第5節 ― 残骸倉庫の墓標
ホウジュ区の地下は、街の顔をしていなかった。
駅前の光。
商店街の看板。
コブラカレーのスパイスの匂い。
そういう、人が暮らしている場所の気配は、階段を一段降りるたびに遠ざかっていった。
旧清掃処理施設へ続く地下通路は、再開発の途中で忘れられたような場所だった。入口には錆びたフェンスが斜めに立ち、黄色い立入禁止テープは湿気でたるみ、古い警告看板には《関係者以外立入禁止》の文字が半分剥がれている。
メグがスマホのライトを点けた。
白い光が、コンクリートの壁をなぞる。
壁には、古い水染みが何本も垂れていた。天井からは、ぽたり、ぽたりと水が落ちる。水音は細いのに、通路の奥まで反響して、誰かが暗がりで舌打ちしているみたいに聞こえた。
ミユは思わず肩をすくめた。
「うわ。ここ、絶対に昼間でも怖いやつじゃん」
「昼間でも地下なので、あまり変わらないと思います」
「そういう正論いらない」
メグは、スマホに表示された地図と黒い羽根の反応を照合しながら歩いている。表情は真剣だが、手元のライトがかすかに揺れていた。
怖くないわけではないのだろう。
それでも、彼女は歩くのをやめない。
ミユはその横顔を見て、少しだけ唇を噛んだ。
こんな場所に後輩を連れてきていいのか。
何度も思った。
けれど、メグを置いてきたところで、たぶん彼女は別ルートから調べに来る。そういう子だと、もうわかってしまっている。
なら、目の届くところにいてくれた方がいい。
それは言い訳でもあるし、本音でもあった。
ワトソンは人間アバターの姿で、二人の少し前を歩いていた。白い少年のような姿に、暗い地下通路は妙に似合わない。けれどその瞳だけは、暗視モードに切り替わっているらしく、薄く青白く光っている。
「空気中に消毒薬成分、鉄錆、微量の怪人細胞反応を確認しました」
「最後のが一番聞きたくなかった」
「申し訳ありません。ですが、ここが目的地である可能性は九十一パーセントです」
「十パーセントくらい外れてほしかったなあ」
ミユは、コブラカレーで食べたカレーの熱が、まだ胃のあたりに残っているのを感じた。
あの店を出た時、少しだけ元気になった。
でも、この地下へ降りた途端、その温かさはずいぶん遠くなってしまった。
空気が冷たい。
冷たいだけではなく、古い。
長い間、開けられていなかった箱の中に、無理やり入り込んだような匂いがする。
メグが小声で言った。
「先輩。黒羽根の誘導信号、かなり強くなっています」
「つまり、もうすぐ?」
「はい。たぶん、この先です」
通路の突き当たりに、大きな鉄扉があった。
両開きの扉。
かつては処理車両が出入りしていたのだろう。扉の下にはレールの跡があり、その周囲に黒ずんだ油汚れがこびりついている。
扉の表面には、古い施設名が薄く残っていた。
《宝珠区旧清掃処理施設 地下保管庫B》
その下に、誰かが後から貼ったらしい白いラベルがあった。
《産業廃棄物一時保管区域》
ミユは眉をひそめる。
「表向きからして嫌な名前の場所、ほんとに来ちゃったよ」
「先輩、ここです」
メグのスマホ画面では、黒い羽根の反応が扉の向こうで最大値を示していた。
ワトソンが扉に手を当てる。
「電子ロックは生きています。ただし、外部回線には接続されていません」
「開く?」
「可能です。アイン様から簡易解除キーを受信しました」
耳元の通信に、アインの声が入る。
《バイト君、そこで引き返す選択肢もある》
ミユは少し驚いた。
「え、アインがそういうこと言うの珍しくない?」
《ここから先は、明らかに誘い込まれている。合理的には、準備を整えてから再侵入すべきだ》
「それ、正論だね」
《そうだ。だから、キミが聞かないことも予測している》
「わかってるじゃん」
ミユは、扉の向こうを見つめた。
ここにあるのは、過去に倒した怪人たちの残骸かもしれない。
グレイヴコンドルの罠かもしれない。
ドクター・モルスという、まだよくわからない敵の実験場かもしれない。
怖い。
嫌だ。
正直、できれば入りたくない。
でも、放っておけば、また黒い羽根が戦った場所へ刺さる。
また空っぽの影が作られる。
また、倒したはずの敵たちが、誰かの都合で引きずり出される。
ミユは、拳を握った。
「入る」
メグが頷いた。
ワトソンがロックを解除する。
重い電子音が、地下に響いた。
がこん、と内部の錠が外れる。
扉がゆっくり開く。
そこから流れてきたのは、消毒薬の匂いだった。
清潔な匂いではない。
腐ったものをごまかすために、上から薬品を撒いたような、鼻の奥に刺さる匂い。
その下に、湿った鉄の匂い。
古い焼却炉の灰の匂い。
そして、怪人細胞の気配としか言いようのない、ぬめるような違和感。
ミユは、思わず口元を押さえた。
「うっ……」
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、進む」
扉の向こうは、巨大な倉庫だった。
天井は高い。
古い蛍光灯が、ところどころ切れかけながら白く瞬いている。その光が届かない場所には、濃い影が沈んでいた。
床には水たまりがあり、歩くたびに靴底が湿った音を立てる。
壁際には錆びたコンテナが積まれていた。赤茶けた鉄板。剥がれた番号札。使われなくなった処理機械。巨大な古い焼却炉が、奥の壁に黒い口を開けている。
どこか、工場の廃墟に似ている。
けれど、それだけではなかった。
倉庫のさらに奥。
コンテナの列を越えた先に、黒いものが並んでいた。
最初、ミユはそれを棺だと思った。
細長い。
人ひとりが入るほどではないが、形が妙に葬具めいている。
黒いカプセル。
表面はつやのない黒で、ところどころに灰銀の金属枠がはまっている。上部には小さな表示窓があり、その横に白いラベルが貼られている。
それが、倉庫の奥にずらりと並んでいた。
墓標のように。
ミユの足が止まる。
メグのスマホの光が、最初のラベルを照らした。
《蜘蛛男/拘束糸反応》
その隣。
《蝙蝠伯爵/超音波残響》
さらに隣。
《レイディスコーピオン/毒針片》
《サラセニア・ルージュ/捕虫根反応》
《マンティスシザー/裁断刃片》
《カメ・レオン/偽装皮膜反応》
《ミラクルハニー/幼若化毒針》
ミユは息を呑んだ。
「これ……全部」
声が、自分のものではないみたいに聞こえた。
名前が並んでいる。
戦った相手の名前。
怖かった相手。
腹が立った相手。
泣きそうになった相手。
最後に、少しだけ言葉を交わした相手。
それが、まるで倉庫の管理番号みたいに並んでいる。
ワトソンが静かに言った。
「各カプセル内に、微量の怪人細胞片および能力残留反応を検出しています」
「……本当に、拾ってたんだ」
ミユは、蝙蝠伯爵のラベルを見た。
あの夜のことが蘇る。
オルゴールの音。
廃劇場。
メグのぼんやりした目。
夜明けの空。
崩れていく黒い羽根と赤紫の粒子。
終わったはずだった。
終わったと思っていた。
なのに、ここにラベルがある。
回収され、分類され、保管されている。
メグが、かすれた声で言った。
「これは、記録じゃありません」
ミユは横を見る。
メグの顔は青ざめていた。
けれど、目だけは怒っている。
「怪人事件ログは、忘れないために残しています。でもこれは、使うために残している」
「うん」
ミユは小さく頷いた。
「それ、全然違う」
その時、倉庫の奥で羽根の擦れる音がした。
ばさり。
暗がりから、黒い影が降りてくる。
黒と灰銀の翼。
喪服のマントのように広がる羽根。
墓標を思わせる胸部装甲。
嘴と仮面が混ざったような顔。
腰には、いくつもの小型の黒い棺。
グレイヴコンドルは、墓標の列の前へ静かに降り立った。
「ようこそ、プリティミュー」
丁寧な声だった。
葬儀の受付係のように落ち着いていて、心底不快だった。
「そして、記録者のお嬢さん。白い分析人形も」
ワトソンが答える。
「私は人形ではなく、支援AIです」
「それは失礼いたしました。分類を誤りました」
「分類しないで」
ミユが一歩前に出る。
グレイヴコンドルは、軽く首を傾げた。
「お気に召しませんか」
「当たり前でしょ」
「墓標でございます」
彼は、黒いカプセルの列を片翼で示した。
「戦いの記録。敗北の証明。終わった者たちが残した、有用な沈黙です」
「墓標っていうなら、静かに置いときなよ」
ミユの声が低くなる。
「いいえ」
グレイヴコンドルは、穏やかに言った。
「墓標は記録を残すためにあります」
「だからって、勝手に掘り返すな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
倉庫に反響する。
水たまりが震える。
黒いカプセルの表示窓が、いくつか赤く点灯した。
グレイヴコンドルは動じない。
「掘り返す、という表現は感傷的です。正しくは、再利用です」
「もっと嫌!」
「敗北した怪人の能力片には、まだ価値があります。プリティミューとの戦闘を経た反応は、特に鮮度がよい」
「鮮度って言うな!」
「敗北にも、鮮度がございます」
その瞬間、ミユの中で何かが切れそうになった。
怪人たちは、敵だった。
許せないこともたくさんした。
人を傷つけた。
街を混乱させた。
ミユ自身も何度も怖い思いをした。
でも。
それでも。
倒されたあとに、こんなふうに並べられて、ラベルを貼られて、鮮度だの価値だのと言われるのは、違う。
違う。
どう言えばいいのかわからない。
でも、胸の奥が強く拒んでいる。
グレイヴコンドルが翼を広げた。
黒い羽根が、倉庫の中へ舞い上がる。
それぞれのカプセルの表示窓が、赤く光った。
低い機械音が重なり、黒いカプセルの隙間から、影のようなものが漏れ出してくる。
最初に、白い糸が床を這った。
蜘蛛男の糸。
次に、古いオルゴールの音が鳴った。
蝙蝠伯爵の超音波。
赤い霧が広がる。
レイディスコーピオンの毒。
床の隙間から赤紫の蔓が伸びる。
サラセニア・ルージュの捕虫根。
空中に、銀の刃がきらめく。
マンティスシザーの裁断刃。
壁の影が揺らぎ、別のものへ変わろうとする。
カメ・レオンの偽装皮膜。
床に落ちた粘る黄金色の液体が、ぬるりと光る。
ミラクルハニーの蜜。
それらが、ひとつひとつ形を取り始めた。
だが、完全な姿ではない。
顔がない。
目がない。
声がない。
ただ、かつての怪人たちの輪郭と能力だけが、黒い影に貼りつけられている。
空っぽの怪人影たち。
残骸影。
ミユは、喉の奥からこみ上げる吐き気のような感覚を飲み込んだ。
「違う」
メグが聞く。
「先輩?」
「こいつら、前の怪人たちじゃない」
「はい。残骸データです」
「なのに、姿だけ使ってる。技だけ使ってる」
ミユは拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「すごく嫌」
グレイヴコンドルが、静かに言う。
「感情的ですね」
「感情くらい出るでしょ」
「敵だった者たちです」
「敵でも」
ミユは、黒い影たちを見た。
蜘蛛男の糸が、機械的に床を這う。
蝙蝠伯爵の音が、意味もなく空気を震わせる。
レイディスコーピオンの毒は、もう誰かを刺す言葉を持っていない。
サラセニアの蔓には、甘い誘惑の声がない。
マンティスの刃は、文脈を切る意志もなくただ光る。
カメ・レオンの偽装は、誰かになろうとする狡猾さもない。
ミラクルハニーの蜜は、もう笑っていない。
全部、空っぽだった。
だからこそ、嫌だった。
「空っぽの操り人形にされていい理由にはならない」
倉庫の壁際。
古い監視カメラの赤いランプが、静かに点滅していた。
その向こう。
ジョーカーのどこか、白い研究室。
ドクター・モルスは、モニター越しにミユの言葉を聞いていた。
白いコートの袖。
黒い手袋。
薄い笑み。
「興味深い」
彼は、細い指で画面をなぞる。
「敵の残骸に対しても、嫌悪反応を示す」
別のモニターには、ミユの生体反応が波形で表示されている。
心拍上昇。
筋緊張。
怒りに近い反応。
ただし、恐怖だけではない。
同情でもない。
嫌悪。
尊厳を踏みにじられたものへの拒絶。
モルスは、心底楽しそうに目を細めた。
「プリティミュー。君は、実に面白い」
地下倉庫では、グレイヴコンドルが黒い翼を畳んだ。
「では、追加で採取しましょう」
その仮面のような顔が、メグへ向く。
「記録者も回収しておきましょう」
メグが息を呑む。
床に、黒い羽根が突き刺さった。
メグの足元。
水たまりが黒く染まる。
そこから、鎖のような影が伸びた。
「メグちゃん!」
ミユは走った。
だが、蜘蛛糸の残骸影が床を塞ぐ。
白い糸が足首に絡みかける。
ミユは飛び越えようとして、バランスを崩した。
黒い鎖がメグの足に絡む。
メグはスマホを落としそうになりながら、必死に踏みとどまった。
「先輩、私は――」
「大丈夫じゃないでしょ!」
ミユは叫ぶ。
もう迷わなかった。
ここは地下倉庫だ。
目撃者はいない。
いや、監視カメラはある。
グレイヴコンドルも見ている。
ドクター・モルスも、どこかで見ているかもしれない。
それでも、メグが目の前で捕まっている。
なら、選択肢は最初からひとつだった。
ミユは袖口からμブレスレットを露出させた。
暗い倉庫の中で、小さな装置が白く光る。
「サイエンスパワー・メイクアップ!」
光が弾けた。
白とピンクの光が、湿った鉄と消毒薬の匂いに満ちた残骸倉庫を切り裂く。
フリル状の装甲が展開する。
手足に光のラインが走る。
胸元のエンブレムが点灯し、μシステムが起動音を鳴らす。
ミユの制服が、科学少女プリティミューの姿へ変わっていく。
最後に、手の中へミュー・ハンマーが生成された。
ピコッ。
いつもの間抜けな電子音が、地下倉庫に響いた。
この場所には似合わない音だった。
だからこそ、ミユは少しだけ息を吸えた。
プリティミューは、ハンマーを構えてグレイヴコンドルを睨む。
「人の勝ち負けを、勝手に墓荒らしの材料にするな!」
グレイヴコンドルは、ゆっくりと礼をした。
「よい怒りです」
「褒められても全然嬉しくない!」
「怒りも、敗北も、恐怖も、すべて貴重な反応です」
「ほんっとに話が通じない!」
メグを拘束する黒い鎖が、さらに締まる。
プリティミューは飛び出した。
ミュー・ハンマーを振り下ろし、蜘蛛糸の残骸影を叩き潰す。
だが、その横から蝙蝠伯爵の音波が走り、プリティミューの耳元で空気が歪んだ。
「っ……!」
体が一瞬揺れる。
そこへレイディスコーピオンの毒霧が重なり、視界が赤くにじむ。
サラセニアの蔓が足を狙う。
マンティスシザーの刃が空中を裂く。
カメ・レオンの偽装皮膜が、壁と床の境目を曖昧にする。
ミラクルハニーの蜜が、床を粘つかせる。
ひとつひとつは、本物より弱い。
動きも単調だ。
けれど、数が多い。
嫌な記憶を、いっぺんに投げつけられているようだった。
「全部まとめて来るな!」
プリティミューは、蔓を踏み越え、毒霧を避け、刃をハンマーで弾いた。
そのたびに、黒い残骸影が揺らぐ。
だが、完全には消えない。
奥で、グレイヴコンドルが黒い小型棺を一つ取り外した。
それは、他のものより大きい。
棺の表面には、過去怪人たちのラベルが細かく刻まれていた。
蜘蛛。
蝙蝠。
蠍。
サラセニア。
蟷螂。
カメレオン。
蜂。
全部。
プリティミューは、嫌な予感にハンマーを握り直した。
「何それ」
「これまでの敗北を束ねたものです」
グレイヴコンドルは、棺の蓋に手をかける。
「単体の残骸影では、あなたの反応は限定的でした」
「だから?」
「では、束ねてみましょう」
棺が開いた。
中から、黒い液体のような影が溢れ出す。
床に落ちる前に、それは膨れ上がり、何本もの腕と脚と翼と蔓と刃を持つ巨大な影へ変わっていった。
蜘蛛の脚。
蝙蝠の翼。
蠍の尾。
植物の根。
蟷螂の刃。
カメレオンの歪む皮膜。
蜂の蜜色の毒針。
それらが無理やり縫い合わされた、巨大な残骸影。
顔はない。
声もない。
ただ、過去の敗北だけが混ざっている。
プリティミューは、ハンマーを構えたまま顔をしかめた。
「最悪のリサイクル精神!」
巨大な残骸影が、音もなく動いた。
黒い翼が広がる。
水たまりが震える。
倉庫の蛍光灯が、一斉にちらついた。
グレイヴコンドルは、墓標の列の前で静かに告げる。
「さあ、プリティミュー」
黒い棺の底から、赤い光が脈打つ。
「あなたが積み重ねた勝利と、もう一度お会いください」
プリティミューは奥歯を噛む。
怖い。
気持ち悪い。
腹が立つ。
それでも、後ろにはメグがいる。
この地下倉庫の奥には、まだ利用されかけている残骸がある。
なら、引けない。
プリティミューは、ハンマーを両手で握りしめた。
「会いたくない形で出してくるな」
巨大な残骸影が、床を砕きながら迫る。
ミユは一歩、前へ出た。




