第4節 ― コブラカレーの黒い客
コブラカレーの店内には、いつもと同じ匂いが満ちていた。
炒めた玉ねぎの甘い香り。
焦がさないぎりぎりまで火を入れたスパイスの苦味。
煮込まれた肉と野菜の重い湯気。
それから、古い木のカウンターに染み込んだ、何年分もの昼と夜の匂い。
外の通りでは、夕方の光が少しずつ落ちている。ホウジュ区駅裏の商店街は、昼間の騒がしさと夜の雑多さの境目にあり、買い物帰りの主婦、部活帰りの高校生、会社帰りのサラリーマンが、ばらばらの速度で行き交っていた。
そのすぐ横で、コブラカレーだけは、妙に時間が遅い。
テレビはついているが、音は小さい。
換気扇が回り、鍋の中でカレーが重たく泡を立てる。
店主のコブラは、いつものようにカウンターの奥に立っていた。
白髪混じりの髪。くたびれたシャツ。カレーの匂いがしみついたエプロン。目つきは悪いのに、手元の動きだけは妙に丁寧で、鍋をかき混ぜるたびに木べらが底をこする低い音がした。
そのカウンター席に、ミユとメグは並んで座っている。
ミユの前には、いつものチキンカレー。
メグの前には、辛さ控えめの野菜カレー。
ワトソンは人間アバターの姿で、二人から少し離れた席に座っていた。白い少年のような外見で、手元の小型端末を操作しながら、時折、店内の匂いを分析するように鼻を動かしている。
ただし、彼の前に置かれた小皿の福神漬けには手をつけていない。
ミユは、スプーンを持ったまま、カレーを見下ろしていた。
いつもなら、事件のあとでも腹は減る。
むしろ事件のあとほど、異様に腹が減る。
変身して、走って、跳んで、殴って、怒鳴って、ツッコんで、怪人を倒した後の体は、信じられないくらい正直だ。
なのに今日は、スプーンが進まなかった。
カレーはおいしい。
それは間違いない。
香りも、見た目も、胃袋に直接訴えかけてくる。
だが、廃劇場で見たものが、喉の奥にひっかかっている。
蝙蝠伯爵の形をした、空っぽの影。
かつてミユが本気で怖がって、本気で戦って、最後には夜明けの中で崩れていった怪人。
それと同じ形をしたものが、意味もなく、言葉もなく、ただ音波だけを吐いて動いていた。
あれは蝙蝠伯爵ではない。
それはわかっている。
わかっているのに、嫌だった。
とても、嫌だった。
「どうした、嬢ちゃん」
鍋の向こうから、コブラが言った。
ミユは顔を上げる。
「え?」
「食わねえなら、米が泣く」
「米にそこまで情緒持たせないでよ」
「米は偉いぞ。黙って炊かれて、黙って皿に盛られて、文句も言わずに腹を満たす」
「急に米の人生語らないで」
「人生じゃねえ。米生だ」
「そこ広げなくていい!」
いつもなら、そのまま勢いでスプーンを動かせたかもしれない。
けれど今日は、ツッコミを入れても、胸の中の重さはあまり変わらなかった。
ミユは、スプーンでカレーの表面を軽く押した。
ルーが、ゆっくり波を立てる。
「いや、なんかさ」
言葉を選ぶ。
でも、うまく選べない。
メグが隣で、黙ってこちらを見る。
ワトソンも端末から顔を上げた。
コブラは、鍋をかき混ぜ続けている。
ミユは、小さく息を吐いた。
「倒した怪人の残りが使われてるって、気持ち悪くない?」
店内の空気が、ほんの少しだけ止まった。
換気扇の音。
鍋の泡立つ音。
外を走る自転車のベル。
その全部が、一瞬だけ遠くなる。
コブラは、木べらを動かしたまま言った。
「気持ち悪いな」
即答だった。
あまりにも迷いがないので、ミユは瞬きをする。
「そこ即答なんだ」
「気持ち悪いもんは気持ち悪い」
「おじさん、たまにすごいストレートだよね」
「遠回しに言ったら味がぼける」
「カレー基準で会話しないで」
コブラは、鍋を一度だけ強くかき混ぜた。
スパイスの香りが、ふっと濃くなる。
「死んだやつまで働かせるたぁ、ろくでもねえ」
低い声だった。
いつもの冗談めいた調子ではない。
ミユは、スプーンを持つ指に力が入るのを感じた。
メグが、すっと顔を上げる。
「おじさん」
「あ?」
「怪人の残骸回収について、何か知っているんですか」
メグの声は丁寧だった。
けれど、ただの好奇心ではない。
彼女はもう、事件を追っている。
怪人事件ログに情報を積み重ねてきた目で、コブラを見ている。
コブラは、鍋から顔を上げない。
「カレー屋はな」
ミユは小さく身構えた。
また来る。
いつもの、何でもカレー屋にしてごまかすやつが来る。
「客が残した皿を見る商売なんだよ」
メグは一秒ほど黙った。
それから、真顔で言った。
「今回はかなり無理があります」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、ちょっと無理があった」
「認めるの早い!」
ミユは思わずツッコんだ。
ほんの少しだけ、空気がゆるむ。
だが、コブラは笑わなかった。
カウンターの奥で、鍋を見ている。
その横顔は、いつものくたびれたカレー屋の店主に見える。
けれど、目だけが違っていた。
ずっと遠いところを見ているような目。
あるいは、ずっと昔に見たものを、今でも忘れていない人間の目。
ミユは、そこまで考えてから、首を横に振った。
いや。
考えすぎ。
このおじさんは、いつも意味深なことを言うだけのカレー屋だ。
たぶん。
たぶん、そう。
そう思いたい。
ワトソンが小さな声で言った。
「ミユさん。コブラ店主の脈拍が、通常時よりわずかに低下しています」
「それって?」
「緊張ではなく、警戒に近い反応です」
「ワトソン、そういうの本人の前で言わないの」
「申し訳ありません」
コブラは、ちらりとワトソンを見た。
「最近の猫は、人の脈まで見るのか」
「私は猫ではなく、支援AIです」
「飯を食わねえやつは客じゃねえ」
「では福神漬けを一ついただきます」
「それは食ったうちに入らねえ」
そう言いながらも、コブラは小皿を少しワトソンの方へ押した。
その時だった。
店の扉につけられた小さな鈴が鳴った。
からん。
軽い音のはずだった。
だが、その音は妙に乾いて聞こえた。
ミユは反射的に入口を見る。
メグも、ワトソンも同時に顔を向けた。
夕方の通りを背に、一人の男が立っていた。
黒いコート。
深くかぶった帽子。
顔の上半分は影になっていて、目元は見えない。
首元まできっちり閉じた服。
手には、黒い手袋。
背は高い。
痩せている。
動きは静かで、足音がほとんどしない。
店内に入った瞬間、カレーの匂いの中に、別の匂いが混ざった気がした。
湿った土。
古い石。
消毒薬。
それから、羽根が濡れたような、薄い獣臭。
ミユの背筋に、冷たいものが走る。
さっきまで廃劇場で感じた嫌な気配に、どこか似ている。
人間に見える。
けれど、人間の入り方ではない。
男は、店内をゆっくり見回した。
そして、ミユたちのいるカウンターから少し離れた席へ、静かに座った。
コブラは、鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
止めなかったが、目だけが鋭くなった。
「いらっしゃい」
普段通りの声。
しかし、その下に低い響きがある。
黒い客は、帽子のつばをわずかに上げた。
「香りのよい店ですね」
声は丁寧だった。
耳に触れるほど穏やかで、それが逆に落ち着かない。
ミユは、スプーンを握りしめる。
メグは、膝の上でスマホをそっと起動した。
ワトソンの瞳が、かすかに光る。
コブラが言った。
「注文は」
「持ち帰りで」
黒い客は、手袋をした指をカウンターに軽く置く。
「できれば、冷めても利用価値のあるものを」
店内の温度が、一段階下がった気がした。
ミユは、思わず顔をしかめる。
嫌な言い方。
ただのカレーの注文ではない。
この男は、わざとそう言っている。
コブラは、鍋から木べらを引き上げた。
赤茶色のルーが、とろりと落ちる。
「うちは、冷めたもんを墓から掘り返す店じゃねえ」
低い声だった。
今度は、隠す気がない。
ミユは、コブラの横顔を見る。
やっぱり知っている。
少なくとも、この黒い客が何者かを、コブラは察している。
黒い客は、薄く笑った。
「おや。ご存じで?」
「何のことだか」
「カレー屋は、客の残した皿を見る商売でしたか」
「皿を見るのと、墓を掘るのは違う」
「それは、なかなか」
黒い客は、ゆっくりと首を傾けた。
「含蓄のあるお言葉です」
ミユはもう、我慢できなくなった。
「あのさ」
メグが小さく言う。
「先輩」
止める声だった。
だが、ミユの口は止まらなかった。
「あんた、何者?」
黒い客は、ゆっくりミユを見た。
帽子の影の奥で、目が光った気がした。
「あなたも」
声が、少しだけ変わる。
丁寧さはそのままなのに、奥に冷たいものが混ざった。
「よい勝利を重ねておられる」
「は?」
「勝った場所には、よい死骸が残るものです」
ミユの椅子が、がたっと鳴った。
立ち上がりかけたのだと、自分で気づくのが遅れた。
胸の奥が、熱くなる。
怒りだった。
怖さもある。
嫌悪感もある。
でも、それらが一緒になって、体が先に動いた。
「あんた――」
「店で揉めるな」
コブラの声が割って入った。
ミユは振り返る。
「でも」
「外でやれ」
「おじさん!」
「カレー屋で暴れるやつは、正義の味方でも出禁だ」
「そこ!?」
「そこだ」
コブラは、ミユを見ない。
黒い客を見ている。
いや。
睨んでいる。
黒い客は、ほんの少しだけ笑ったようだった。
「よい店です」
「代金は先払いだ」
「では、またの機会に」
「二度と来るな、とは言わねえよ」
コブラは、木べらを鍋の縁に置いた。
「ただし次は、普通に注文しろ」
「善処いたします」
「その言い方をするやつは、だいたいしねえ」
「よくご存じで」
黒い客は、静かに立ち上がった。
その動きは、人間のものに似ている。
だが、どこか違う。
肩の使い方。
首の傾け方。
重心の移し方。
まるで、翼を畳んだまま歩いているようだった。
彼は出口へ向かう途中、ミユの横で足を止めた。
「プリティミュー」
ミユの心臓が跳ねた。
まだ変身していない。
今の自分は朝倉ミユだ。
それなのに、その呼び方をされた。
メグが息を呑む。
ワトソンが端末を握り直す。
黒い客は、ミユを見下ろした。
「倒した者たちの眠りを、あなたは気にされるのですね」
「……何が言いたいの」
「よいことです」
彼は、わずかに会釈した。
「その反応も、よいデータになる」
ミユは、拳を握った。
その瞬間、コブラがカウンター越しに言う。
「客」
黒い客が、顔を向ける。
「出口はそっちだ」
「失礼」
鈴が鳴った。
からん。
黒いコートの背中が、夕方の通りへ消えていく。
店内に、カレーの匂いが戻る。
だが、さっきまでと同じではない。
ミユは、しばらく扉を睨んでいた。
追いかけたい。
今すぐ変身して、あの黒い鳥の正体を暴いて、ハンマーで叩きたい。
だが、ここは店内だ。
メグがいる。
ワトソンがいる。
コブラがいる。
それに、あの男はわざとここへ来た。
誘っている。
間違いなく、罠だ。
ミユは奥歯を噛んだ。
「……あいつだ」
小さく言う。
メグは、黒い客が座っていた席を見た。
そこには、何かが残されていた。
黒い羽根。
一本。
カウンターの木目に、まるで最初から刺さっていたみたいに、斜めに突き立っている。
ミユは顔をしかめた。
「お店に羽根刺すなよ。迷惑客すぎる」
「先輩、触らないでください」
メグが即座に止める。
彼女は鞄から小さな透明ケースとピンセットを取り出した。
その手つきは、もう慣れている。
普通の女子高生がカレー屋で黒い怪人羽根を採取する手つきではなかった。
ミユは、それを見ながら少し複雑な気持ちになる。
メグは頼もしい。
頼もしいけれど、こんなことに慣れてほしくなかった。
メグは羽根をケースに収め、スマホに接続した簡易センサーを当てる。
画面に波形が走った。
「この羽根、今までのものより反応が強いです」
「強いって?」
「黒羽根タグとしての吸着反応だけではありません。誘導信号が含まれています」
「日本語で」
ミユが言うより早く、ワトソンが補足した。
「罠です」
「そこはわかりやすすぎる」
メグは、画面を見つめながら頷く。
「たぶん、私たちに来てほしい場所があります」
「罠ってわかってて行くの、すごい嫌なんだけど」
「行かないと、次にどこで残骸影が起動するかわかりません」
「行くしかないやつ?」
「行くしかないやつです」
「だよねえ!」
ミユは、両手で頭を抱えた。
その拍子に、まだほとんど減っていないカレーが視界に入る。
食べなければ。
たぶん、この後また走る。
変身する。
戦う。
お腹が空いていたら力が出ない。
そんな現実的なことを思う自分に、少しだけ腹が立つ。
でも、コブラが前に言っていた。
腹が減っているうちは本物だ、と。
ミユはスプーンを握り直した。
カレーを一口、口に運ぶ。
熱い。
辛い。
おいしい。
そのことに、少し救われる。
コブラが背中越しに言った。
「嬢ちゃん」
「何」
「死骸を拾う鳥が飛ぶ時は、だいたい上が腐ってる」
ミユは、スプーンを止めた。
メグも顔を上げる。
ワトソンの視線も、コブラへ向く。
「……ジョーカーの話?」
「カレー屋の一般論だ」
「絶対違う」
「そうか」
「その一般論、どこのカレー屋で使うの」
「古い店だ」
コブラは、それ以上説明しなかった。
鍋の前に立ち、木べらを動かし、いつものように店主の顔に戻る。
だが、ミユはもうごまかされなかった。
この人は、知っている。
グレイヴコンドルのことも。
ジョーカーの中で何かが起きていることも。
死骸を拾う鳥が飛ぶ時、上が腐っている。
それはただの比喩ではない。
ジョーカーの上。
首領X。
ドクター・モルス。
それとも、もっと別の何か。
ミユには、まだわからない。
ただ、胸の奥で、嫌な予感だけが形を持ち始めていた。
メグのスマホが、小さく鳴った。
画面に地図が表示される。
黒い羽根から抽出した誘導信号が、ホウジュ区の地下を示していた。
駅裏のさらに奥。
再開発から取り残された、古い工業区画。
その地下にある施設名を見て、メグの表情が変わる。
「先輩」
「何かわかった?」
「黒い羽根の信号は、ホウジュ区地下の旧清掃処理施設へ向かっています」
「旧清掃処理施設?」
ミユは、聞いただけで顔をしかめた。
「名前からして行きたくない」
「表向きは、産業廃棄物の一時保管庫です」
「表向きからして嫌な場所じゃん」
「しかも、位置が気になります」
メグは、地図を拡大した。
赤い点が地下施設を示している。
その周囲に、過去の怪人事件地点を重ねたログが表示された。
いくつかの線が、旧清掃処理施設へ向かって伸びている。
「ここ、過去の怪人事件で出た残骸の一時保管場所に近いです」
ミユは、喉の奥が重くなるのを感じた。
「そんな場所あるの?」
「表向きには、怪人事件とは無関係の廃棄物保管庫です。でも、事件後に封鎖された区域と、搬送記録が重なっています」
「つまり」
「おそらく、ジョーカーはそこを経由して残骸を回収しています」
ワトソンが端末を見ながら言った。
「アイン様へ位置情報を送信しました。地下構造図を照合中です」
ミユは、カレーを見下ろした。
まだ半分残っている。
このあと、旧清掃処理施設。
怪人の残骸。
黒い鳥。
罠。
どう考えても、食べてから行くべきだ。
ミユは、スプーンを握りしめた。
「五分」
メグが瞬きをする。
「はい?」
「五分で食べる」
「急いで食べると危ないです」
「でも残したら、米が泣くって言われた」
コブラが奥から言う。
「噛め」
「急かしたり止めたりどっちなの!」
「早く食うのと、雑に食うのは違う」
「カレー屋っぽいこと言ってる!」
「カレー屋だ」
ミユは、少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚く。
まだ気持ち悪い。
まだ怖い。
まだ腹が立つ。
でも、温かいカレーが胃に落ちると、体が少しだけ現実に戻ってくる。
敵が死骸を拾うなら。
こっちは、ちゃんと食べてから行く。
倒したあとにも、終わっていないことがあるなら。
終わらせに行くしかない。
ミユは、最後の一口を飲み込んだ。
スプーンを置く。
「ごちそうさま」
コブラは、何も聞かずに水を出した。
「生きて帰ってこい」
ミユは、ぎくりとする。
「……それ、ただのカレー屋が言う台詞?」
「食い逃げされたら困る」
「台無し!」
それでも、ミユは少しだけ救われた。
メグが立ち上がる。
ワトソンも端末をしまう。
外はもう、夜になりかけていた。
店の扉を開けると、湿った風が入り込んでくる。
その風の中に、かすかに黒い羽根の匂いが混ざっていた。
ミユは、振り返る。
コブラは、鍋の前に立ったままだ。
顔は見えない。
だが、その背中が、いつもより少しだけ重く見えた。
「おじさん」
「あ?」
「帰ってきたら、またカレー食べる」
「金は払え」
「払うよ!」
「ならいい」
コブラは、それだけ言って、また鍋をかき混ぜた。
ミユは扉を閉める。
からん、と鈴が鳴った。
背後にカレーの匂いを残したまま、ミユとメグとワトソンは、旧清掃処理施設へ向かって走り出した。




