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第3節 ― ジョーカー帝都支部、死骸回収会議

 ジョーカー帝都支部の会議室は、今日も無駄に広かった。


 黒い床。黒い壁。壁面には巨大なモニターが何枚も並び、そこには各地の監視映像、怪人反応の分布図、プリティミューの出現記録、そして第八話ミラクルハニー作戦の失敗報告が、やけに整ったフォーマットで表示されている。


 整っている。


 非常に整っている。


 整っているからこそ、失敗の文字がよく目立った。


 ゲル大佐は、長机の上に置かれた紙の報告書を見下ろしながら、片手で胃のあたりを押さえていた。


「……なぜ、敗北報告というものは、いつもこんなに読み応えがあるのだ」


 机の上には、胃薬の瓶が三本並んでいた。


 一本は開封済み。


 一本は予備。


 もう一本は、精神安定用の見せ瓶である。


 ゲル大佐は、開封済みの瓶から錠剤を二粒出し、水で流し込んだ。


 その直後、会議室の自動扉が開く。


 戦闘員42号が、大きな資料束を抱えて入ってきた。黒い全身スーツに白い番号。いつものように、真面目なのか間が抜けているのか判別しづらい歩き方だった。


「大佐、残骸回収班から報告書です」


 ゲル大佐は、ゆっくり顔を上げた。


「また報告書か」


「はい」


「今度は何の報告だ」


「過去敗北怪人に関する残骸回収進捗、およびプリティミュー再接触データ採取可能性についての中間報告です」


「長い」


「表題です」


「表題からして胃に悪い」


 42号は、抱えていた資料を机に置いた。


 どさり、と音がした。


 ゲル大佐の眉間に皺が寄る。


「……厚くないか」


「いえ、今回は厚さ控えめです」


「何ページだ」


「七十二ページです」


「控えめの基準を見直せ!」


 42号は、少し困ったように首を傾げた。


「前回のマンティスシザー関連切り抜き分析資料は百三十六ページでしたので、半分くらいです」


「そういう比較で現場を安心させようとするな」


「すみません。自分、数字には弱くて」


「弱い者がページ数で攻撃してくるな!」


 ゲル大佐は、報告書の表紙をめくった。


 第一章。


 敗北怪人残骸の有用性。


 第二章。


 敗北時におけるプリティミュー攻撃反応の希少性。


 第三章。


 怪人細胞片に残留する能力反応の再抽出について。


 第四章。


 残骸影生成実験。


 第五章。


 今後の応用可能性。


 ゲル大佐は、そこまで読んで報告書を閉じた。


「……誰が作った」


「本部研究局からの共有資料です」


「本部研究局」


 ゲル大佐の声が低くなる。


 戦闘員42号は、少し姿勢を正した。


「はい。ドクター・モルス名義です」


 その名前が出た瞬間、会議室の空気がわずかに冷えた。


 実際に温度が下がったわけではない。


 だが、モニターの光が少し青ざめたように見えた。


 ゲル大佐は、ゆっくりと胃薬の瓶に手を伸ばした。


「……来るのか」


「はい?」


「本人が来るのか、と聞いている」


「ええと、予定表では、本日二十時に――」


 42号が言い終えるより早く、会議室の照明がふっと落ちた。


 真っ暗にはならない。


 ただ、天井の蛍光灯が一段階、光を失う。


 壁面モニターの映像が一斉に暗転した。


 普段なら、首領Xの通信が入る時に似ている。


 だが今回は違った。


 通信画面ではない。


 ゲル大佐の背後。


 普段は閉じたままの自動扉が、音もなく開いた。


 そこから、一人の男が入ってくる。


 白いコート。


 黒い手袋。


 整えられた髪。


 血色の薄い顔。


 年齢は、若くも見えるし、ひどく老いても見える。


 医師にも見えた。


 葬儀屋にも見えた。


 あるいは、病室と霊安室のどちらにも同じ足取りで入っていく男。


 そんな印象だった。


 男は、会議室の中央まで進み、丁寧に一礼した。


「お初にお目にかかります、ゲル大佐」


 声は、穏やかだった。


 不快なほどに。


 ゲル大佐は、椅子に座ったまま男を睨む。


「貴様が、本部研究局のモルスか」


「ええ」


 男は薄く微笑んだ。


「敗北怪人解析担当、ドクター・モルスです」


 戦闘員42号が、ほんの少し身を引いた。


「敗北怪人解析担当って、嫌な部署名ですね」


「黙っていろ」


「はい」


 42号は即座に黙った。


 だが、言いたいことはゲル大佐にもわかった。


 嫌な部署名だった。


 ただの研究員。


 ただの技術顧問。


 ただの怪人開発担当。


 そういう呼び方なら、まだ理解できる。


 敗北怪人解析担当。


 その名称は、怪人が敗北することを最初から業務の中に組み込んでいる。


 ゲル大佐は、椅子の肘掛けを指で叩いた。


「現場作戦への介入は、最小限にしてもらう」


「もちろんです」


 モルスは、微笑みを崩さない。


「私は現場を尊重します」


「では聞こう」


 ゲル大佐は、机の報告書を指で弾いた。


「現場を尊重する者が、なぜ勝手に残骸回収を進めている」


 モルスは、少しだけ目を細めた。


 怒ったわけではない。


 むしろ、興味深い問いを聞いた時の顔だった。


「大佐。敗北とは、廃棄物ではありません」


 静かな声だった。


 会議室に、妙によく響いた。


「もっとも価値の高い実験結果です」


 ゲル大佐の表情が、明確に険しくなった。


「怪人を素材扱いするな」


「素材ではありません」


 モルスは、さらりと言う。


「症例です」


「余計に悪いわ!」


 42号が、小さく頷きかけて、慌てて姿勢を正した。


 モルスは、ゲル大佐の怒気を受けてもまったく怯まない。


 彼は手袋をはめた指で、机の上の報告書を静かに撫でた。


「蜘蛛男の拘束糸。蝙蝠伯爵の超音波器官。レイディスコーピオンの毒針。サラセニア・ルージュの蜜腺。マンティスシザーの裁断刃。カメ・レオンの偽装皮膜。ミラクルハニーの幼若化毒針」


 ひとつひとつ。


 まるで美術品の名前を読み上げるように。


 あるいは、解剖台に並べた臓器を確認するように。


 モルスは続けた。


「いずれも、単体では不完全でした。作戦遂行時には能力に偏りがあり、環境依存性も強かった。ですが、プリティミューとの戦闘を経たことで、極めて興味深い反応を示しています」


「……興味深い、だと」


「ええ。敗北の瞬間にこそ、怪人細胞はもっとも鮮明な変化を残す」


 モルスは、モニターへ視線を向けた。


 暗転していた画面が、一枚ずつ点灯する。


 そこに映し出されたのは、過去の戦闘映像だった。


 蜘蛛男が吹き飛ばされる瞬間。


 蝙蝠伯爵の翼が音波で裂ける瞬間。


 レイディスコーピオンの毒針が砕ける瞬間。


 サラセニア・ルージュの根が断たれる瞬間。


 マンティスシザーの編集コアが粉砕される瞬間。


 カメ・レオンの偽装皮膜が剥がれる瞬間。


 ミラクルハニーの蜜タンクが割れる瞬間。


 すべて、プリティミューのハンマーが振り抜かれた後の映像だった。


 ゲル大佐は、無言でそれを見つめた。


 負けた部下たちの記録。


 作戦失敗の記録。


 上に提出したくなかった記録。


 だが、モルスの目には違うものとして映っている。


 失敗ではなく、実験結果。


 損耗ではなく、成果。


 敗北ではなく、採取の瞬間。


「すべて、プリティミューに敗北したことで真価を得ました」


 モルスは、そう言った。


 ゲル大佐の声が低くなる。


「貴様、敗北を前提にしていたのか」


「私ではありません」


 モルスは、穏やかに答えた。


「首領Xは、観測をお望みです」


 その名が出た瞬間、会議室の空気がさらに沈む。


 ゲル大佐は、モルスを睨んだまま黙った。


 反論はできない。


 首領Xの名を出されれば、それは命令の根に触れる。


 だが、納得したわけではなかった。


 ゲル大佐にとって、怪人は兵器だ。


 人間を脅かし、プリティミューを攻撃するための戦力だ。


 悪の組織の幹部として、その扱いが善良であるはずはない。


 それでも。


 現場で使った怪人には、作戦名があり、役割があり、失敗報告があり、撤退命令がある。


 少なくともゲル大佐は、倒れた怪人を「終わった部下」として処理していた。


 モルスは違う。


 倒れた後からが、本番だと思っている。


 その違いが、ゲル大佐の胃のあたりを、錠剤では届かない角度から締めつけた。


 その時、会議室の正面モニターが、完全な黒に染まった。


 黒の中央に、白い仮面のアイコンが浮かび上がる。


 首領X。


 ゲル大佐は即座に立ち上がった。


「はっ、首領X!」


 戦闘員42号も、慌てて敬礼する。


 モルスだけは、一礼した。


 その動きは丁寧だったが、畏怖ではない。


 挨拶。


 ただの手順。


 ゲル大佐は、それにもわずかな不快感を覚えた。


 仮面アイコンから、低く加工された声が響く。


「ゲル大佐」


「はっ」


「ドクター・モルスの残骸回収計画を承認する」


 ゲル大佐の表情は動かなかった。


 だが、拳だけがわずかに固まる。


「……承知しました」


「プリティミューは、怪人を倒すことに慣れ始めた」


「はい」


「蜘蛛を砕き、蝙蝠を落とし、毒を薄め、花を枯らし、刃を折り、偽装を剥がし、蜜を砕いた」


 首領Xの声は、淡々としていた。


 勝利の羅列。


 それは本来、ジョーカーにとって屈辱であるはずだった。


 だが首領Xは、敗北を数える声に、わずかな落胆も滲ませない。


「次は、倒した後に何を見るかを観測せよ」


 ゲル大佐は、僅かに眉を寄せた。


「倒した後、ですか」


「そうだ」


 白い仮面アイコンが、わずかに明滅する。


「勝利の跡に残るもの。敗北した者の扱い。それを見た時、彼女は何を守ろうとするか」


「……」


「彼女の正義は、勝つためだけのものか。倒した敵の終わり方にまで反応するものか」


 ゲル大佐は、答えられなかった。


 首領Xは、さらに続ける。


「観測せよ」


「はっ」


「そのために、グレイヴコンドルを用いろ」


「承知しました」


 通信は、それだけで途切れた。


 モニターが暗くなり、会議室に機械音だけが残る。


 ゲル大佐は、ゆっくりと席に戻った。


 背もたれに体を預ける前に、モルスの声がした。


「グレイヴコンドル」


 呼びかけは、短かった。


 だが、天井の影が動いた。


 会議室の照明が届かない梁の上から、黒い翼が広がる。


 音もなく。


 埃すらほとんど落とさず。


 一体の怪人が、会議室の床へ降り立った。


 黒と灰銀の装甲。


 墓守の仮面のような顔。


 コンドルの嘴を思わせる鋭い輪郭。


 喪服のような翼。


 腰には、小さな黒い棺がいくつも吊り下がっている。


 グレイヴコンドルは、片膝をつくように礼をした。


「お呼びでしょうか、ドクター」


 ゲル大佐の眉間に皺が深く刻まれる。


「貴様、いつからそこにいた」


「先ほどからでございます、大佐」


「会議室の天井を止まり木にするな」


「失礼いたしました。墓地には高い枝が多いもので」


「ここは墓地ではない!」


 42号が、小さく手を挙げた。


「あの、大佐。ジョーカー帝都支部の会議室って、雰囲気は墓地に近い気が――」


「黙れ」


「はい」


 モルスは、グレイヴコンドルに向き直った。


「廃劇場での再接触データは確認しました。残骸影の起動、プリティミューの嫌悪反応、いずれも良好です」


「光栄です」


「次は、プリティミュー本人の戦闘接触データを採取してください」


「承知しました」


 グレイヴコンドルの翼の内側で、小さな棺がかすかに鳴った。


「可能であれば、装甲片も」


「はい」


 モルスは、ほんの少し首を傾ける。


「可能なら血液も」


「おい」


 ゲル大佐の声が、低く会議室に落ちた。


 42号がびくっとする。


 グレイヴコンドルも、ほんのわずかに翼を畳んだ。


 モルスだけは、微笑んだままだった。


 ゲル大佐は立ち上がり、机に両手をついた。


「やりすぎるな」


「もちろんです、大佐」


 モルスは、穏やかに答えた。


 その穏やかさが、かえって信用ならなかった。


「プリティミューは、首領Xの重要な観測対象です。損壊させるつもりはありません」


「今、血液と言ったな」


「微量です」


「量の問題ではない」


「では、表現を改めましょう。生命活動に影響しない範囲での生体試料採取です」


「余計に悪いと言っている!」


 42号が、ものすごく小さな声で呟いた。


「今日の大佐、だいぶ正論ですね」


「聞こえているぞ」


「すみません!」


 モルスは、黒い手袋の指を軽く組んだ。


「ご安心ください。生きたままの方が、観測期間が長い」


 その一言で、会議室が静まり返った。


 ゲル大佐は、胃薬の瓶を握った。


 握りしめた。


 瓶が、ぎし、と嫌な音を立てる。


 42号が慌てて言う。


「大佐、瓶が割れます!」


「黙れ。今、私の理性の方が割れそうだ」


「はい!」


 ゲル大佐は、どうにか瓶を机に戻した。


 モルスは、その様子すら観察対象のように眺めていた。


 ゲル大佐は、その視線が気に入らなかった。


 人の胃痛までデータにしているような目。


 怪人の死骸も。


 プリティミューの戦闘も。


 自分の苛立ちも。


 すべて、モルスにとっては実験室の中の反応でしかないのだろう。


 モルスは、会議室のモニターへ手を向けた。


 再び、映像が映る。


 プリティミュー。


 ミュー・ハンマーを構え、泥臭く走り、転びかけ、文句を言いながらも誰かをかばう科学少女。


 その姿が、幾つもの画面に分割されて表示される。


 出力曲線。


 反応速度。


 変身時の発光パターン。


 攻撃時の波形。


 精神負荷推定値。


 すべてが数字にされている。


 モルスは、うっとりするように目を細めた。


「プリティミュー」


 その声は、怪人を褒める時とも、敗北データを語る時とも違っていた。


 もっと静かで、もっと不気味だった。


「実に美しい適合体です」


 ゲル大佐は、吐き捨てるように言う。


「敵だ」


「ええ。敵です」


「なら、倒す対象だ」


「もちろん」


 モルスは微笑む。


「ですが、彼女の敗北データは、まだ採取できていない」


 グレイヴコンドルが、静かに翼を広げた。


 黒い羽根が一枚、会議室の床へ落ちる。


 それは床に突き刺さり、赤紫色に脈打った。


「では、墓場へ招きましょう」


 グレイヴコンドルの声は、葬儀の案内人のように丁寧だった。


 ゲル大佐は、黙ってその黒い羽根を見下ろした。


 首領Xは観測を望んでいる。


 モルスは採取を望んでいる。


 グレイヴコンドルは残骸を拾う。


 そしてプリティミューは、きっとまた現場に来る。


 来てしまう。


 そういう少女だと、ゲル大佐はもう知っていた。


「……グレイヴコンドル」


「はい、大佐」


「プリティミューを殺すな」


「承知しております」


「一般人への被害も最小限に抑えろ」


「墓場に無関係な参列者は不要ですので」


「その言い方もやめろ」


「善処いたします」


 ゲル大佐は、深く息を吐いた。


 胃が痛い。


 だが、胃痛だけでは済まないものが動き始めている。


 ジョーカー帝都支部の会議室に、黒い羽根が突き刺さっている。


 その羽根の影は、まるで墓標のように長く伸びていた。

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