第6節 ― 墓荒らしの翼を叩き落とせ
巨大な残骸影が、床を踏み砕いた。
旧清掃処理施設の地下倉庫に、錆びた金属音が反響する。
蜘蛛の脚のようなものが、まず床を叩いた。続いて、蝙蝠の翼が天井の低い照明をかすめ、蠍の尾が赤くしなり、サラセニアの蔓が濡れた床を這う。蟷螂の刃が左右に開き、カメレオンの皮膜が体表をぐにゃりと歪ませ、蜂蜜色の毒液が黒い影の隙間から滴った。
それは、怪人ではなかった。
怪人たちの形をした、何かだった。
プリティミューはミュー・ハンマーを握りしめる。
手のひらが汗で滑りそうだった。変身後のグローブ越しでも、自分の指先が強張っているのがわかる。
「……会いたくない形で出してくるな」
声が、思ったより低く出た。
グレイヴコンドルは、墓標の列の前で黒い翼を広げている。
「再会とは、必ずしも望ましい形で訪れるものではございません」
「それをあんたが言うな!」
プリティミューは床を蹴った。
先に動かなければ、飲まれる。
そう思った。
巨大な残骸影が、空っぽの顔をこちらへ向ける。顔と言っても、そこには目も口もない。ただ、過去の怪人たちのパーツが無理やり寄せ集められた黒い塊があるだけだ。
そこから、白い糸が飛んだ。
「蜘蛛男の糸……!」
プリティミューは横へ跳ぶ。
糸は床に突き刺さり、コンクリート片ごと絡め取った。劣化コピーのはずなのに、十分に強い。まともに足を取られたら動けなくなる。
着地した瞬間、耳元で古いオルゴールの音が鳴った。
蝙蝠伯爵の音。
けれど、あの時のような優雅さはなかった。ただ、耳の奥を乱暴にかき回す不快な振動だけがある。
「っ、うるさ……!」
平衡感覚が揺れる。
床が傾いたように見えた。
プリティミューは踏ん張ろうとするが、足元に黄金色の蜜が広がっていた。
「ちょ、滑る!」
片足が取られる。
体勢が崩れたところへ、赤い尾針が視界をかすめた。
レイディスコーピオンの毒針の影。
避けたはずなのに、針の赤い光が視界の隅に残る。次の瞬間、倉庫の景色が歪んだ。
黒い墓標が、教室の机に見えた。
錆びたコンテナが、駅前ビジョンに見えた。
空っぽの残骸影たちが、こちらを責める誰かの顔に見えた。
「また幻覚系! ほんとしつこい!」
プリティミューは自分の頬を軽く叩く。
痛みで視界を戻す。
その一瞬の隙を狙って、サラセニアの蔓が右腕に絡みついた。
「うわっ!」
ミュー・ハンマーを振ろうとした腕が止められる。
さらに、マンティスシザーの刃が空中を裂いた。
銀色の残光。
プリティミューは身をひねるが、肩の装甲が浅く切られ、火花が散った。
「全部盛りすぎ!」
叫ぶと同時に、通信が入る。
《バイト君、過去怪人の能力片を束ねている。性能は劣化しているが、数が多い》
アインの声はいつも通り冷静だった。
「劣化してこれなら本物たちに謝って!」
《謝る相手はもういない》
その言葉が、妙にまっすぐ胸に入った。
プリティミューの動きが、一瞬だけ止まる。
「そういう言い方……やめて」
小さく言った、その隙だった。
天井近くで羽ばたく音がした。
グレイヴコンドルが黒い翼をたたみ、落下するように滑り込んでくる。
黒い鉤爪が、プリティミューの肩をかすめた。
痛みより先に、ぞわりとした冷たさが走る。
肩の装甲に、黒い羽根が一本突き刺さっていた。
「なにこれ……!」
羽根はただ刺さっているだけではなかった。
羽軸から細い黒い線が伸び、装甲の表面を這う。μシステムの光が、そこに吸われるように弱くなった。
ワトソンの声が鋭く響く。
《警告。μシステムの戦闘反応が吸い上げられています》
「吸い上げられてるって何!? 献血じゃないんだけど!」
《ミユさん、羽根を抜いてください。それは回収タグです》
「抜こうとしてる!」
プリティミューは左手で黒羽根を掴む。
だが、羽根は装甲に食い込んでいる。引っ張ると、肩の奥まで冷たい痛みが響いた。
グレイヴコンドルは、空中で静かに旋回する。
「よい反応です。恐怖、嫌悪、怒り、痛覚。すべて鮮度良好」
「だから鮮度って言うな!」
プリティミューは歯を食いしばり、黒羽根を引き抜いた。
ばちん、と火花が散る。
装甲表面に細い傷が残った。
痛い。
でも、動ける。
プリティミューは黒羽根を床へ投げ捨て、ハンマーで叩き潰した。
羽根は黒い粒子になって砕ける。
だが、その間にも巨大な残骸影は迫ってくる。
蜘蛛糸が床を覆い、蜜が動きを鈍らせ、音波が頭を揺らし、毒の幻覚が視界を歪ませる。
その後ろで、メグは黒い鎖に足を絡め取られたまま、壁際に座り込んでいた。
顔色は悪い。
けれど、彼女はスマホを握っている。
画面の明かりが、眼鏡に反射していた。
「メグちゃん、無理しないで!」
「無理はします。でも倒れない程度にします」
「それ全然安心できない!」
メグは震える指で画面を操作する。
黒羽根の反応。
残骸影の出現地点。
回収棺カプセルの同期波形。
彼女は、怪人事件ログに残してきた過去のデータと、今この場の反応を重ね合わせていた。
「先輩、黒羽根の同期先は、グレイヴコンドル本体じゃありません」
「じゃあどこ!?」
「地下施設の奥。回収棺の制御コアです」
「そこ壊せばいい?」
「はい。ただし、壊し方を間違えると残骸データが暴走します」
「毎回、壊せばいいけど壊し方が難しい!」
プリティミューは叫びながら、飛んできた銀刃をハンマーで弾いた。
火花が飛ぶ。
その反動で腕が痺れる。
アインが通信に割り込む。
《メグ君の解析と一致した。黒羽根タグは残骸データを無理やり同期させている。タグの同期を切れば、残骸影は維持できない》
「じゃあそれやって!」
《今やっている。バイト君、ミュー・ハンマーを調整する》
「今回は何!?」
《回収タグの同期だけを切る。残骸データを燃やすのではなく、休眠させる》
「つまり?」
《眠らせる》
「最初からそう言って!」
ワトソンが続ける。
《ミユさん、今回の出力は破壊ではなく沈静化です。強く叩きすぎるとデータ片が飛散します》
「ハンマーなのに優しく叩けってこと!?」
《はい》
「難易度高い!」
《技名は、ミュー・レストブレイク》
「今回はちょっと重いけど、わかる!」
グレイヴコンドルが、天井近くから滑るように降りてくる。
「眠らせる?」
仮面の嘴が、わずかに開いた。
「いいえ。敗北者に眠りなど不要です」
プリティミューは、ハンマーを構え直す。
「必要だよ」
「怪人ですよ」
「だから何」
「敵ですよ」
「敵でも、終わったなら終わらせろ!」
倉庫が、一瞬静かになった。
自分の言葉が、古い焼却炉や黒い墓標に反響する。
敵でも。
終わったなら。
終わらせろ。
プリティミューは、自分で言った言葉に少し驚いていた。
蜘蛛男は怖かった。
蝙蝠伯爵にはメグをさらわれた。
レイディスコーピオンの毒は、今でも思い出すと胸がざらつく。
サラセニア・ルージュには、自分の欲しいものを見透かされた。
マンティスシザーには、母との言葉を切られた。
カメ・レオンには、自分よりちゃんとした自分を見せられた。
ミラクルハニーには、母を小さくされた。
みんな、敵だった。
倒さなければいけなかった。
許せないこともした。
でも、今目の前で動いているこれは違う。
空っぽだ。
意思もない。
言葉もない。
そのくせ、あの時の怖さだけを貼りつけている。
本物たちは、もっと面倒くさかった。
もっと腹が立った。
もっと怖かった。
もっと、ちゃんと生きていた。
「負けたデータって言うな」
プリティミューは呟いた。
グレイヴコンドルが首を傾げる。
「何と?」
「ちゃんと戦って、ちゃんと倒されたやつらだよ」
言ってから、胸の奥が熱くなった。
正義の味方らしい言葉なのかはわからない。
でも、今の自分にはそれしか言えなかった。
プリティミューはミュー・ハンマーを両手で握る。
白い光が、ハンマーの先端に集まり始めた。
いつもの派手なピンクの光ではない。
もっと静かで、淡い光。
暗い倉庫の中で、小さな灯りのように広がる光だった。
「眠れ」
プリティミューは一歩踏み出す。
「ちゃんと」
巨大な残骸影が、黒い腕を振り上げた。
蜘蛛糸が走る。
蔓が伸びる。
毒針が赤く光る。
蜜が床を覆う。
音波が揺れる。
偽装皮膜が視界を乱す。
刃が空気を切る。
それでも、プリティミューは前へ出た。
「ミュー・レストブレイク!」
ミュー・ハンマーが床を叩いた。
ピコッ、という間抜けな電子音。
その直後、淡い白い衝撃波が倉庫全体に広がった。
それは爆発ではなかった。
押し流す波でもなかった。
静かに、広がっていく。
黒羽根タグに触れた瞬間、羽根がぱきりと割れた。
一枚。
また一枚。
墓標カプセルの隙間に刺さっていた黒羽根が、次々に砕けていく。
巨大な残骸影の動きが止まった。
蜘蛛男の糸が、するするとほどける。
糸は白い埃のようになって消えた。
蝙蝠伯爵のオルゴール音が、最後に一音だけ鳴り、それきり沈黙した。
赤い毒霧が薄くなり、空気に溶ける。
サラセニアの蔓が、枯れた花びらのように縮んでいく。
銀の刃がひび割れ、光の粒になった。
カメ・レオンの皮膜が剥がれ、透明な膜となって床に落ちる。
ミラクルハニーの蜜が、透明な結晶になり、音もなく砕けた。
巨大な残骸影が、形を保てなくなる。
混ざり合っていたパーツがほどける。
過去の能力片が、それぞれの輪郭を失っていく。
それは消滅というより、ようやく動くことをやめたように見えた。
プリティミューは息を吐く。
「……よし」
グレイヴコンドルが、初めてよろめいた。
黒い翼の端から、粒子がこぼれる。
「残骸データが、休眠……?」
その声には、わずかな動揺が混じっていた。
メグが叫ぶ。
「先輩、今です!」
プリティミューは顔を上げる。
グレイヴコンドルは、すぐに翼を広げた。
逃げるつもりだ。
黒い羽根が舞い上がり、空中に墓標のような紋様を描く。倉庫の天井近くへ滑り上がりながら、腰の黒い小型棺を開こうとする。
「させるか!」
プリティミューは走った。
床はまだ蜜の名残で滑る。
ところどころ蜘蛛糸の残りが靴底に絡む。
それでも前へ進む。
ワトソンの声が入る。
《制御コア位置を表示します》
視界の端に、青いマーカーが出た。
グレイヴコンドルの胸部。
墓標のような装甲板の奥。
そこに、回収棺カプセルと同期した制御コアがある。
アインが言う。
《バイト君、回収棺カプセルの中心を狙え》
「棺桶を叩くの、ちょっと罰当たりじゃない?」
《墓荒らしの道具だ》
「なら遠慮しない!」
プリティミューは床のコンテナを踏み台にした。
錆びた金属がへこむ。
そこから跳ぶ。
グレイヴコンドルは空中で身をひねり、黒い翼を刃のように振るった。
風圧が頬を打つ。
羽根の一枚一枚が鋭い。
プリティミューはハンマーを盾のように構え、翼の一撃を受けた。
「重っ……!」
空中で体が弾かれる。
だが、その勢いを逆に使った。
倉庫の壁に足をつき、蹴り返す。
ミユ自身でも、今の動きがきれいだったとは思えなかった。
無理やり。
泥臭く。
半分、転がるみたいに。
でも、届いた。
プリティミューは、グレイヴコンドルの黒い翼の上へ飛び乗った。
「なっ……!」
「捕まえた!」
翼が大きく揺れる。
グレイヴコンドルが急上昇しようとする。
プリティミューは片手で翼の装甲を掴み、もう片方の手でミュー・ハンマーを振り上げた。
肩の傷が痛む。
さっき黒羽根が刺さった場所が熱い。
けれど、手は離さない。
下を見ると、メグが黒い鎖から半分抜け出しながら、こちらを見上げていた。
ワトソンがその鎖を解析している。
アインの声が、耳元で静かに言った。
《出力最大。いけ、バイト君》
「言われなくても!」
グレイヴコンドルが叫ぶ。
「敗北は、集められるべきものです! 死骸は、無駄にしてはなりません!」
「無駄かどうかを、あんたが勝手に決めるな!」
プリティミューはハンマーを振り下ろした。
「プリティ・グレイヴエンド・インパクト!」
一撃。
ミュー・ハンマーが、グレイヴコンドルの胸部装甲を叩き割った。
黒い墓標のような装甲板に、大きな亀裂が走る。
その奥にあった回収棺カプセルが、白い光に包まれた。
ぱきん、と音がした。
小さな棺が割れる。
中から、黒い羽根と赤いデータ光が大量に噴き出した。
グレイヴコンドルの翼が大きく開く。
そして、力を失った。
プリティミューは一緒に落下する。
「うわあああっ!」
空中で体勢を整えようとするが、うまくいかない。
下は水たまりと錆びた床。
ぎりぎりでハンマーを床に打ち込み、衝撃を逃がした。
派手な音を立てて着地する。
膝が笑う。
「着地、五点……」
《採点基準が不明です》
「黙っててワトソン……」
少し離れた場所で、グレイヴコンドルが床へ叩きつけられた。
黒い翼が折れ、胸部の回収棺カプセルは砕けている。
倉庫内の空気が、急に軽くなった。
さっきまで鼻の奥にこびりついていた消毒薬と鉄錆の匂いも、少し薄くなった気がする。
黒い墓標カプセルの表示窓が、次々に消灯していく。
メグの足を拘束していた黒い鎖も、粒子になってほどけた。
「メグちゃん!」
プリティミューが駆け寄ろうとした、その時だった。
倒れたグレイヴコンドルの胸部から、細い光が伸びた。
糸のように細い通信光。
赤黒いデータの線。
それは、天井の通信端末へ走り、そこから施設の奥へ抜けていく。
ワトソンが鋭く言う。
《データ転送を検知》
「止めて!」
《遮断を試みます》
アインの声も重なる。
《まずい。最低限の敗北反応データが送信される》
「最低限って、何!?」
《君の今の反応だ》
プリティミューは、グレイヴコンドルへ駆け寄り、砕けた胸部装甲をハンマーで叩いた。
通信光はそこで途切れた。
だが、完全には間に合わなかった。
どこか遠くへ、すでに何かが送られてしまった感覚があった。
ジョーカーの研究室。
白い照明の下。
ドクター・モルスは、モニターに流れ込んできたデータを見ていた。
黒い手袋の指が、キーボードの上で止まる。
画面には、プリティミューの戦闘反応が波形として映っていた。
敵への怒り。
残骸への嫌悪。
過去怪人への複雑な認識。
そして、倒した相手にも「終わり方」があると感じた瞬間の反応。
モルスは、静かに微笑んだ。
「素晴らしい」
彼は椅子に深く座り直す。
「プリティミューは、敵の残骸にも反応する」
その声は、楽しげで、冷たかった。
「これで、復元実験の精度が上がる」
地下倉庫では、グレイヴコンドルがわずかに身じろぎした。
胸部は砕け、翼も崩れ始めている。
黒い羽根が、床に落ちる前に粒子になって消えていく。
プリティミューは、ハンマーを構えたまま見下ろした。
もう攻撃は必要ない。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
グレイヴコンドルは、仮面のような顔をわずかに上げた。
「死骸は……必ず、誰かが拾います」
声は、ひび割れていた。
「それが仕事だからです」
プリティミューは黙っている。
グレイヴコンドルの黒い嘴が、わずかに笑ったように見えた。
「墓場は……空ではありません」
「……そんな仕事、やめればよかったのに」
プリティミューの声は、小さかった。
グレイヴコンドルは答えなかった。
黒い粒子が、その身体をほどいていく。
翼が崩れる。
鉤爪が崩れる。
墓標の胸部装甲が、砂のようになって床へ落ちる。
やがて、そこには黒い羽根の欠片だけが残った。
いや。
もうひとつ。
砕けた回収棺カプセルの一部が、床に残っていた。
黒く、小さな棺の破片。
プリティミューは、それを見下ろす。
勝った。
グレイヴコンドルは倒した。
残骸影も眠らせた。
でも、胸の奥は少しも晴れなかった。
メグが、ゆっくりと近づいてくる。
「先輩」
「うん」
「現場の残骸反応は、ほとんど沈静化しています」
「ほとんど、か」
「はい」
メグは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「一部は、転送されました」
プリティミューは、砕けた回収棺を見つめたまま、唇を噛む。
「……やっぱり、終わってないじゃん」
古い地下倉庫の天井から、水滴が落ちた。
ぽたり。
その音だけが、黒い墓標の並ぶ空間に響いた。




