、静かに笑った。


「さて、プリティミュー」


 研究室の奥で、保存ケースのランプが赤く点滅する。


「君は、死を前にしても、同じことが言えるかな」


 黒いケースの中で、拾われなかったはずの羽根が、かすかに震えた。

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